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瀬戸音信

                                         若松地区史跡探訪
                                    人・物・情報の交差する島々の物語
                                        上五島の歴史と文化・風土
                                   (原典:『創立10周年記念誌 上五島の歴史と風土』より)






釜崎宝篋印塔



浦内六角地蔵石憧



神部真浦遺跡
(モエン様)




神部岩陰遺跡



若松極楽寺
銅造如来立像
            

若松地区史跡探訪

【平成十四年十月十二日】

若松地区探訪(平成十四年度)

◎案内担当 荒木貞美

◎実施要領 午前十時・日ノ島ディアパーク前へ集合。参加者へ説明資料の配布。諸説明の後順路に従って各史跡の散策。

◎探訪経路 @日ノ島神社→A御成波止→B源寿院→C玄加・玄徳の碑→D釜崎の宝篋印塔→E曲崎石塔群→F曲崎の浜沈丁群落(昼食)→G有福の七頭子神社→H干切れ海岸のビーチロック→I御物納屋→J土井ノ浦教会

◎行事概説(解説担当 荒木貞美)

1 目的 若松大橋架橋後、今まで交流の薄かった上五島地区の方々もかなりの人達が若松までは入って来ているが、日ノ島まで足をのばした方々は少ない。今回の史跡探訪は、日ノ島→土井ノ浦地区を、特に「日ノ島」は漂たる小島ながら長い歴史を有することを知っていただくために企画。 若松地区には公民館講座「歴史教室」が開設されており、郷土の研究は近藤章氏(旧町当時、文化財保護審議会長、故人)をはじめ会員の熱心な取り組みで、「日ノ島」についてもその歴史の一端が次第に明らかになってきている。

2 史跡説明

@日ノ島神社 大宝元年(七〇一)に勧請(かんじょう)されたといわれ、明治三年(一八七〇)までは「高松宮」と呼ばれていた。遠江国周智郡横須賀村(現、静岡県小笠郡大須賀町横須賀郷)方面から移住してきた人々が住み着き出身地の氏神を祀ったといわれている。

A御成波止(おなりはと) 現在の日ノ島集会所のある埋立地一帯の埋立以前の呼称。五島淡路守盛道公(二十七代五島藩主)が宝暦四年(一七五四)先祖の墓参りを兼ねて、宇久島などの領地を巡視の帰路、この島に寄泊した時ここから上陸した。盛道公はこの時、高松宮に米4斗5升、境内の弁財天に米1斗を寄進し、翌年高松宮・弁財天を五島藩の寺社領とした。波止の名はこの故事に由来する。

B源寿院 浄土宗寺院。古くは円通寺(臨済宗)と称した。

 ア、秘仏十一面観音像=三十三年に一度開帳するという。平成九年九月十七日、三十三年のご開帳を迎え、盛大な法要が営まれた。この仏像が昔の円通寺(一五四一年、天文一〇年に遣明使、策彦周良(さくげんしゅうりょう)が参詣)に安置されていたものと同じであればおよそ四百六十年以前からこの島で祀られていたことになる。

 イ、源寿院の銀杏の木=源寿院境内にある。樹齢不詳。目通り周囲6m推定三百年〜五百年経過。雄木。

 ウ、歴代代官家の墓地=本堂裏の墓地に日ノ島の歴代代官であった入江家及び同系統の荒木家の墓地がある。

C玄加・玄徳の碑 慶長三年(一五九八)松浦志佐方面から日ノ島へ来島した松園八郎五郎(法名・玄徳)は五島、松園家の始祖。来島二年後の慶長五年(一六〇〇)に没。向かって右側の石碑は「玄徳」の孫に当たる日ノ島初代代官・松園次右衛門(法名・玄加)及びその子弟五人が共同で會祖父の死後四十七年後の正保四年(一六四七)に建立したもの。その後、崖の崩落事故により埋没か。二百年後の寛政十一年(一七九九)に発見され、これを記念して時の日ノ島代官・入江儀左衛門義信が二百年祭を実施。明治三十四年(一九〇一)石碑の陰刻文字が判読困難なため新たな碑の建立を松園清兵衛氏先祖が計画、現在見られる左側の再建石碑が完成。

