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瀬戸音信

                                     新魚目上五島地区神社仏閣散策
                                    人・物・情報の交差する島々の物語
                                        上五島の歴史と文化・風土
                                    (原典:『創立10周年記念誌 上五島の歴史と風土』より)






祖父君神社狛犬



山中観音像



元海寺山門



石造三体神



政彦神社



上五島神楽・獅子舞



 

新魚目上五島地区神社仏閣散策

【平成二十三年五月二十一日】

新魚目上五島地区神社仏閣散策(平成二十三年度)

◎案内担当 本会=森下正光・前田賢實・永田寛孝・荒木貞美

      教育委員会=平山好子・平瀬千香子

◎実施要領 集合・解散=役場本庁駐車場(詳細省略)

◎散策経路 @祖父君神社(浦桑)→A常楽院(浦桑)→B元海寺(榎津)→C丸尾神社(丸尾)・鉄川与助生家跡→D政彦神社(奈摩)→E矢堅目の塩本舗で昼食(冷水)→F上五島一の大ツバキ(青方)→G青方家館跡(青方)→H青方神社(青方)・神楽上演見学。

◎配布資料 『新上五島町内散策《新魚目・上五島編》』(教育委員会編纂)・「丸尾神社について」・『歴史散策資料(政彦神社由緒と文化財・上五島の歴史と文化・上五島神楽の歴史と文化)』(政彦神社宮司・吉村政徳編)

◎行事概説(解説担当 荒木貞美)

〔目的〕町民の文化財に対する意識醸成・高揚のための事業。

〔参加人数〕 七十六名(関係者も含む)

○散策個所説明(配布資料ほか)

@祖父君神社 神社の創始は判然としないが、文明五年(一四七三)頃と推定されている。有川の祖母君神社との関係が深く祖父君、祖母君の二神は、有川入り口の万福籠瀬に陰陽神の神として祀られていた。そして陽神を西の浦「いたづづき瀬」に、陰神を祖母瀬に奉還された。その後さらにこの二神は、現在地に移されている。藩政時には魚目掛の総社として栄え社領八石九斗四合を賜る。祖父君神社の神殿に石造りのこま犬が一対おかれているが、現在その制作年代制作地不明であるが他のこま犬に比べ古さを感じさせる形で、かなりの年代を経過したものと思われる。

A常楽院 法輪山常楽院と称する。曹洞宗通幻派に属する禅寺である。創設は寛永一○年(一六三三)であり、開山は棟屋天梁和尚と言われる。当寺に山中観世音像が祀られているが、この観世音像は平安時代(七九四〜一一九一)の唐仏と言われ木像(楠材)立像である。この仏像は首の部と胴の部が別々に「首の部は頭カ島」に胴体の部はムクロ島」に流れ着いたが、これを有川の住民が拾い上げ一体にまとめて堂崎の浜に小祠をつくりこれを祀った。これを知った魚目の漁民は、「自分たちの稼ぎ場である海域に流れ着いた物は自分たちに所有権がある」と主張し榎津に堂を建立し仏像を祀り、これを常楽坊と称した。村人はこれを山中観音と呼ぶ。明治八年無住寺の廃しにより、常楽院にこれを遷した。この仏像は昔から秘仏とされ、現在でも三十三年ごとの開扉が守られている。藩政時代には漁の守護仏として、寺領一○石九升四合二勺八才を給されており漁民は、旧暦六月十五日から七月七日まで堂にこもり、その年の大漁祈願と漁場の抽選をしたと言う。また、この常楽院には、他に室町期(一三九三〜一五七三)の木造(桧材)の薬師如来立像が安置されている。また、この地方では珍しい媽祖菩薩像も安置されている。

B元海寺 山号を正光山と称し、真宗西派であり開基は一世残雪である。残雪は紀伊国佐野村真宗西派本願寺、末寺西照寺の二男であったが、正保三年(一六四六)当時紀伊国佐野村より、いわし漁のため毎年往来していた佐野村の漁師法村、道津氏らの誘いにより来島し大曽浦に草庵を設け浄土真宗布教にあたる。しかし、富江藩の分知により代官所が榎津に移ることにより住民の移動もあり、残雪も意を決し榎津に移り住む、幸い無住の蔵伝で布教をなし延宝三年(一六七四)藩主への誓願により元海寺を創建。文政元年(一八一八)六世泰翁、現在地に移転。現在の本堂は明治二十六年(一八九三)、山門も大正十三年十一世若水代に建立されている。

