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瀬戸音信

                                        下五島地区史跡探訪
                                    人・物・情報の交差する島々の物語
                                        上五島の歴史と文化・風土
                  (原典:『創立10周年記念誌 上五島の歴史と風土』より)






富江石倉



大宝寺



井持教会ルルド



大瀬崎断崖・灯台



遣唐使碑



遣唐使碑解説




下五島地区史跡探訪

【平成二十年六月十四日】

下五島地区史跡探訪(平成二十年度)

◎案内担当 榎田弘(五島市ふるさとガイドの会)

      松尾實(文化財審議委員)

◎実施要領 土井ノ浦港・出発〜解散(その他省略)

◎探訪経路 @常灯鼻・福江城跡(車窓)→A富江石蔵→B大宝寺→C井持浦教会ルルド→D大瀬崎灯台・断崖→E高浜ビーチ(車窓)→F遣唐使ふるさと館(昼食)→G辞本涯(柏崎)→H水の浦教会・城岳(車窓)→I福江港発

◎配布資料 

○『五島福江島むかしむかし』(五島市ふるさとガイドの会U榎田・松田編纂)《富江・玉ノ浦・三井楽・岐宿編》

◎行事概説(解説担当 荒木貞美)

〔目的・参加人数〕下五島地区史跡巡りウォーキング・三十五名

〔史跡説明〕(配布資料ほかより)

石蔵 石造りの火薬や蔵米貯蔵の倉庫で、屋根や木造りの部分はなく石造り部分だけ残っている。宇久島・魚目・青方・椛島からは、年貢は玄米で納められ、富江では、貯蔵にきく籾(もみ)・粟・麦で納められた。富江陣屋の遺構は、この石蔵と実相寺の山門だけである。(南西の幅=二十五メートル 長さ=九メートル 高さ=二・五メートル 壁厚=〇・八五メートル)

大宝寺 大宝寺は、大宝元年(七〇一)に建設された。もとは三輪宗の道融という人が開いたが、その後、大同元年(八〇六)、空海(弘法大師)が唐から帰りに大宝寺によって真言宗に改宗。

「西の高野山」といわれ、ぼけ封じ観音・へそ神様と言われる五重の塔がある。また、最澄(伝行大師)が、寄進した仏像、左甚五郎作といわれる彫刻、江戸宝暦時の十二支、応安八年(一三七五)の梵鐘(県文化財)がある。

井持浦教会ルルド 明治二十八年(一八九五)フランス人宣教師ペルーによって創設され、五島最初のロマネスク様式の朱色レンガ作りの聖堂であった。現在の教会は昭和六十二年に改築された。

 日本で初めてフランスのルルドを模倣して、五島全域の信徒が島内の奇岩・珍岩を持ちより、明治三十二年(一八九九)に建設された。本場ルルドなみのマリア像を収め、本場の霊水を取り寄せ泉水に注ぎ入れた。この霊水を飲むと病が治ると言われ全国の信者の聖地となっている。

大瀬崎断崖灯台 九州本土で最後に夕日が沈むところとして最西端に位置し、東シナ海の荒海に面している。堆積岩の地層の高さ一〇〇〜一五〇mの断崖がおよそ十五q続き、鮮やかな縞模様をなしている。灯台は、明治十二年(一八七九)建てられたが、現在の灯台は、昭和四十六年に改築された。光度二〇〇万カンデラ・光は約五〇q沖合まで届く。

 日露戦争の時にロシアのバルチック艦隊発見の「敵艦見ゆ」の最初の打電を受けた大瀬山無線塔、戦死者や海難事故で亡くなった犠牲者の鎮魂碑、北村西望作「祈りの女神像」がある。

○玉の浦椿 昭和二十二年、玉之浦町七岳の山中で炭焼きの人に発見され、昭和四十八年故藤田友一町長が、長崎市で行われた全国椿展で発表する。花弁に純白の縁どりがあり、真紅の花体とマッチして美しく、「幻の椿」として有名である。

高浜海水浴場(貝津 打ち上げられた白い砂浜、沖の方から海水は、藍色・青色・エメラルド色と変化する。

 頓泊(とんどまり)海水浴場もあわせて、魚籠観音からの眺めはすばらしい。渚百選に選ばれている。

○空海記念碑「辞本涯(柏崎) 僧空海(弘法大師)の書き残した「遍照発揮性霊集」で空海が三井楽と関わりがある事を知った、福江在住の三井楽町人会が遣唐使にゆかりのあるこの地と、第十六次遣唐使船(八〇四)で唐に渡った僧空海と、深く関わりがある事を広く世に紹介し、その遺徳を顕彰するため、同人会の有志により建立されたものである。「辞本涯」(日本のさいはてを去る)の文字は高野山清涼院住職の書である。

