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瀬戸音信

                                         鯨賓館ミュージアム
                                    人・物・情報の交差する島々の物語
                                        上五島の歴史と文化・風土
                   (原典:『創立10周年記念誌 上五島の歴史と風土』より)






鯨賓館案内




外観




鯨復元模型






【平成十七年二月十九日】

          鯨賓館ミュージアム見学 

                          大山かおり

◎概要と展示解説

 鯨賓館ミュージアムは、平成十六年十二月二十三日にオープンした。平成十八年三月三十一日には博物館相当施設として指定された。オープン当初の展示解説の内容を次に紹介する。

◎エントランスホール

○ミナミクロミンククジラ展示(写真参照

・性別 メス ・長さ 骨格標本=9.35m 模型=9.6m

・捕獲時 体重 7.8t

 この骨格標本は、九四/九五年に鯨類捕獲調査されたクジラで、平成七年五月七日に有川郷茂串の砂浜に四年半埋設し、製作した。

 模型は骨格標本になったミナミクロミンククジラの生きているときの姿を復元した。このミナミクロミンククジラは、南半球に生息していた。

◎展示内容解説

A.五島列島のはじまり

○地球の誕生から日本列島の誕生まで 四十六億年前、星間雲の収縮により太陽が生まれる。太陽のまわりには、ガスとチリが回転する円盤を形成した。チリは円盤中央面に沈殿し、無数の微惑星をつくり出した。太陽の誕生二百万年後には微惑星の衝突合体、さらにまわりのチリなどを取り込み地球が形成された。今から約七千万年前から六千五百万年前に大陸のへりに日本の一部がつくられた。二千五百万年前、大陸のへりが割れてあいだに大きな湖ができ、二千年万年前ごろからこの湖地域を中心に大規模な火山活動がおこった。千六百万年前ころには、大陸との間に海水が侵入し日本海が現れ、日本列島の原型ができた。八百万年から五百万年前ころは再び火山活動が活発な時期をむかえ、日本列島の背になる火山が形づくられた。およそ百万年前には、火山島であった伊豆半島が本州に衝突した。この後、山々は高くなり、低地の埋まるスピードも速まり、火山もほぼ現在の位置で噴火を繰り返していた。このようにして現在の日本列島ができた。

○五島列島の形成 五島列島は始め浅い湖沼だった。浅かった湖沼は僅かずつ沈んでいき、深くなっていった。日本列島で火山が活発な時期に入ると福江島でも火山の活動が活発になり、多量のマグマが五島列島の地下に入り、急激に列島を持ち上げた。

B.上五島の歴史概観

○古代の捕鯨 石川県真脇遺跡では、縄文時代前期末から中期始め頃の土の中から大量のイルカの骨が出土した。矢尻が刺さった肩甲骨も出土している。また、壱岐市原の辻遺跡から出土した弥生時代中期(紀元前1世紀頃〜紀元後1世紀頃)の甕(かめ)の胴上部に外側に2箇所、内側に1箇所捕鯨の様子が描かれていた。壱岐市の鬼屋窪古墳や北高来郡小長井町の長戸古墳に捕鯨の様子が描かれた線刻画が残っている。また、大韓民国蔚山盤亀台遺跡にも捕鯨の様子を描いた線刻画が残っている。新上五島町小河原郷立石遺跡から出土した縄文時代中期の土器には鯨の脊椎骨を土器製作台として使った跡が残っていた。

○「肥前国風土記」の中の五島列島 「風土記」は和銅六年(七一八年)に元明天皇の詔によって撰進された諸国の地誌である。「肥前国風土記」の記述から奈良時代には五島列島が「値嘉郷」というひとつの地域として考えられていたことがわかる。この呼び名の名残が小値嘉島であると言われている。

○「古事記」の中の五島列島 「古事記」は和銅五年(七一二)に献上された天皇家の歴史書。この中のイザナギ・イザナミの国生み神話の中で、生まれた島々の一つである「知訶の島」が五島列島である。このことにより、「古事記」が記された奈良時代には、五島列島全体が「知訶の島」と呼ばれていたことがわかる。

C.有川湾の捕鯨

○捕鯨のはじまり 十六世紀末に尾張・知多半島師崎で鯨の突取り式捕鯨法が開発され、慶長十一年(一六○六)太地浦で、和田忠兵衛頼元が「刺手組」を組織し、鯨漁を始めた。始めに行われた突取り式捕鯨は、船で鯨を追いかけ銛を投げて鯨を捕る方法だった。延宝三年(一六七五)には、太地浦で、網取り式捕鯨法が始められた。網取り式捕鯨は、船縁などを叩きながら鯨を網に追い込み、鯨に網を掛けて動きが鈍くなったところで、銛を刺して鯨を捕る方法である。