D釜崎の宝篋印塔(ほうきょういんとう) 平成十二年二月二十二日、長崎県文化財に指定された史跡。釜崎の岬の尾根上に鎮座。正平二十二年(一三六七)の紀年銘が陰刻されている。これは南北朝後半〜室町前期(一三〇〇年代後半〜一四〇〇年代前半)の動乱で戦死した武士達の供養塔。福井県高浜町日引から遠路運ばれた石塔の一つ。

E曲崎の石塔群 平成十二年二月二十二日付で県文化財に指定された、釜崎宝篋印塔と対をなす。曲遺跡は砂礫が海流によって運ばれて形成されたトンボロ状の砂嘴の上にある。ここには室町時代の宝篋印塔、五輪塔、宝塔、板碑形塔、自然石板碑、積石墓等、様々な種類の墓石が散在している。他地区の同種のものと比較しても規模が大きく長期にわたって営まれた墓地は稀であり、当時の繁栄をしのぶ貴重な遺跡である。倭寇の共同墓地ともいわれる。

F曲崎の浜沈丁群落 ハマジンチョウは、印度支那半島から中国南部、台湾を経て沖縄、鹿児島県にまで北上する南方系の海浜植物。この植物は入江の奥の波静かな満潮線にだけに生存するという特色を有する。五島では玉之浦湾と若松瀬戸の両岸及び日ノ島に群生。延長八〇〜一〇〇mと群生の範囲が広い。

G有福の七頭子神社(つもりこじんじゃ) ア、鎮座地=有福郷字宮田 イ、祭神=天御中主神(あめのみなかぬしのかみ) ウ、由緒沿革=往時、有福郷民の産土神(うぶすながみ)として神部に祀っていた七頭子神社を分霊しこの地に奉祀。明治四十三年社殿建設。

H干切れ海岸のビーチロック 有福郷と漁生浦島の間に横たわる遠浅の海岸にある。これは干潮時に海浜の貝殻等の石灰分が溶出し礫(れき)と礫を接着させ生成。石灰分は、いわば天然のセメントの役割をなし、天然のコンクリートを生成する。防波堤外側一帯がビーチロック生成区域。幅十七〜十八m、長さ一〇〇m前後。

I永仁六年(一二九八)幕府交易船の遭難と御物納屋

 鎌倉幕府執権・北条氏が派遣した交易船が日ノ島沿岸で破船、遭難。積荷の貴重な交易品が海上に漂流。これを付近の住民が拾得した事から幕府はこれら漂流品の返還を求め、青方、志佐、奈留の三氏へ回収するよう命令するも品物は戻らなかった。漁生浦島の裏側の海岸が御物納屋(おものなや)・御物浦(おものうら)の名で呼ばれている。この地名の由来はここに漂流物を保管格納したことの名残か。『青方文書』により積載品の内容が確認できる。

J土井ノ浦教会(イエズスの御心)

  教会の沿革 ア、一八九二年(明治二十五)仮教会建設。イ、一九一八年(大正七)現教会建設、三月九日コロンバス司教祝別。

  説明 土井ノ浦港の高台に建つ。長崎大司教、桐小教区より昭和三十二年(一九五七)独立した。現在傘下に大平教会、有福教会がある。この教会の前身は青方の大曽教会(明治十四)であったが同教会の改築に伴い古材を譲り受け土井ノ浦へ移築された。現在までに数度の改修工事を経ているが、主要構造材は旧大曽教会の古材である。三廊式、リブボゥルト天井。教会の横にカクレキリシタン関係の資料を納めたカリスト資料館がある。また、窓のステンドグラスは、前代の桐教会堂改築の際、譲り受けたもの。

