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瀬戸音信

                                         久賀島地区史跡探訪
                                    人・物・情報の交差する島々の物語
                                        上五島の歴史と文化・風土
                   (原典:『創立10周年記念誌 上五島の歴史と風土』より)






旧五輪教会案内




恵剣寺




寺坂吉衛門の墓




牢屋の窄案内




浜脇教会

久賀島地区史跡探訪

【平成二十一年六月十三日】

久賀島地区史跡探訪(平成二十一年度)

◎案内担当 坂谷善衛・伸子御夫妻(観光案内等ボランティアで活動家)

◎実施要領 土井ノ浦出発〜解散(その他省略)

◎探訪経路  @久賀・五輪教会→A恵剣寺、蕨展望台→B牢屋の窄→C細石流→D浜脇教会→E田ノ浦・椿の里(昼食)→F椿原生林→G田ノ浦港発→土井ノ浦

◎配布資料 『五島久賀島の今昔』(上五島歴史と文化の会編纂)《久賀島…田ノ浦・久賀・蕨・猪木編》

◎行事概説(解説担当 荒木貞美)

〔目的・参加人数〕 久賀島史跡めぐり・五十一名

〔史跡等説明〕(配布資料ほかより)

@久賀島の概況 久賀島は面積三十七平方キロメートルと五島では三番目に大きい島であるが平地が少なく、噴火口の北側が海に開いた馬蹄型の島である。人口は最大で昭和二十五年、三九六八名を数えたが、平成十八年には三〇六世帯、五七八名に減少。かつては、田ノ浦は天然の良港として遣唐使船の寄港地であった。明治維新後に起こったキリシタン迫害はこの島から始まり、過酷な圧政に耐えてきた歴史がある。その反動が有為な人材を輩出してきた原動力とも考えられる。昭和三十二年、旧久賀村より福江市に合併した。

イ.行政区=島内に四つの町(久賀・蕨・猪之木・田ノ浦)

 ●集落(二十二地区)=久賀、猪之木、永里、竹山、深浦、浜泊、細石流、野首、大開、幸泊、和木内、折紙、蕨、蕨小島、福見、五輪、外輪、大仁田、市小木、内上ノ平、外上ノ平、田ノ浦

ロ.産業(水産)

 ●車エビ養殖場=弁天白浜●定置網=マルセイ水産(片山)

ハ.宗教施設

 ●神社=石神神社、七社神社、、蕨神社、折紙神社、天満神社、猿田彦神社、大開神社、田ノ浦神社

 ●教会=五輪教会、浜脇教会、牢屋の窄記念聖堂、お告げのマリア修道会

 ●仏閣=禅海寺、恵剣寺、文珠堂、醫王寺、薬師堂、岩屋観音

ニ、植物 ●永里=永里の大椿、クロガネモチ(幹周り四.六五m、高さ十八m)●石神神社=ホルトの木(幹周り四.二五m)クスノ木(幹周り四m)、スダジイ●福見=恵剣寺のスダジイ、エノ木、クスノ木、シロダモ●猪之木=野生のタチバナ●内幸泊=ハマボウ(約五〇株)

A名所案内

イ.五輪教会(有形文化財) 明治十年(一八七七年)マルマン神父の指導のもと五島で建てられた十ヵ所の木造教会の一つであり、久賀、浜脇教会として建立された。明治十四年(一八八一)の事である。その後、昭和六年(一九三一)、老朽化に伴い改築されている点を除けば外観は全く和風である。内部はリブヴォールト板張天井、ゴシック風祭壇等定法どおりの教会建築様式に仕上げている。明治初期を物語る土俗的建築様式をもつ貴重な遺構である。

