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瀬戸音信

                                     郷土史劇「勇魚の海」こぼれ話
                                    人・物・情報の交差する島々の物語
                                        上五島の歴史と文化・風土
                                  (原典:『創立10周年記念誌 上五島の歴史と風土』より)






江口家文書



江口家文書



江口甚右衛門正利



正利翁社



【平成十八年七月八日】

                 郷土史劇「勇魚の海」こぼれ話

                                                   坪井久智

 ◎鯨賓館研修室において、標題の講演会が開催された。講師の坪井氏は、新上五島町町立中央図書館名誉館長で、氏は鯛之浦郵便局長の頃から、旧有川町教育委員に任命され、退職後は、旧有川町立図書館長と中央公民館長の兼務職を務められた。以下の講話概要は、氏の編集覚書による。

 ◎平成九年、有川町長中山倉光氏の発案により、『有川捕鯨物語〃勇魚の海〃―江口甚右衛門正利伝―』(マンガ版)が発刊されるに際し、委嘱されて、構成(ストーリー)を担当執筆した。

 漫画を小田悦望氏に依頼し、小学生にも興味を持って読んでもらえるように配慮した。郷土の偉人の人柄や業績を学び、志を高く持し、地道な努力によって事を成す青少年の育成に資することを期したのである。中山友則先生の郷土史の著作や江口家文書などを参考にして、江口甚右衛門正利の業績を探り、そこから人物像を創造することは容易ではなかったが、調べてゆくうちに、彼の人間的魅力と非凡な才幹更には実行力に深い感銘を覚えた。史実に忠実を旨としながらも、半分は想像力に頼って描いた甚右衛門像である。折しも有川の素人劇団「海童」が結成され、その初公演の郷土史劇の台本を書くよう依頼され躊躇なく甚右衛門を主人公に選び「勇魚の海」を執筆、演出も引き受ける羽目になった。

 平成十四年十一月、町制七十周年記念の文化祭に上演され予想外の好評を得た。劇団「海童」の諸氏の情熱と演技力の賜である。

 その内容の紹介が講演の主題で、前半で約四十分のビデオの上映があり、後半が甚右衛門の人物像と業績についての解説である。その概要を記すと以下の通りである。

 ◎郷土史劇「勇魚の海」は、三幕・八場の構成で、第一幕は海境争い、第二幕が江戸登り、第三幕を勝訴として、最終場面(エピローグ)で、有川鯨唄保存会の特別出演により、伝統芸能「弁財天の唄と踊りと羽差太鼓」を演舞して頂き、興趣を添えた。

 ◎劇の梗概は次の通りである。

 江戸時代初期、寛永から万治年間にかけて、五島の有川湾では、鯨突き組による捕鯨が盛んで、有川六ケ村の経済を潤していた。

 ところが、寛文二年(一六六二年)福江藩から分知して、富江藩ができ、それまで有川村と同じく、福江藩の領有地であった対岸の魚目村が富江藩に所領替えとなった。そして富江藩は、有川湾の漁業権は浜百姓である魚目村のものであるから、向後有川側は「鯨漁はもとより、一切の漁業をしてはならない」という厳しい禁令を発した。しかしこれは、従来の慣行を無視した一方的な無理難題であり有川六ケ村にとっては文字通り死活の問題であり、総名主で鯨組の支配役でもあった江口甚右衛門正利は敢然として村民の期待を一身に背負い問題解決のために窮状を福江藩に訴え出た。

 福江藩と富江藩の重役たちは、度々協議を重ねたが、利害が真っ向から対立して、解決の埒が開かず、業を煮やした甚右衛門は、福江藩の許しを得て、江戸幕府に上訴することを決意し、趣旨を村民に説得し、協力を要請した。甚右衛門は、江戸登りの資金作りに着手し、まず宇久島の鯨組の旦那である山田茂兵衛から銀六貫目を借り受け、藩からも援助を受け、不足分は有川村民の涙ぐましい協力によって調達され、不退転の覚悟で、貞享四年四月、有川を船出し江戸に登った。