C丸尾神社 由緒沿革は、不詳。旧神社解体時の社殿裏の石碑によると、文化元年(一八〇四)創建となっている。社殿の老朽化と裏山の崩れで、現在地(丸尾郷)に、昭和六十年(一九八五)に新築。ご祭神は、須佐乃男命(すさのおのみこと)。現在、境内神社(びわ神宮)のご神体として、神社裏に石造三体神が祭祀されている。三体の内、二体は恵比寿神だが、一体は恵比寿神と弁財天を混合したもの。顔が弁財天で琵琶を抱えているのが特徴。

D政彦神社の由緒

一、社名 政彦神社(古称「比古宮」「正彦宮」) 口伝によれば、八百数年前の創建時には、木か石の祠を立てて里人はそこを「垣の内」と称し、「比古宮」(ひこのみや)と名付けたという。

その後、いつの時代から「まさひこ」の名前になったかは定かでないが、当社に残る最古の棟札(貞享二年・一六八五年)は、社名を「正彦宮」と記している。「比古宮」「正彦宮」「政彦神社」と名称の変遷はあるが、ご祭神が政(まつりごと・祭祀)を司る男(彦)の神であることから政彦の名がついたとする説もある。

二、鎮座地 長崎県南松浦郡新上五島町奈摩郷宮の上

 古来より神社の建立場所を定める際には、陰陽思想などにより「南向きで前面に川を配する」地形を理想とする。青方神社も網上の客人神社も南向きで前に川が流れているのは、この考え方から来ている。政彦宮も八百数年前の先人たちは、社殿を南向きにしたかったはずだが、奈摩の地形からそれは無理であった。それで郷内で一番大きい浜熊川の川べりを選んで社殿を建てた。現在、社殿が建っている所の字名(あざめい)を「宮の上」という。豊臣秀吉の太閤検地の時から字名が整理されたことを考え合わせれば、貞享二年にはすでに字「宮の上」の小字(こあざ)は使用されていたであろう。

三、ご祭神(天児屋根命)ご祭神は、奈良の春日大社の「天児屋根命」(あめのこやねのみこと)という神様で、全国に同じご祭神を祭っている神社が約三千社ある。天児屋根命は藤原氏の遠祖で、天照大神が弟の須佐之男命の横暴により、天岩戸(あめのいわと)におかくれになったとき、祝詞(のりと)を奏して岩戸から天照大神をお出まし頂いた神さまで、祭祀(まつりごと)を司る文物智育の神とされ、コヤネのミコトの神名の由来が「天の声音の命(こえねのみこと)」を意味しているところから、そのご神徳は、善言美詞の神、言霊(ことだま)の神、政治(まつりごと)の神、学問の神、文化学芸の神として信仰をあつめている。

四、神社の創立

 鎌倉時代初期の承元三年(一二〇九)に、小値賀と中通島二島の地頭職(じとうしき)つまり現地の代官として赴任した藤原通高(ふじわらみちたか)とその弟家高(いえたか)が、この奈摩の地に社殿を造営して藤原氏の祖神である天児屋根命を奈摩郷の鎮守神として祭り「正彦宮」と称したのが始まりと伝えられている。このことから、当社の創建を承元三年としている。また、藤原高光のときに、分霊して曾根郷の「正彦神社」が創建され、さらに、広瀬に住んでいた住民二十余名が福江沖に浮かぶ椛島の伊福貴郷に移住するとき、当社の神を分霊して社を建立したのが、今の椛島の「鷹ノ巣神社」という。

E矢堅目の塩本舗(「散策随想」の項参照)

F上五島一の大ツバキ 稗ノ口(ひのくち)の大椿といい、平成十六年十一月の調査では、胸高幹回りが二・一m。上五島一を誇る。樹齢は、およそ三五〇年と推定されている。

G青方家館跡(「散策随想」の項参照)

H青方神社・神楽上演見学

 創建期不詳。神社の記録によれば、寛弘三年(一〇〇六)領内に高麗の賊が攻め入った時、当時の領主清原氏は、外敵降伏を祈願し退散させた。同年八月に社殿を建立し大己責命を祀ったことが始まりとされる。建久二年(一一九一)、藤原尋覚は、社殿を造営。歴仁二年(一二三九)、国常立命、国狭槌命、瓊々杵命、天忍穂耳命、惶根命、伊邪耶美命の六神を加え、三王宮と号して領内の総氏神とした。明治四年(一八七一)、「青方神社」に改称された。

【上五島神楽】(国選択無形民俗文化財)旧上五島地区と新魚目地区に伝わる神楽で、数百年前から各神社のお祭りの折に、氏子、住民の豊年豊漁の感謝と繁栄を神前に祈願して御神意を慰め、神人の和楽、また神人の合一を図る古い伝統と歴史を持つ神事芸能。素朴で勇壮、メリハリのきいた律動的な舞い方は、神楽本来の清々しい魅力を持っていると言える。現在、三十番の神楽が伝承されている。中でも獅子舞いは勇壮で、天狗と獅子の威力で無病息災、悪魔祓いの信仰がある。(瀬音18「おもしろ神楽(平成十六年)」参照)