  カリスト九衛門 日向生まれ。十四歳の時、豊後府内で受洗。以後各地で十年間の布教活動に従事。豊後の領主大友宗麟の死後、秀吉による弾圧をさけ活動の中心は長崎・有馬へと移り、この地で六年間布教活動を行うも年毎に苛烈さを増す弾圧に次第に活動は制限され、ついに僻地の五島若松へと拠点を移し、以後二十七年間の生涯をこの地で全うした。寛永元年(一六二四)五島カトリック教界の父と仰がれたカリスト九衛門は五七歳を以て若松島旅手浜(たびてはま)で殉教した。     (文責 荒木貞美)

【平成十七年十月二十九日】

若松島内歴史散策(平成十七年度)

教育委員会・上五島歴史と文化の会共催

◎案内担当 下窄忠・大坪一二・大坪鷹子・新木涵人

◎実施要領 対象=一般町民(参加人員=総勢一五二名。集合場所等省略)

◎探訪経路 @日ノ島曲崎のハマジンチョウ群落→A日ノ島石塔群→B釜崎宝篋印塔→C玄加・玄徳の碑→D源寿院の銀杏の木→E榊ノ浦龍音龍尊堂(榊ノ浦)→F六角地蔵石憧(浦内・若松中央小裏)→G土井ノ浦教会→H真浦遺跡(通称エモン様)→I老松神社境内の岩陰遺跡→J銅造如来立像(極楽寺)(国指定文化財)

◎配布資料 『若松島の文化財・遺跡』(新上五島教育委員会発行)

◎行事概説(解説担当 荒木貞美)

○企画主旨と参加人員 平成十七年度の町内歴史散策は、新上五島町教育委員会主催の行事として実施され、本会は、若松地区の文化財保護審議会委員等を案内担当として協力。主旨は次の二点。

@町内の貴重な文化的財産である文化財を広く周知するため。

A町民に文化財の保護・顕彰を促し郷土文化の向上に資するため。

 散策対象の文化財は大半が町指定・県指定の文化財であり、中には極楽寺の「銅造如来立像」のように国指定重要文化財もある。

 五ケ町合併後、日が浅い今日、この様に町内一円の歴史に興味を持つ方々の多くが参加して、地域への理解を深めていくことは、町民相互の融和を図る意味からも意義深い。

○「日ノ島」地誌概説(キーワードは「渡唐船」と「倭寇」)

 散策に先立ち案内担当より次のような散策対象の要点説明あり。

〔渡唐船〕(交易船の最終発進基地)

・遣唐使船=大宝元年、支援部隊が日ノ島神社を遠江より勧請。

・日元貿易船=一二九八年、北条得宗家の船が日ノ島沖で難破。

・遣明船寄港=一五四一年、策彦周良「金烏山円通寺」に寄泊。

・歳遣船=一四九六年、日島太守藤原朝臣盛が派遣。

〔倭寇〕(海外軍事活動の前線拠点)

・曲遺跡=古墳時代(三世紀後半〜六世紀後半)の「押型土器」片表採。

・石塔群=南北朝動乱期南朝方水軍・武装海商集団等の逆修墓群。

・釜崎宝篋印塔=正平二十二年十一月二十日の紀年銘刻印。

・梵字板碑=一三六八年、五島で殺害された明使の追悼墓か。

○散策文化財概説(散策順に説明すると以下の通り)

@日ノ島曲崎のハマジンチョウ群落【町指定文化財】

A日ノ島石塔群【県指定文化財】

B釜崎宝篋印塔【県指定文化財】

C玄加・玄徳の碑(日島)【町指定文化財】

D源寿院の銀杏の木【町指定文化財】

G土井ノ浦教会

これらについては、平成十四年十月十二日付「若松地区探訪」の項参照。

E榊ノ浦龍音龍尊堂【町指定文化財】

 「龍音龍尊堂」の由来について、「その昔、榊ノ浦ホーキ藪近傍の畑を耕す者の多くが奇妙な病気にかかった。聖に頼んで占をたてると、畑の近くに貴人と何かが埋められている」との言い伝えがあり、また、伊予宇和島城主主従四人の遺骸を埋めたとの伝承がある。二尺八寸の刀が出土(雄嶽日枝神社へ奉納)。お堂建立。