遣唐使ふるさと館(浜の畔) 三井楽町の四季折々の自然、歴史、文化、イベントの紹介や遣唐使と万葉をテーマにした展示コーナー、映像の上映をしている。レストランでは地元の婦人会の人たちの手料理がバイキングで味わえる。(曜日で異なる)平成十八年八月十一日「道の駅」に登録される。

○白良ヶ浜万葉公園(万葉の里) 遣唐使の寄港地として万葉の時代に栄え、平安時代には、「蜻蛉日記」にも記された町の歴史を、いまに伝えようと白良ヶ浜丘一帯を整備して公園にした。

 遣唐使船展望台・万葉碑・ローラースライダーや丸太渡り・ターザンロープなどがある。

 「みいらくの わが日のもとの島ならば けふも御影にあわましものを」(散木奇歌集)

○水の浦教会 昭和十三年(一九三八)改築、ロマネスク、ゴチック和風建築が混合した白亜の美しい教会。明治初期キリシタン弾圧あり。その時の牢屋の跡に聖ヨハネ五島の像が建っている。「キリストの道ゆき」が小高い丘に展示されている。

◎探訪随行記(荒木貞美)

 梅雨入り後の平成二十年六月十四日(土)、今回を含め計四回の同時期の史跡探訪計画は、前三回とも悪天候のため中止を余儀なくされ順延となった経過もあり、事務局一同頭痛の種であった天候問題も二日前の事務局会議の段階において当日決行出来るとの見通しのもと実施決定。

 当日は曇天、午前八時二〇分前後より土井ノ浦港待合室へは三々五々参加者が集合し、定刻までに全員揃う(三五名)。待機中の五島海上タクシーに乗船し出発。福江までの航海は波穏やかなうちに奈留・久賀島を右手に見て順調。約四〇分の航海の後、無事福江港桟橋へ接舷する。桟橋上には、揃いの青のハッピを着用した白髪交じりのお二人が出迎えていた。てっきり船舶関係の方かと思っていたら、本日の史跡探訪のご案内を依頼していた榎田・松尾の両先生であった。

 さっそくターミナルにて小用等を済ませて案内のバスへ乗車。バスは榎田先生の案内のもと、本山・大浜・増田を抜けて一路富江をめざす。富江の街の広場にて下車、最初の訪問地、石蔵へと進む。通路はせまい農地の石垣と民家の間を抜けて裏の畑地へと入っていく。ご案内は両先生の他、地元からもお二人の方に立ち会っていただいた。案内をされて旧富江藩時代穀物貯蔵庫として使用されていたという石蔵を見学する。二十五m×九m×二.五m程の容積。石壁厚さは約一mもあろうか。内外とも大変精巧な加工技術により表面仕上げされた切り込みはぎの石組である。屋根は、竣工当時は木造瓦葺であった様でこの部分は朽ちはて存在しない。内外とも長年の風雨にさらされて草が茂っていたが本日の見学の利便を考えて一部刈り取られている。約十五分、時間の制約もあり玉の浦の大瀬崎をめざす。

 途中、日頃めったに通らない海岸のコースをとる。榎田・松尾両先生とも元小学校の校長でもあり説明の中にも学校の現状、廃校の事情等も交えながら通過地区の説明をしていただく。両先生とも上五島地区での勤務経験もあり、湯川会長・永田事務局長とは旧知の間柄とのことである。

 大宝寺では本堂内を見学する。真言宗のお寺という事で堂内にはすでに何組かの現世利益を求めて住職のもとへご相談にきている。十一面観音及び左甚五郎作といわれる三猿の彫刻を見学する。

 見学時間の調整をしながら次の井持浦教会へと移動。ここでの説明は教会のシスターへお願いをする。主に五島最初のルルドにつき説明を受ける。ここで同行の下窄()の思い出話を聞く。下窄()は大東亜戦争中に召集を受けた時、同じカトリックの仲間達と共にこのルルドにおまいりに来て戦地へ向かった事、さらにフィリピン戦線より無事帰還を果たした時もお礼の報告に来たという。