◎散策随想(担当 荒木貞美)

○概説 今回の町内歴史散策は、これまで行なってきた教会堂を主とした探訪から、「神社仏閣」に視点を移し、この趣旨に沿った散策となった。幸い、上五島地区は、辺境の地ながら千年を超える歴史を有し、この地に存在する宗教施設や、中世、この地域を領有した統治者の関連史跡等も多く残存している。これらを一般町民に紹介し、郷土に対する理解をより一層深めてもらうことを目的として実施された。集合・解散は、役場本庁駐車場。小雨降る中、出発に先立ち、教育委員会担当者から挨拶と散策経路などの説明があり、散策終了後、本会の担当者と会長からの挨拶と解散宣言によって、行事は滞りなく終了した。

○祖父君神社 最初の探訪地。一般参加者六十七。全員社殿内に集合したところで、宮田宮司の説明を聞く(詳細は、「新魚目地区散策(平成十四年度)」参照)。珍しい狛犬一対が保存されている。

○常楽院 二番目の探訪地(詳細は、「新魚目地区散策(平成十四年度)」参照)。宗派は、曹洞宗通幻派という。旧市街地の一段上にあり、土地が狭いためか、道路脇から寺院上まで墓地が広がっている。

 案内担当の前田氏から簡潔明瞭な説明あり。三十三年目に御開帳と言われる「山中観音像」と「媽祖像」(航海・漁業の守護神・道教の女神)を拝観することが出来た。また、朝鮮渡来の大般若経経典も伝わっていて、海外との交流が偲ばれた。

○元海寺 榎津の海岸道路までは、家並に挟まれ直角の曲り角を通らなければならなかったが、運転手の巧みなハンドル捌きで無事通過。法事のため内部見学は出来なかったが、車内で説明の後、外から静かに見学。山門は、地元建築家の鉄川与助の作。脚部の上に楼閣状の建造物を乗せた中国風山門で、脚部のアーチは煉瓦造り。一見、龍宮城の門を想像させる。

○丸尾神社 (「散策個所説明」の項参照)

鉄川与助生家跡探訪 丸尾神社の裏手にあり、家屋本体は、平成九年、老朽化のため解体され、敷地の塀のみが残されている。煉瓦積み塀で当時の個人住宅としては、立派な施工がなされている。

○政彦神社 神社由緒沿革については、「散策個所説明」の項参照。

 吉村宮司の出迎えを受け、会長ほか参加者一同拝礼して、配布資料に基づいて、「由緒沿革」「上五島の歴史と文化」(本誌「まえがき」に掲載の引用文に同じ)「上五島神楽の歴史と文化」の説明を聴取。

 豊富な知識、さわやかな語り口は、他の追随を許さない。同神社は、青方家と深い関わりのある事を理解する。

○矢堅目塩本舗 正午となり、政彦神社を跡にこの日の昼食会場に設定されている当該本舗に向かう。ここは、川口氏が経営する製塩場で、天然の食塩を製造販売している。昼食後、施設内に設置されている地元特産品販売場を見学。思いの外、多品種の品揃えである。施設前面は、奈摩湾で木製のテラスが設けられ、湾口の「矢堅目岬」が遠望できる。夏には、ビアホールが開設されるという。ここで記念撮影し次の探訪先へ移動する。

○青方氏居館跡 青方家は、八〇〇年余の歴史を有する上五島地区の名門。同氏は、前半の四〇〇年余を青方にあって、十三世紀前半から十七世紀半ばまで、この地を領有した。第二十二代五島藩主盛利のいわゆる「福江直り」(福江城下への家臣団の強制移住政策)により、やむなくこの地より福江へ移住を余儀なくされた。青方家は五島家にあって主に五島藩江戸屋敷で長らく家老職を勤めた。