F六角地蔵石憧(浦内・若松中央小裏)【町指定文化財】

 ロッカクイゾウ様とも呼ばれている石塔で、古くから子安地蔵として、安産と子どもの無事成長を願って婦人の信仰が篤い。特に、このロッカクイゾウ様は、水難除けに霊験あらたかといわれている。安産成就の時には、白布や赤布を奉納する習わしがあり、また奉納された布裂の一部を持ち帰り安産のお守りとした。

 伝承によると、浦内の松園家が福江から日ノ島村に移住した時、持ち伝え、初めは若ノ浦に安置していたという。石造仏としては、六角の石憧に六体の地蔵を刻んだ単製石憧という特色がある。

H真浦遺跡(通称エモン様)【町指定文化財】

 次に説明する「岩陰遺跡」の約五〇メートル下方の丘に、墓地跡があり、五輪塔や宝篋印塔のほかに梵字と「三界萬具寺」の文字が彫られた石塔が残っている。この「墓地跡」を、この地区の人たちは「モエン様」と呼んでいる。言い伝えによると、昔、ここには「老松寺」と呼ばれた寺院があったという。この事実は、「無縁所」(信仰と金融・商品取引の市場)と呼ばれた寺院が実際にこの地域に建っていたことを意味する。この「老松寺」は、志佐氏系統の白浜一族が壱岐撤退、この地区(間伏光石海岸など)に移住後南蛮貿易の祈願寺として壱岐の「安国寺」から勧請したと推定される。

I老松神社境内の岩陰遺跡【町指定文化財】

 五島列島若松島の東岸、若松瀬戸の中央部に「神部(こうべ)」という地区がある。ここの入江は、北・西・南と連なる丘陵が形作る谷間に抱かれ、かつては、西の方と北西の方に左右二股に分かれて奥深く切れ込んでいた。この神戸地区の北側に連なる丘陵地帯の山裾の道を北の方に登りつめると、老松神社にたどり着く。この神社の拝殿の奥に、屏風状に岩壁が並列して出来た洞窟があり、山岳信仰に基づく岩屋観音が祭祀されていた。地元ではここを「岩陰遺跡」と呼んでいる。案内板には、次の説明がある

「老松神社の背後にそびえる連峰を上天源、下天源といい、その麓に岩屋観音を祀る巨岩洞窟がある。洞窟の周囲には屏風のような岩壁が並列している。この地には、古くから山嶽巨岩崇拝の風習があり、この巨岩を観音とたたえ、住民達に地区唯一の信仰の対象として崇められてきた。ある時、洞窟付近が崩落してしまい、当時の原形をとどめていなかったが、その跡地から、武運長久祈願と経文らしい文字がきざまれた鰐口、和鏡片および中国古銭等が出土した。この鰐口に永正七年(一五一〇)と年代が記されているところから、室町時代第十代足利義稙将軍の頃と推定される。この時代、この地方にいかなる集団が居住したかは、さだかではないが、戦勝祈願、域内安全のため祀ったものと推定される。」

J銅造如来立像(極楽寺)【国指定重要文化財】

 故名山極楽寺(浄土宗)には、七世紀ごろに制作されたと推定される銅造如来立像が本尊として祀られている。昭和五十九年(一九八四)六月九日、国の重要文化財に指定された。

 この如来像は像高三六.四センチ、品質は銅造・鍍金(めっき)であり、大きめの頭部に肉どり豊かな体部、胸もとを広く開け、胸前を斜によぎる僧衹支(そうぎし)と腹部の結び紐がみえる。弓なり反った姿は力感にあふれ、威風堂々として、その体躯を被う衲衣(のうえ)は変化に富み生気を醸し出している。吊り上った眉、抑揚のある瞼、強く引いた眦(まなじり)は、面相に威厳を与えている。背部の後頭部と背中と膝裏に、ロウ型鋳造時にできる新羅仏特有の中型を支える穴があり、背中には横に差し渡しがついている。光背をとめるためのものと判断される。

 渡来金銅仏中にあって大きさにおいても力強い造形の秀抜さにおいても注目すべき逸品であり、わが国には数少ない貴重な如来像である。しかし渡来の由来はわかっていない。(文責 荒木貞美)