○有川の捕鯨史

一六二六年(寛永三)には有川や魚ノ目に合わせて十八組の鯨突組があったと言われている。

一六七八年(延宝六)に魚目と大村の深沢義太夫が十五年の契約を結び、丸尾に基地を置き、網取り式の捕鯨を開始した。

一六八四年(貞享元)に山田茂兵衛と江口甚右衛門正利と共同で小河原の前で網取り式捕鯨を開始した。

一六八七年(貞享四)から一六九○年(元禄三)までの間、有川と魚ノ目は、鯨を捕る漁場を巡って争った。

一六九三年(元禄六)には有川鯨組を単独で出した。

一八八四年(明治十四)有川鯨組が破産し、川原又蔵を社長とする五島捕鯨株式会社が有川鯨組を引き継ぎ、鯨大敷網を操業した。

○鯨の供養塔 江口甚右衛門正利は、正徳二年(一七一二)十月に供養碑を建てた。碑文には元禄四年(一六九一)から正徳二年までの二十一年間に鯨を千三百拾二本捕獲したことが刻まれている。

○五島捕鯨株式会社 一八八四年(明治十七)に有川鯨組が破産し、川原又蔵を社長とする褐ワ島捕鯨会社が引き継ぎ、鯨大敷捕鯨を操業した。資本金は五万円だった。社員二十名、手代二十五名、部屋使(従業員)十二名、羽差、労務者、水夫多数の構成だった。横浦には、ロクロ場、解き場、筋納屋、骨納屋、油納屋、道具納屋、上納屋(現場の本部)が並んでいた。

○歴史の語り部 有川村の名主である江口家の四男、甚右衛門正利は万治四年(一六六一)に十七歳で家督を継いだ。翌寛文二年 (一六六二)には五島藩の領地が分けられ、有川湾を挟んだ魚ノ目と有川はそれぞれ福江領と富江領に属することとなり、有川湾における漁場の争いが起き、有川の人々は漁が出来なくなってしまった。

 甚右衛門正利はこの争いを解決するため江戸の評定所に訴えた。この時、有川の人々は貧しい生活をしていたにもかかわらず、彼らが江戸へ行く資金を捻出した。四度の訴えの結果、評定所から裁許状をもらい、元禄三年(一六九○)には捕鯨を再開することができた。江口甚右衛門正利の功績によって、有川の捕鯨の歴史が長く続くこととなった。

D.近代捕鯨

○近代捕鯨のはじまり 捕鯨法の変遷は、突取式捕鯨法から網取式捕鯨法、ノルウェー式捕鯨法へと移り変わっていく。地域的に大敷網捕鯨、アメリカ式捕鯨、銃殺捕鯨などがある。ノルウェーのスフェンド・フォインにより考案された捕鯨砲を用いて鯨を捕るノルウェー式捕鯨から以後の捕鯨を近代捕鯨と位置づけている。

○東洋捕鯨株式会社 東洋漁業株式会社社長であった岡十郎氏が外の捕鯨会社に呼びかけ、東洋捕鯨株式会社、長崎捕鯨合資会社、大日本捕鯨株式会社、帝國水産株式会社の4社が合同した。一九○九年(明治四十二)下関市において定款を作成「東洋捕鯨株式会社」が誕生した。東洋捕鯨株式会社は、ノルウェー式捕鯨船二十隻を所有し、営業所を四箇所と事業場二十箇所を配置していた。有川では五島捕鯨株式会社が衰退し、一九○九年(明治四十二)東洋捕鯨株式会社に吸収され、ノルウェー式捕鯨で操業が開始された。

○母船式鯨漁業 昭和六年(一九三一)には東洋捕鯨株式会社三代目社長に原萬一郎が就任した。原萬一郎は、近海捕鯨の不振が続いているなか、遠洋捕鯨に着目し、遠洋捕鯨を操業した。

○原 眞一・原 萬一郎の業績 原眞一氏は、慶応二年(一八六六)八月に宗岩吉の長男として生まれ、明治二年(一八六九)に原家に迎えられた。幼い頃は山見小屋に遊びに行き、老漁師から鯨の話を聞いていた。二十八歳の時、名前を岩吉から眞一に改めた。