この後、シスターの見送りを受け、この日の主要な目的地の一つである大瀬崎灯台へと向かう。

 バスは急傾斜の山道をグングン進み高度を次第に上げて行く。途中八合目付近とおぼしき所より急に視界が開け、東シナ海・五島灘の大海原の風景が目に飛び込んで来る。断崖絶壁の縞模様の岩石群から成る海岸線。山は深い緑をなす照葉樹林帯が山頂から岸壁上部まで覆い、その下は海岸まで一気に垂直に落ち込む。

 なおもバスは進む。前方に見覚えのある灯台の風景が現れる。本日の天候は必ずしも晴天ではないが、幸いにも視界は良くきく。車内は思わず喜びの渦に包まれる。車は山頂直下の広場でUターンし展望台前で停車。一同展望を堪能する。頃合いを見て集合記念写真の撮影となる。展望台は道路下となるため道路から下を見下ろす形の大瀬崎灯台・東シナ海を背景とする絶好の撮影ポイントである。はたして成果はいかに。場所移動して第二展望台へ。

灯台は明治九年着工、起工明治十一年六月、翌十二年十二月十五日、初点灯。昭和四十六年、現在の灯台に立て替えられた。近くに旧海軍の大瀬崎通信所があり、日露戦争当時、台湾海峡を北上のロシア・バルチック艦隊を発見した信濃丸の「敵艦見ゆ」の無線を受信。朝鮮・鎮海湾に待機の旗艦、三笠へと転送、日本海海戦の大勝利をあげるもととなった。また、大東亜戦争中この沖を通って南方戦線へ赴き、再び祖国の土を踏むことが出来なかった英霊のため、北村西望作「祈りの女神像」を建立している。

 この後、昼食場所の三井楽・遣唐使館へと移動。すでに先着の二団体の大半の人々は、食事は終わっている。幾分遅い昼食時間となったが料理の味は大変美味である。それぞれ発車時間まで館内の売店にて買い物を楽しむ。

 最後の見学地である三井楽・柏の辞本涯へと出発。ここで松尾先生より説明を受ける。風が強い場所だろうか、付近の民家はほとんどが平屋建てである。天然の芝生と溶岩流で形成されたなだらかな黒色の海岸線である。目前に姫島が見える。明治初期、若松の桐古地区の潜伏キリシタンの人々が一時身を隠したとも伝えられる島である。最盛期には岐宿中学校の姫島分校も設置されていたが、高度成長期、せまい土地での将来生活に発展の限界を悟り、大半の住民達は一致結束して希望の新天地を求めて、南米へと旅立ったという。時の流れは島から生活の匂いを完全に消し去った。現在は全くの無人の島である。

 降車しての見学はこれが最後となり、途中車中において東洋一といわれたブリの赤瀬漁場・水の浦教会・寄神貝塚・茶園遺跡等の説明を受け予定通り福江港へ到着。この日の下五島でのスケジュールを消化完了した。全くお二人の先生方、安全運航に意をつくした五島バスの運転手の方に改めて感謝を申し上げたい。

 今日の日程の終了を待っていたかのように小雨が降り出す。乗船、帰途につく。土井ノ浦港到着前にキリシタンワンド直近の前海へ立ち寄っていただいて参加者の一人森下氏より船中にてこの場所の由緒についてご説明を受ける。ほどなく土井ノ浦港着岸。会長のごあいさつの後解散となる。

【参考資料】浜木綿(五島文化協会同人誌六七号)的野圭志編

 以下は両先生指導による車内での合唱歌である。

○岐宿の子守歌     松山 勇編集

1.ねんねんしなはれ ねる子はみじょか

   おきてなく子は つらにくい

   おきてなく子は つらにくい

2.あらよつらさよね 他人のめしは

   骨はなけれど のどにたつ

   骨はなけれど のどにたつ

3.いやよいやよと 子の守りやいやよ

   子からせがられ おやからいわれ

    世間の人から なおいわれ

4.ひっちょこまっちょこ

   酒屋の子守 りゃ

    酒をのませて 唄わせて

     あめがた二本で ねせつけた

5.あらよつらさよね つれこに継子

   もとの後家女で あればよい

   もとの後家女で あればよい

6.親ばもたん子は 磯辺の千鳥

   日暮れ夜ぐれは泣いて暮らす

    指をくわえて 門に立つ

○喜びも悲しみも幾年月(いくとしつき) ※映画主題歌

1.おいらの岬の 灯台守は

   妻と二人で 沖行く船の

    無事を祈って灯(ひ)をかざす  灯をかざす

(2.省略)

3.離れ小島に 南の風が

   吹けば春来る 花の香(か)便り

    遠い故郷 思い出す  思い出す

                                                                  (文責 荒木貞美)