 江戸幕府の評定所に訴状を提出して、判決が下るまで、二年有余もかかるという、筆舌に尽くせぬ艱難辛苦を嘗め、遂に元禄二年二月十二日の判決で、悲願の勝訴を勝ち得た。

 「磯は地付き、沖は入会」という裁決により、有川湾での有川側の漁業権が確定し、有川の鯨組が甚右衛門によって創業された。

 その捕鯨の大漁により、有川の繁栄がもたらされた。時代の先覚者江口甚右衛門正利の「勇魚の海」に賭けた苦闘の物語である。

 ◎次に、甚右衛門の生涯と業績を、略年譜に沿って概観して見たい。

 そもそも、有川、魚自の鯨突き漁は、慶長年間に始まり、寛永三年、江口甚左衛門正明(正利の父)は、紀州古座の三郎太郎と舫いで、有川湾で鯨突き組を営んでいた。当時、対岸の魚目浦に八組、有川には十組の捕鯨組があったと記録されている。

 甚左衛門正明は、有川氏の福江直りの際、七十石取りの家老職を解かれ、有川に留まって二石を与えられ、有川六ケ村の総名主を拝命していた。その正明が万治四年に死去し、四男ではあるが、人物才幹ともに優れた甚右衛門正利が、弱冠十七歳で家督を相続し、鯨組の支配役を引き継ぎ、福江藩から総名主も命じられた。

 この若き甚右衛門に、有川湾の海境争いという難題が降りかかってきた。村民の窮乏を救うために、不条理と闘うことになる。

 富江藩(藩主民部盛清)が、優良な漁場である有川湾の漁業権を魚目の専有と主張して、有川側の漁業を一切禁止するという禁令を発したのである。有川六ケ村にとっては死活の問題であり、福江藩に強硬に抗議したが、解決策が示されず、甚右衛門は幕府に直訴することを決意した。福江藩は彼を軟禁して翻意を迫ったが、固い決意に絆されて、公訴を許し、遂には同情して支援した。

 有川の山の木をすべて伐採して、薪として宇久や小値賀に売りさばき、村民こぞって家財道具を売り払い、売る物のない者は、娘を女郎に売って資金を作るなど、涙ぐましい協力を得て、自前で建造した船で江戸登りを果たした。

 貞享四年四月有川を船出し、大阪まで半月、大阪から江戸までは陸路で半月、都合一カ月を要し途中遣方帳を詳細に記している。

 幕府評定所の審議は、仲々捗らず、何度も出頭させられ、有川湾の地図作成を求められ、一旦有川に戻ったりして、難渋を極め、再度江戸に登って、漸く元禄二年二月裁許、有川側の勝訴となる。

 発端から判決まで、苦節二十九年、甚右衛門の不撓不屈の闘いにより、有川湾での漁業権が確定した。

 元禄六年、甚右衛門を棟梁として単独で有川鯨組を仕出し、元禄八年捕獲数八十二頭、同十一年八十三頭と大漁が続き、数年にして、借金を完済し、利潤は村民に分配した。江戸登りの際の協力に報いたのである。

 正徳二年、鯨見山の山頂に、鯨供養塔を建立、元禄四年から正徳二年まで、二十一年間に計千三百拾二本捕ったと刻まれている。

 甚右衛門は、享保十年(一七二五年)死去、行年八十一歳。

 正利翁の死後、村民はその偉大な功績と厚い徳を讃え、尊崇と感謝の念を捧げて、守護神として「二十日恵比須」の神号を贈り、「正利翁社」(中筋公園に現存)に奉斉して、加護を祈願した。幕藩体制の下で、一地方の名主が、幕府評定所に訴え出て、堂々と所信を述べ、勝訴を勝ち取った意志と勇気と信念は、驚嘆と敬服に値する。正に、「士魂商才」の人であり、捕鯨に夢を賭けた先覚者である。               (文責 坪井久智)