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瀬戸音信

                                     ふるさとの遠見番所と異国船防禦
                                    人・物・情報の交差する島々の物語
                                        上五島の歴史と文化・風土
                                     (原典:『創立10周年記念誌 上五島の歴史と風土』より)






五島の遠見番所



長崎港











 【平成十七年十一月十九日】

     ふるさとの遠見番所と異国船防禦

                    宮田 坦

 近世日本はポルトガルに代表されるカトリック勢力に対する危機感から、一六三九年(寛永十六)鎖国の措置をとった。鎖国下においても、蘭船、唐船に限って限定貿易が行われた。来航を許されない国の船は異国船として区別され、その来航に備えた厳重な警戒体制がとられた。(「沖取締航路図」「白帆注進経路図」参照)

 五島は我が国の西端に位置する。古来より大陸への要衝であり、幕府にとっても海防上、重要な地であった。幕府は島原の乱を始め、ポルトガル船などの長崎への渡航などに警戒を要したので、一六三七年(寛永十四)二十二代藩主、盛利に対し、「異国船方在役」(役目に携わる事)を命じた。以後五島藩は幕末までこの用を勤めた。

 遠見番所を領内七ヶ所設置したことにより、五島藩の遠見番が始まる。一六三五年(寛永十二)幕府は諸侯に参勤交代を命じたが、一六四一年(寛永十八)黒田・五島・鍋島の三氏の参勤を免じ、海防に専念させた。一六四七年(正保四)異国船の通航が頻発したことにより、防禦強化のためその一部を移転するほか、更に四ヶ所を増設した。設置場二ヶ所の移転理由は孤島に置いていては連絡に時間がかかる。見張りにも何かと不便があり、比較的大きな島に移設した。(下表参照)

       表 五島藩領内の遠見番所設置個所

  一六三七年(寛永十四

   一六四七年(正保四)

  嵯峨島   

  三井楽村柏

  大瀬崎

  大瀬崎

  富江番所山

  富江番所山

  鬼宿

  鬼宿

  ○鬼岳(新設)

  黄島

  黄島

  ○奈留島(トメバンヤマ)(新設)

  ○有川の友住(新設)

  ○奈良尾の福見(新設)

  祝言島   

  魚目の曽根崎古番岳

  宇久島

  宇久島

  計 七ヶ所

  計 十一ヶ所

 五島藩の主な任務は、異国船の見張りと海上での抜荷の取締りであった。見張り役であるが、徒歩(小身の士)一人、足軽一人、人夫一人の三人一組で、遠眼鏡(望遠鏡)で外国船の動静を監視した。通報の方法は、異国船を発見すると、直ちに遠見番所から烽を上げる方法。昼間は青柴を焚いて煙を上げた(焚口図参照)。煙は遠くからもよく見える。夜は火を焚く。先の烽へ、先の烽へとリレーして長崎奉行所へ急報した。

 領内にも、鐘を鳴らす。空砲を撃つ。花火を上げるなどして速やかに知らせた。烽火の方法により、船の大きさ、隻数、その船の進路まで簡単な通信ができた。火を上げる際、狼の糞を加えると風があっても細い煙が高く、まっすぐに上がる。狼の糞を用いたことから、烽のことを狼煙とも言う。昔、中国でも行われていた。最も苦労したのは霧の中の見張り。霧が立ちこめると全く視界がきかない。発見の大きな障害だった。番人は山から下りて、海面と霧との隙間から帆影を探した。「霧番所」を海辺に特設して対応した番所もあった。

 五島は我が国の西の玄関口にあたり、外国船が頻繁に航行した。上五島でも中国船、朝鮮船、国内船が数多く難破し、漂流した。その度に遠見番所はそれを発見し救助の指示を出した。十五世紀から幕末までの五島に渡来した船、漂着した外国船と国内船の数は次の通り。唐船、朝鮮船、蘭船、その他の外国船が占めて二百三十七艘、琉球船十四艘、国内船二十四艘。これはあくまで記録に残っている件数で実際はもっと多かったと思われる。漂着船の屍体は現地で埋葬した。塩漬にして長崎奉行所へ送ったとの記録もある。