 なお、この教会は老朽化が激しくなったため、昭和六十年隣接地に新しく教会が建設された。旧教会は当時の福江市が譲り受けて改修工事を行った。

ロ.牢屋の窄殉教記念聖堂 久賀は長崎の浦上四番崩れが続く中、日本で最後の、そして五島におけるキリシタン迫害(五島崩れ)発端となった島である。これは明治六年(一八七三)の高札撤去まで続くが、特に明治三年頃に集中的に発生している。福江、奥浦、水ノ浦、久賀、桐古里、魚目、鯛ノ浦、福見などにおいて藩の下級役人が中心となり、それに同調した郷民の迫害と弾圧が苛烈に強行されたという。久賀島の信者の受難は明治初期におけるキリシタン迫害の頂点をなすものである。わずか六坪の土間に二〇〇名もの信者を押し込め、期間中三十九名が死亡した。

ハ.浜脇教会(区域=久賀全島及び蕨小島) 明治十四年(一八八一)に建立された教会はいたみが激しくなったため解体、新たに昭和六年に五島最初の鉄筋コンクリート造り教会として改築された。旧聖堂は五輪地区へ移築、巡回教会として使用されていた。現聖堂は清水神父、在任中に工費二万七、五〇〇円を以て竣工した。

ニ.恵剣寺(蕨町、福見) 久賀村の禅海寺に残る三二〇年前の記録に恵剣寺の石高「十九石五斗六升二合」とある。その後、寛政五年(一七九三)出火、本尊以下堂宇すべて焼失した。この後、本格的な再建はなされていない。現在の堂宇は大幅に規模を縮小してあり、地元の福見幸太郎氏が管理をしている。言い伝えによれば、赤穂藩四十七士のひとり、寺坂吉右衛門の墓があり彼の武具も埋まっているという。吉右衛門は討ち入り成就の報を浅野家本家に伝えたあと海を渡って弟が住職をしていたこの寺へ隠れ住み、以後、静かに義士の菩提供養に専念したという。

ホ.細石流(ざざれ) 久賀から約八・五キロ隔てた西端の集落であり、そこより少し離れた野首と共に古くから大敷網漁で知られマグロ、ブリ、イカなどの漁獲が多かった。この地に流れ着いた七つの首にまるわる伝説の残る七社神社や建てる時に奇跡が起きたという細石流教会があった。

ヘ.亀河原の椿原生林 昔から久賀には椿の原生林がある。和名はヤブツバキと呼ばれ長崎県の花木である。古来より椿は神聖な木で「椿一升、米一升」と重宝され各家庭で灯火に使うため、一〜二本は植えていた。この椿油の生産額は日本一になっていたこともあり、特産品の一つである。

 峠の頂上に句碑…落椿踏みつつ来れば海近し 内海朝生(朝次郎)

 この句を詠んだ内海朝次郎氏は、前朝日新聞社専務で大阪本社代表の内海紀雄氏の父である。昭和二十一年没。

B集落点描

イ.田ノ浦 遣唐使で知られ、また、明との貿易船や倭寇の船も寄港したといわれ、島内で最も早く開けた。浜百姓が主で藩が指定した「五ヶ所魚場」の一つ。代官所が置かれ藩政の島の中枢として栄えた。住民は他地方からの移住者と伝えられる者が多い。

ロ.久賀(ひさか) 久賀が行政の中心になったのは宝暦年間(一七五一〜六三)代官所が田ノ浦より移ってからである。当時久賀は住民が郷士に取り立てられた家も出て生産、経済力が向上、戸数も増え、人口も島内トップを占めた。往時は田ノ浦と共にオゴ・薪・炭の集散積出し地でもあった。

ハ.市小木(いちこぎ) 五島におけるキリシタン布教後は島内でもキリシタンの多い地であったが慶長の弾圧で住民は根絶された。後年、再度の移住者によって開発がなされたといわれている。

ニ.蕨(わらび) 海に沈んだ高麗島から逃れてきた人々が住み着いたといわれ、各地からの移住者も増えて構成された半農半漁の集落である。昔、藩主一行を暗夜に案内した時にワラを燃やして案内したことから「ワラ火」また、今一つはこの地が蕨の産地であったので集落名になったともいわれる。

