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瀬戸音信

                                       若松奈良尾地区史跡探訪
                                    人・物・情報の交差する島々の物語
                                        上五島の歴史と文化・風土
                                   (原典:『創立10周年記念誌 上五島の歴史と風土』より)






桐教会記念碑



桐教会司祭館跡



キリシタンワンド



福見教会マリア像





若松奈良尾地区史跡探訪

【平成二十一年十月十七日】

若松・奈良尾地区歴史散策(平成二十一年度)

◎案内担当(若松地区文化財保護審議会委員・教育委員会担当者)

◎実施要領 出発(本庁・中五島高校・奈良尾支所)〜解散(浜串)

◎散策経路

 @白魚千軒跡→A桐教会・旧司祭館→Bキリシタン洞窟→Cアコウ樹(奈良尾神社)→D妙典無縁墓地→E米山展望台(昼食)→F福見教会→G廬山の滝→H岩瀬浦・志自岐羽黒神社→I代官屋敷跡→J廬山寺→K浜串希望のマリア像

◎配布資料『新上五島町内散策(若松奈良尾地区内)』(教育委員会編纂)

◎行事概説(解説担当 荒木貞美)

〔主旨〕○町内に存在する貴重な文化的財産である文化財を広く周知するため。○町民に文化財の保護・顕彰を促し、郷土文化の向上に資するため。

〔参加人数〕 大人七十一名(関係者は除外)

○散策個所概要(配布資料ほかより)

@白魚千軒跡【町指定文化財】 中世期、白魚・宿ノ浦・荒川など、若松瀬戸周辺の各浦は、海外交易の中継地点として、船宿・蔵などが立ち並び「白魚千軒」と呼ばれ賑わいを見せていた。この事跡が記録としてまた、伝承として伝わっている。一二五六年(建長八)、青方家高の二男・弘高は、「白魚」の下沙汰職を譲与され、一二六五年(文永二)七〜十月ころからこの地に移住、以後、地名の「白魚」を姓として名乗った。

 元冦のころ、白魚時高は姪浜の警固番役や石築地に従事し、筑後国の狭小な一部の土地を勲功地として配分されるが、この地をめぐって他氏族との間で論争が続いた。

 南北朝期、本家青方氏との間で塩釜の権益をめぐって熾烈な争いが起こり、白魚氏は戦いに敗れて高井旅を経て、熊本の五家荘へ落ちのびて行ったと伝えられている。五輪塔や宝篋印塔のある千人塚はその時の戦死者を祭ったものといわれている。なお、奈良尾町史によると白魚時高は敗走の途次、高井旅の山中で絶命、後年これを悼んだ地元の人々は荒人神社として祀っているという。

A桐教会 一八七七年(明治一〇)仮教会建設。一八九七年(明治三〇)創建。明治三十九年鉄川與助氏施工で大改修(冷水教会施工の前年)。現在の教会は昭和三十三年に場所を移して建設。

 一八六八年(明治元年)、五島にキリシタン弾圧の嵐が吹き荒れた。迫害は久賀島から水ノ浦、楠原に飛び火し、またたく間に全五島に及んだ。信徒たちは苛烈な拷問と死にあえいだ。この教会の信徒たちは、信仰の先駆者・桐教会復活期の先達の遺徳を称えるため、一九七一年(昭和四十六)、彼らの銅像と顕彰碑を教会の前庭に建立した。

 碑文には、あらゆる迫害にも屈せず、信仰を守り通した信者たちの苦難の道程が次のように記されている。「我らの先祖は過酷な迫害に耐え、信仰の遺産を守り伝えてくれた。特にガスパル与作は、十七歳で五島人として初めて大浦天主堂へ参り、キリシタン復活の端緒を開いた。像は大浦天主堂へ参ろうと、指さす姿、又、その父パウロ善七は、相次いだ凄惨な迫害によく耐え、人々を励ましよく信仰を全うした。像は算木責めに合いながらも毅然として祈る姿、台上の石は拷問のため膝に載せられたもの、ミカエル清川沢二郎は伝導師として活躍、約三〇〇人を洗礼に導いた。」長い歴史を刻む白亜の教会は、美しいふるさとの海を見守り、若松瀬戸を往来する船舶の安全を祈るかのように丘の上に静かにたたずんでいる。

Bキリシタン洞窟 旧若松町・土井ノ浦地区の東端に砂浜が美しい白浜と呼ぶ小部落がある。明治の初めの五島を襲ったキリシタン弾圧の余波はこの地区へも波及してきた。桐地区の信徒たちが藩の役人に捕われの身となったことが急報されたのである。ただちに地区の有力者の山下与之助・同久八・下本仙之助らは協議の上、地区住民を当分の間の食糧・生活用具を持ってこの洞窟にかくまうこととした。発見を恐れて当初は煮・炊き物を制限していたが、ある早朝のこと、不用意にも朝食の焚き火の煙が沖を通る船に発見されたために役人に連行され、里の浦で算木責めにかけられ、脚に重度の障害が残ったという。昭和四十二年その悲しみを永く祈念するため「平和キリスト像」建設促進協議会が発足、多くの篤志家の寄付により洞窟入り口に現在ある像が完成した。