 海産物商として長崎に進出し、遠洋漁業にも乗り出し長崎捕鯨合資会社を設立した。明治四十二年(一九○九)東洋捕鯨株式会社の常務取締役に就任し、五島捕鯨株式会社の解散によって失業者の多かった有川村の人々を東洋捕鯨株式会社に多く雇用した。また、原眞一の子、原萬一郎氏は東洋捕鯨株式会社三代目社長になり、近海捕鯨から母船式遠洋捕鯨に乗り出す必要を認め、東洋捕鯨株式会社と共同漁業と日本産業会社が合併し、昭和九年五月日本捕鯨株式会社を設立し、社長に原萬一郎がなった。原 萬一郎が水産大臣に出した母船式鯨漁業許可に関する書類が残っている。有川の人々が母船式鯨漁業へ乗り出すきっかけを作り、旧有川町の人々が商業捕鯨時代に最盛期には六百名以上の人々が捕鯨に従事した。また、大正時代には九州商船株式会社の社長となり、九州一円の交通運輸に尽くした。

E.母船式捕鯨業〜南氷洋捕鯨〜

 捕鯨銛は始め先のとがった尖頭銛を使用していた。尖頭銛は、銛が波頭に触れて方向が逸れてしまうこともあり、二番銛や三番銛を打つことが常であった。

 昭和二十四年東京大学平田工学博士が銛先の型に原因があることを指摘し、銛先を平たくすると波の障害を防ぐことができることを日本水産の岩本千代馬に提案され、銛先が改良された。始めは、銛先の平な部分の直径は五〜六pであったが、その後一般に九pとなった。

F.鯨とまつり

【弁財天】(めーざいてん)

 毎年一月十四日に行われる「めーざいてん祭り」は、有川郷内の浜、船津、中筋、上有川、高崎、西原の各地区の青年団(小学生から大人まで幅広い年齢層)の人々が大漁や今年の幸を願い、各家々をまわる。朝六時半頃、まだ夜が明けないうちに最初に浜地区の青年団が浜の弁財天宮で太鼓を打ち鳴らし、鯨唄を唄う。各地区でまわる順序が決められている。鯨にまつわる伝統的な場所などをめぐり、地区の各家々を回る。各家々はお礼と飲み物やお菓子などのもてなしをする。

G.現代の捕鯨 

○国際捕鯨委員会 一九四八年に発効された国際捕鯨取締条約に基づき、条約を推進する機関として国際捕鯨委員会が設置された。日本も国際捕鯨取締条約に一九五一年四月に加入し、国際捕鯨委員会には、第三回以降毎年代表団を派遣している。国際捕鯨委員会年次総会は、加盟国の一国をホスト国として開催される。総会に先立ち世界中の科学者一〇〇名からなる科学委員会が開催される。総会は科学委員会の勧告を受けて、各国政府から選出された代表一名を委員とし、各国一票ずつを投じる多数決によって議決がなされる。具体的な規制内容の修正には、全体の四分の三の賛成票を必要とする。

○現在の加盟国(二○○三・二)

 アルゼンチン、アンチグア、バブーダ、オーストラリア、オーストリア、ブラジル、チリ、中国、コスタリカ、デンマーク、ドミニカ、フィンランド、フランス、ドイツ、グレナダ、インド、日本、ケニア、韓国、メキシコ、モナコ、オランダ、ニュージーランド、ノルウェー、オマーン、ペルー、セント・クリストファー・ネイビス、セントルシア、セント・ヴィンセント、セネガル、ソロモン、南アフリカ、スペイン、スウェーデン、スイス、ロシア、イギリス、アメリカ、アイルランド、ギニア、イタリア、モロッコ、パナマ、アイスランド、ベナン、パラオ、ガボン、モンゴル、サンマリノ、ポルトガル、新規加盟コートジボアール、モーリタニア、スリナム、ツバル

○第五十六回国際捕鯨委員会年次会議

 国際捕鯨委員会の第五十六回年次会議は、七月十九日から二十二日までの四日間、イタリア南部のソレントで開催された。日本代表団は、金田英行農林水産副大臣、森本稔国際捕鯨委員会代表をはじめとした農林水産省及び外務省から約五十名が参加し、その他、代表メンバーとして八名の国会議員が参加した。日本は、北西太平洋鯨類捕獲調査について、鯨類による捕食量を統計的に十分な精度で推定するため、沿岸のミンククジラを百二十頭(現行五十頭)、沖合のイワシクジラを百頭(現行五十頭)に増加する方針を国際捕鯨委員会に伝えた。また、二○○四/二○○五年度をもって十六年計画を終える南氷洋鯨類捕獲調査については、次回年次会議に次期南氷洋調査計画を提出する予定。オーストラリア・ニュージーランドなどによるわが国の鯨類捕獲調査非難決議は自発的に撤回された。(文責 大山かおり)