ホ.猪之木 別当を交えた平家の落武者達が来島して隠れ住んだのが重別当(現在字名ある)であったと言い伝えのある集落。

ヘ.深浦 藩政時代、久賀島では深浦だけに窯百姓がおり、製塩、炭焼きに従事していた。また海草の採取も行っていた。石高二十石で大浜家の知行地であったことから信徒が多かった深浦とは熱心な信者であった頃の大浜玄雅との関りを感じさせる集落である。

ト.大開(おおびらき) 久賀地区の二、三男が移住して広く開墾したのが地名の由来。その後もキリシタン信者がこれに加わり耕地を拡大していった。これにより久賀一の稲作地となった。

チ.カトリック集落 純カトリック集落は内上ノ平・外上ノ平・浜泊・外幸泊・蕨小島であり、大開・内幸泊・永里・細石流は仏教徒との混合、また折紙は隠れキリシタンとの混合である。

C久賀島が生んだ人物

 ●藤原九十郎と元典親子 一八九三年(明治二六年)九十郎は久賀に生まれ、野村家より藤原伝十郎家に入婿、藤原姓を名のる。五島中、長崎医専へと進み、京都大学医学部助手を経て五島で最初の医学博士となる。京都市に続いて大阪衛生試験所長を経て保険局長となる。後年公害問題の先駆者となってこの問題に取り組み、多くの後継者を育てた。一九四六年、厚生技官となり、保険文化賞を受賞する。死後「藤原九十郎賞」を創設。一九四八年没。

 ●藤原元典 一九一五年久賀に生まれる。京都大学医学部卒。一九五〇年教授。一九五四年退官し、名誉教授を経て京都府公害研究所所長となる。その間、脚気を防ぐビタミンBを研究し世界初の定量法を確立し、日本学士院賞を受賞する。これを武田薬品工業に譲渡しアリナミンとして発売。その謝礼金相当額の十億円を京都大学に寄付して藤原財団をつくり研究費補助に活用されている。日本国民のために貢献した逸材。

 ●平山源一郎 一八八八年(明治二十一)久賀田ノ浦に生まれる。五島中学から神戸高商(現神戸大学)に進む。大正二年、明治鉱業に入社。関係会社、石炭販売の安川松本商店に配属。昭和七年退社し、安川電気製作所営業部長に就任。一九二二年(昭和十一)旭東商会を設立したが大東亜戦争が勃発し解散。戦後(昭和二五)高周波焼入れ技術に着眼し第一高周波工業を設立、平成十七年の業績は資本金六十一億円余、売上高一二〇億円、従業員六〇〇名。耐摩耗性の焼入れ技術で脚光を浴び、鉄道軌条の品質向上に努め新幹線のレールに採用されるなど技術集団の会社。また、郷里の人材を多く採用(凡そ百余名)多くの後輩を採用し、この中には社長永井義忠氏、常務松野利光氏在職中の中村専務がいる。

【参考文献】『五島列島を往く』(尾崎朝治)・『福江市史上巻』(福江市教育委員会)・『浜木綿』(五島文化協会)・『復活の島』(長崎文献社)

Dその他久賀島出身著名人

 ●平山長太郎=廻船業、田ノ浦出身。明治期柳川の詩人、北原白秋の生家は造酒業で海産物問屋も兼務、五島田ノ浦の平山氏とは濃密な商取引があった。没落していく北原家におりに触れて資金を用立てたこともあったという。

 ●藤田辰之=昭和五年当時大阪地裁判事。

 ●内海朝次郎=大正の年五島中卒、後、明治大学卒、同盟通信社政治部記者、昭和十四年調査部長、昭和十八年病気療養のため帰郷、昭和二十一年久賀にて死去。

 ●内海紀雄=前朝日新聞社、代表取締役専務、田ノ浦出身

 ●田中俊廣=現活水女子大学教授(市小木出身)