C奈良尾のアコウ大樹【国指定天然記念物】 このアコウの大樹は、奈良尾神社の参道をまたぐ形で聳えている巨樹である。この樹の地上七メートルの所から、あたかも人が両脚を大きく開いたように二大支根に分かれている。この開いた根幹の間は幅二mの参道が通じている。

 参詣者は二大支根の間を悠々と通ることができる。地上七mの幹周りは十二m、幹の高さは二十五m、枝張りも大きく枝葉もよく繁茂し、樹勢も旺盛である。推定樹齢は六百年といわれるが幹の横断面が極めて不整形であるために正確には不明である。アコウの大樹は全国で二四〇本程といわれるが、奈良尾の同樹は日本一を誇る。昭和三十六年四月二十七日国指定天然記念物、また、平成二年六月新日本名木百選に輝いた。

D妙典無縁墓地【町指定文化財】 近世漁村として急激な発展を遂げ、今日の奈良尾の基礎を築いた漁師たちの墓地である。慶長の初期より三百有余年の永きにわたった和歌山県有田郡広浦と肥前五島を往来したいわゆる旅漁である。紀州漁師の行動範囲の広さには目を見張るものがある。東は現在の千葉県銚子市から西は豊後瀬戸内というに及ばず、九州の西端、五島奈良尾にまで至っている。しかも自然の力以外全くたよる動力のない時代のことである。郷里を同じくする者達の団結心の帰する偉業であろう。来訪した相当数の者達が奈良尾を永住の地と定め、郷里を遠く隔てたこの最果ての地へ葬られた。現在、妙典墓地に残っている無縁墓とされているものは一六三基を数える。

 なお、明治以後、アコヤ貝による真珠養殖法が開発される以前は天然の貝を採取した。紀州漁師達は遠くオーストラリアのアラフラ海までも出漁、素潜りで白蝶貝等の大型の貝を採取し、大きな成果を上げたという。また、和歌山県は海外移住者が多い県でもある。北米への移住が多いという。全国に覇をなした戦後昭和期の奈良尾巻網船団の壮挙は名もない先祖たちの伝統の上に成り立っていることを痛感するのである。

E米山展望台 旧奈良尾・若松町境の米山山頂に建つ。美しい五島灘・若松瀬戸が眼下に開け、白亜の桐教会の影が水に映り訪れる者の旅情を誘う。奈良尾地区は長崎〜五島間のフェリー発着中継所として、上五島地区の玄関口に当たる。米山展望台は県観光百選の地として脚光を浴びている。波静かな海を滑るように走る船の航跡や変化に富んだ西海国立公園は絶景である。とりわけ瀬戸に沈む夕日は美しくいつ見ても感動的である。

F福見教会 一七七六年(安永五)に大村藩領、外海地方から信仰の自由を求めてキリシタン農民の五島移住が始まったといわれている。福見地区には五名の男女が移住、信仰の灯をともした。一八〇〇年の頃という。

 長い潜伏生活の後、明治六年禁教が解除された。現在の御堂は大正二年に信者の奉仕で完成献堂、以来信徒の心のよりどころとして地区に深く根をおろしている。

 教会は左右にステンドグラスが張られ、高い梁の船底天井等エキゾチックな雰囲気が漂っており、高さ四m・長さ三十二mの海岸の丸石で積み上げた石垣の上に建っている。

〔福見の遠見番所〕【町指定文化財】 異国船の監視・通報のため、一六四七年(正保四)奈良尾・中山の番岳山頂に遠見番所が設置された。江戸幕府の特命を受け、従来の七ヶ所に新たに四ヵ所が設置された。そのうちの一つである。この番所は監視のみならず、後には藩主の参勤交代の出府、帰藩の際の通報も行った。これは岩瀬浦の「羽黒権現宮」に参詣し旅の安全祈願の神楽を奏上するのが習わしになっていたことによる。現在も番所跡が残っている。標高三〇八m。

G廬山の滝【町指定文化財】 高さ六〇m、男女両滝が途中で合流し別名夫婦滝といわれ、五島では最大のものである。往時は両側より老松が懸かり、その風景は一段と映えていた。今から約二七〇年前、中国人がこの地を訪れ、この景勝を眺めその様があたかも母国の江西省北部にある廬山に類似していることから名付けられたといわれている。廬山寺にはこの中国人が残した香炉一個があるという。

H志自岐羽黒神社 一六八八年、岩瀬浦の志自岐羽黒神社は、五島藩主の祈願社として建立されたもので、歴代の藩主は江戸参勤交代の節、当社に参詣して海上安穏の祈願を行った。