 旧青方村役場付近の町道沿いの比較的高い石垣上の敷地に青方における青方氏の居館跡がある。裏の殿山が青方氏の山城であり遺跡も残存しているという。明治以後、子孫の青方光毅氏は、故郷・青方に戻り、村長・長崎県議を勤めた。また、同氏の在任中、教育施設の充実、産業の振興にも力を注ぎ、村民の先頭に立って生活改善策の督励、すなわち勤労精神の振作(奮い起こさせること)・貯蓄倹約・税金完納運動等、その実績は、当時の国定教科書に「肥前国青方村の美風」として全国的に紹介された。現在、石油備蓄記念会館正面脇に教科書の一部内容が石碑に刻まれて掲示されている。当時の勤労の美風は、現在も町民の一人一人の中に垣間見ることができる。なお、青方家には、学会をにぎわした中世古文書『青方文書』(内容は、青方家の領主権に関わる中世裁判記録、松浦党一揆契諾状関係、漁場(網代)権、その他諸々が含まれている)が伝来したこと、原本は、長崎県立図書館に収蔵されていること、更に、散策解散に先立ち、明治十年の西南の役で戦傷死した青方家子孫の青方謙造(二十二才)の説明、明治以後から現代までの青方湾内水面埋め立て工事の各年代の概要の説明を行ったことを付言する。

○青方神社(由緒沿革は、「散策個所説明」の項参照)

○上五島神楽見学 本日最後の行事。一同、青方神社拝殿に上り、お祓いを受けた後、拝礼。神楽実演に先立ち、吉村政彦神社宮司より説明を受ける。今回の実演は、上五島神楽三〇番の内、五番が披露された(実演スナップ写真は、瀬音18「おもしろ神楽」に掲載)。

 演目と内容は、以下の通り。

1〔折敷舞〕(おりしきまい)〈立言〉君が代の 久しかるべきためしには かねてぞ植えし住吉(すみのえ)の松

〈解説〉神にお供えをする折敷という盆を持って舞う舞で、立言葉から天皇陛下のご長寿を祈念し祝福する舞。上五島神楽の中でも一番曲芸的要素に富み、緊張感あふれる荒芸の舞。

2〔平舞〕(ひらまい)〈立言〉千早振る神の御前に扇立てて前ばぞ開く天の岩戸

〈解説〉この舞は、扇を天の岩戸にみたてて岩戸が開かれる形を擬した舞で、上五島神楽の中でも優雅な舞の一つ。

3〔山賀〕(やまが)〈立言〉この神酒(みき)は わが神酒ならぬ神の神酒 大物主のかみし神酒かみし神酒 幾久(いくひさ)幾久

〈解説〉翁と媼が仲睦まじい愛情を表現し、神への感謝をこめて神参りの道中、お神酒をいただく神酒祝(みきほぎ)の舞。

4〔箕舞・豊年舞〕(みまい・ほうねんまい)

〈神歌〉今年しゃ豊年だよ 穂に穂が咲いた 道の小草も米がなる そろたそろたよ稲穂がそろた 白穂見せずに実り穂が とれたとれたよお米がとれた 反のあたりに五六石 とれて喜ぶ国と民 つけよつけつけ やれつけつけ ついてしろめて国納め

〈解説〉五穀豊穣を祈念し、豊年万作を感謝する舞。

5〔獅子舞〕(ししまい)〈立言〉なし

〈解説〉上五島神楽の最後を締めくくる舞で、獅子と天狗による悪魔祓いの舞。舞のストーリーは、獅子が眠りに入らんとするところに天狗が眠りを妨げる。終には獅子が怒って天狗と大合戦となり、参拝客も巻き込んで狂喜乱舞する。

【感想】この日の演目のうち、1・2・5番は、舞手と大太鼓・小太鼓・笛・立言の織りなす神楽であり、特に、胴長太鼓からくり出される鳴動音は、狭い拝殿内にいる参観者を高揚した世界へと導き入れ、舞が佳境にさしかかった頃には、ある種の忘我状態となる。音は、神霊の身振り、手振りが空間に発するものであり、その音を通して神と人は素直に交流ができる。そんな錯覚を感じたのは、私だけだろうか? 3・4番目に演じられた「山賀」「箕舞」は、神楽ながらユーモラスな内容も含まれており、笑いを誘う舞と感じた。最後の演目「獅子舞」が終了後、演目終了の挨拶があるまでの間、全員いずれもしばし茫然とした様子。最後に「上五島神楽保存会」の方々にお礼を述べて「青方神社」を後にした。

【付記】「民俗芸能の種類」(神楽系統)(『図説民俗探訪事典』参考)

 神楽は、清め、祓い、鎮魂(たましずめ)をして、人間の生命力の復活を図ることによって、長寿を祈る芸能である。

 神楽とは、「かぐら」の語源が一般に「神座」(かむくら)といわれているように、神聖な場所に神座を設けて神を迎え、その前で種々の芸能を行なうものである。

 宮廷の御神楽、民間の里神楽とも古い歴史をもつが、民間の神楽は、採物神楽(とりものかぐら=舞人が手に鈴・扇・榊・剣・弓・幣などの採物を持って舞う神楽)、湯立神楽、獅子神楽、巫女神楽(みこかぐら)などの種類がある。 (文責 荒木貞美)