 抜荷(蜜貿易)についてみる。一六八五年(貞享二)唐船、蘭船に年間取引き額を制限する。輸入品の代価は金、銀、銅で支払っていたが、次第にその不足が生じた。銅、金の海外流出に歯止めをかける思惑から貿易を制限した。その結果、積戻船(売れ残り品を積んだ船)が多くなる。売れ残り品をできるだけ日本で売り捌くために抜荷が増加した。抜荷は主に取締りの手薄な離島で行われた。小規模なものとしては、長崎の町人や地下役人が丸山の遊女や通詞(通訳)などを経由して個別に行われた。オランダ商館や唐人屋敷も密貿易の舞台となった。大規模なものとしては、積荷船と洋上で取引きをする。長崎の大富豪が奉行所役人と結託して組織的に抜荷をした。密輸の最大の大物は薩摩藩で、藩ぐるみで琉球と密貿易をする。幕末には半ば公然と抜荷をはたらいた。長崎奉行所も見て見ぬふりするしかなかった。抜荷の一対策として、一六八八年(元禄元年)「唐人屋敷」を設けて、これまで長崎に散在していた唐人を一ヶ所にまとめて居住させた。取引き終了まで日本人と接触させなかった。小規模抜荷の防止には役立ったが、洋上での大規模抜荷にはあまり効果はなかった。長崎奉行所は抜荷を厳しく取締る。唐、蘭との貿易の利益はすべて幕府の財源になるからである。抜荷取締りは長崎奉行所の大きな役目の一つだった。抜荷犯人への刑罰であるが、重罪ははりつけ、獄門、軽罪は、たたき、入墨を入れる。鼻をそぐ、追放する措置をとった。

 一六六六年(寛文六)から一八六七年(慶応三)までの二百年間の「犯科帳」(長崎奉行所の判決記録)の中で最も多いのが抜荷による判決。如何に抜荷が横行したかがわかる。密貿易の品目としては、かさばらずにしかも高価なもの。例えば、じゃ香(香料、中国に産する)・人参・さらさ(印度などで作られる絹織物)・べっこう・珠玉(真珠や玉)・珊瑚など。抜荷品の値段は正規ルートの約半価で取引された。格安に捌いたとしても関税十割がかからないから、一攫千金の儲があった。

 唐、蘭船の長崎への行程だが、帆船だから、季節風を利用した。南風にのって、四から六月に入港し、九、十月頃、北西風を受けて帰国した。オランダから長崎までの所要日数は約六週間、アフリカ南端の喜望峰を通って我が国へ往来した。当時、スエズ運河は未開通。唐からの輸入品は、生糸・反物・砂糖・漢方薬・べっこう・香木・紫檀・錫など。我が国から唐への輸出品は、棹銅・俵物(いりこ・ほしあわび・ふかひれなど)・昆布・天草・かつおぶしなど、海産物が多い。蘭からの輸入品は、砂糖・象牙・更紗・毛織物・薬品・外科道具・硝子器など。蘭への輸出品は、青貝蒔絵・諸塗物・色縮緬(ちりめん)・醤油・伊万里物(焼物)・茶・白ろう(銅と亜鉛の合金)・屏風・鯨ひげなど。

 一八六八年(明治元年)「番所廃止令」施行によりすべての遠見番所は廃止された。五島の遠見番所は創設から二百三十年の長きにわたって、東シナ海から九州西岸にかけての広大な海域の監視と抜荷取締り等の重大な役目を終えた。長崎防衛の最前線基地である五島藩は、他藩に類例のない大きな責任と危険と財政負担を伴うものであったと推測される。 (文責 宮田 坦)