 峯日誌によれば、五島候参勤の時の航路は福江発〜奈留〜岩瀬浦〜平島経由、本土上陸のコースをとっており、当時の岩瀬浦は五島海上交通の要衝であった。

 同社には、五島藩主の願文が数通残されている。

 また、同社は一八六四年(元治元年)にも再建されている。

I代官屋敷跡 一六六一年(寛文二年)分知事務(注※)を完了し、名実共に富江藩が創設された事によって領内十二掛に分けられ、それぞれの掛には代官所がおかれたが東掛の代官所は岩瀬浦に置かれ、管轄区域は有川の太田、阿瀬津、鯛ノ浦、神ノ浦、奈良尾、岩瀬浦の六村であった。同一屋敷内に役所・船見番屋・鰤塩蔵倉・代官宅等が一緒にあったのは珍しい。

※分知事務=江戸時代、大名・旗本の領地を分割相続すること。幕府の許可を要した。

J廬山寺 岩瀬浦代官・坪井家の祖、近藤三郎衛門、仏門に帰依。その際この地に庵を結ぶ。後、廬山寺として開創された。近くに五島随一の廬山の滝がある。宗派・曹洞宗。

K希望のマリア像 浜串漁港の入口近く、海に突き出した岩場の先端にマリア像が立っている。浜串教会が航海の安全と大漁を願って、一九五四年(昭和二十九年)に建立し、一九九六年(平成八年)に立て替えられた。優しい表情で海をみつめる純白のマリア像である。

◎散策随想(荒木貞美記)

 平成二十一年度の町内歴史散策は教育委員会との共催で実施。散策地域の奈良尾、岩瀬浦地区は数年前にも本会独自で実施しており今回で二回目となる。

 また、今回合わせて行う旧若松町の白魚、桐地区は初めての事であり、さらに今度の行事の最大の目玉は土井ノ浦地区のキリシタン洞窟の見学が含まれている事である。参加者にとっては行く機会が極めて限られた個所であり、期待度も高い。この場所は陸上より行く手段がない事もあって、通常、海上タクシーへの運航委託により見学する事になるが船の定員は四〇名前後、今回は八〇名余の参加人員となっているので一隻運航の二航海となる。集合場所になっている白魚高台の中五島高校へ集合。諸注意の後、第一番目の見学地「白魚千軒跡」へと全員徒歩で向う。天候は良好、この史跡の内容は資料の通りであるが、本来、付近に散在していた墓石をこの場所に集めて故近藤章氏(元若松町文化財保護審議会長)の指導により祀ったものである。

 白魚千軒跡を見学の後、二組に分かれてバスへ分乗。一組は桐教会見学、もう一組は海上タクシーに搭乗、キリシタン洞窟へと向う。残留組は桐天主堂見学。説明は前述Aの通りであるが、昭和十一年〜十八年にかけて桐地区において、いわしサージン缶詰工場が進出・操業された事実(川南工業所)があり、地元従業員に交じって韓国からも女性従業員が雇用されていた。休日には民族衣装のカラフルなシマチョゴリを着た、一団が奈良尾へ向かっていたという。他に関連してキリシタン神社といわれる山神神社(旧桐小学校裏)へ案内。その後、土井ノ浦キリシタンワンドからの帰還組と交代して別組が同洞窟見学のため海上タクシーに乗り込み見学へ向う。同組の帰りを待って次の行程、奈良尾地区市街地の史跡見学をする(説明、前記CD)。米山展望台にて昼食。五島灘、東支那海に浮かぶ下五島の島々の眺望がすばらしい。広場は草が繁茂していたがこの日の行事に合わせて教育委員会職員の皆さんの手で刈り取られていてすがすがしい。感謝!

 ここで奈良尾の水産の歴史について触れた後、次の訪問先、福見教会へと向う。同所見学、岩瀬浦へと向う。途中、中山を経て、高さ五島一とされる廬山の滝を見る。ただ、以前と違って、滝上流より町簡易水道の取水を行なっているため雨期でないと昔どおりの名瀑布とはならないとのこと。岩瀬浦市街地へ入る。この地区は江戸時代〜明治〜大正〜昭和と五島の漁業史をリードしてきた先進地であるが、現在は昔日の面影はない。志自岐羽黒神社にて記念の集合写真撮影。後、社殿内で当神社の平田老宮司より講話を拝聴する。御高齢でもあり、後継宮司・神社経営のところに話が及ぶと哀願とも哀感ともつかぬ、それでいて一種独特のユーモアも感じられ、一同笑いの渦に包まれる。次に同地区内の代官所跡、及び廬山寺へ向う。上五島地区寺院中の名刹とされ、住職は百歳に近い御高齢である。御子息の副住職が補助役で説明する。岩瀬浦地区を終了し、いよいよ最後の予定地、浜串地区へ。

 ここの住民は殆どがカトリックである。小地区であるが、ここには同町ながら西日本巻き網漁業有数の基地として奈良尾船団と水揚高の覇権を競った昭徳、昭生丸船団が根拠地としている。乗組員大半がカトリックで占められ強い団結心から海の十字船団として業界に名を轟かした過去もあった。乗組員は出船・入船の際は港の防波堤に建つマリア像に無事と感謝を祈ったという。午後四時無事にこの本日の散策を終了、解散式を行って帰路についた。

【参考文献】『若松町誌』・『奈良尾町誌』

                                                                   (文責 荒木貞美)