【参考文献】『福江史誌』

◎探訪随想(荒木貞美)

 今回の久賀島史跡探訪については平成二十年度の下五島探訪の帰途中の海上タクシー内で会員多数の要望を受けて次年度事業に組入れたものである。同地区は上五島から下五島への航路筋から外れた場所にあるために計画段階では島内事情の把握が困難であったが、市販のカトリック関係の調査報告書を入手、これにより島内在住者で観光案内等、ボランティアで活動しておられる坂谷善衛・伸子御夫妻に助力を要請、必要な情報をいただいた。幸いなことに伸子夫人は旧若松町鵜ノ瀬の御出身。私の隣の地区に実家があり、父親とは旧知の間柄で驚いた。この事により、以後の話はトントン拍子に進む。おかげで島内事情が次第に判明してきた。先ず、公共バス路線がない事、宿泊旅館がない事、弁当販売店等がないとの事等に加え、道路事情が悪く、一部(細石流)地区は幅員が狭いため訪問をカットせざるを得なくなった部分もあったが、参加者ほとんどの方々は初めての訪問であり大いに喜ばれた。また、御案内の坂谷伸子さんとは初対面ではあったが、電話連絡等で親しみがあり、同郷出身のよしみでこちらの無理なお願いも聞いていただいた。史跡訪問の経路は前記のとおりであるが一部変更となった。先ず、土井ノ浦港を出港、久賀五輪港へ着岸、この日は波浪なし。乗下船時の事故の心配も杞憂に終わった。全員集合の後、案内者の坂谷伸子さんの御挨拶。旧五輪教会内部の見学、隣接地には小さいながら新教会が併設されている。この地区は隣接地区より道路は峠までは開通しているが峠より五輪地区までは徒歩による移動になるという。教会より峠まで狭い山道を一列となって登って行く。そういえば、ここは歌手の五輪真弓のふるさとだった事を思い出した。ようやくの思いで峠にたどり着く。大半が還暦を過ぎた初老ともいえる方々ばかりである。峠の広場には、この日の参加人数五〇数名の人数に合わせて島内全部のタクシー三台のうち九人乗りマイクロ二台を借りる。その他には七人乗り自家用車二台、三人乗り自家用車三台、坂谷氏を通じて借り受る。運転手も自家用車については氏のボランティアグループである。山中の道路は狭いため窓から道路沿いの樹木の枝、ウラジロの葉が顔をさす。あわてて窓を閉じた。牢屋の窄・恵剣寺・浜脇教会を経て、田ノ浦・椿の里にて昼食。伸子夫人のグループの女性陣より、お茶接待を受ける。終わって、隣接の廃校となった旧田ノ浦小学校をアトリエとして活用しておられる松井画伯の作品を見学する。御本人はフランス在留中との事。

 島の概況、訪問地及び関連説明は前記のとおりである。久賀訪問を終了後土井ノ浦入口でキリシタン洞窟の説明を森下氏が行う。

 この度の久賀島史跡探訪企画は、訪問で得られた以外に大きな収穫があった。それは若松地区に伝わる七ッ山伝説にまつわる七頭子神社(つもりこじんじゃ)に関する事である。旧若松町に存在する関係同名同種の神社が六社ある。この他、場所不明ながら下筋にも存在するという記述が町誌に書かれてあり、数年来、この場所の特定が課題であった。しかし、今回の訪問予定地資料の作製中、福江史誌を調査するうちにそれが判明した。久賀島の七社神社(都合で探訪できず)でありもう一ヶ所は福江大浜の頭子大明神だという。同様に七ッ首漂流にまつわる伝説となっている。この様に数年来の疑問が解決した事で今回の訪問は私にとって二重の喜びとなった次第である。これを以って、この日の史跡訪問は成功裡に終了した。

                 (文責 荒木貞美)