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瀬戸音信

                                           郷土の漁業
                                    人・物・情報の交差する島々の物語
                                        上五島の歴史と文化・風土
                  (原典:『創立10周年記念誌 上五島の歴史と風土』より)






ウバメ樫



大曽教会



八手網船



鰹節瀬造図

【平成十九年十一月二十四日】

               郷土の漁業

                   法村剛一

◎法村家の出自と調査研究の知見

 法村家は、慶長年間、カツオ漁のため来島した紀州の漁師の子孫である。法村家に伝わる古文書があり、その内容を解読した。その紹介をする。そして五島と紀州と漁師のつながりを調査研究し、五島の漁業が紀州の漁師に深く関わっていることを知った。以下は、その概要である。

◎法村家の屋号とウバメ樫

 屋号は「元納屋」といい、現在の大曽教会の下の地域が字名になっている。法村家は昔大阪と交易をもっていて、この地の地名「元納屋」が法村家の屋号になったものか、又は、法村家の屋号がこの地の地名になったものかは不明。

 この法村家の漁業基地(元納屋)には、未だに古井戸の跡が六ヶ所と恵比寿宮、樹齢三百年を超える紀州樫(ウバメ樫)のほか、元海寺草庵跡、船留用大波止と色見山がある。

 ウバメ樫の大木は、恵比寿宮の境内にあるが、法村家の祖先が紀州より移植したものであり、地元では紀州樫と呼ばれている。

 ウバメ樫の皮を乾燥させたものが「シイカワ」であり、その皮を茹でたシブ汁で魚網を染めると網の防腐と泥着を防ぐので、魚の乗りがよいとされており、棕櫚の皮は網や綱の原糸となるので、紀州の漁村においても多く見られる。このことにより、五島における紀州の漁師と五島の漁業に関わる貴重な資料として、昭和五十三年八月に長崎県指定の天然記念物となっており、さらに、ウバメ樫は木質が堅いので船具である櫓や櫂の一部に使われていた。

◎大曽教会と法村家

 大正五年、大曽教会が字元納屋の地に創設。現在、ゴシック風レンガ造り教会が再建されているが、元々この地一帯は法村家の漁業基地であり、その土地を提供したのは、寛政以来、大曽教会信徒が親から子へ子から孫へと代々にわたって法村家の網子として従事し、共に働くことによって生まれた相互信頼によるものであったから、と伝えられている。

◎紀州の漁師の出国について

 紀州の漁師は、文禄、慶長の頃(一五九二〜一六一五)から、房総方面や北陸地方、九州西海域、遠くは北海道方面へ向けて進出しているが、彼等は、熊野地方において発達した捕鯨業や鰹釣漁や、紀北地方において発達した延縄漁、地引曳網、手繰網、八手網、定置網を、その地域に応じた漁法を用いて進出し、それぞれの技術を惜しみなくその地の漁師に伝えて貢献するとともに、近畿地方や江戸において、需要度の高い鯨肉、鯨油、干鰯、〆粕、鰹節、鯡油、塩干魚を加工して、産地より大阪や江戸へ送って交易をしているが、これらの漁師の出身地は、主として紀北の漁村である加太村、塩津村、広村、湯浅村、三尾村、藤白村と紀南の太地村、古座村であり、加えて泉佐野村となっている。

 当時和歌山藩はもとより各藩は、領民が他藩に出国することは厳しく取り締まっているが、正保二年(一六四五)に「諸々の職人漁人などは大庄屋に相ことわり、請人を立てて郡奉行、御代官へ相達し、一年帰りに仕るべきこと」とした布令が出てからは、春に出かけて秋に帰国する旅漁であったが、そのうち現地に定住した者もいた。これらの漁師の他国進出の要因は、地元沿岸海域の資源の枯渇、度重なる紀北地方の大津波の被害のためや漁民に課せられた二分口銀や船床銀の年貢を稼ぐことにあったとされているが、紀州の漁師は、房総方面や北陸地方、九州西海域に進出することによって成功している。

◎五島における紀州の漁師

 五島に進出した紀州の漁師が各地において厚遇され活躍できた理由は、何れも海に生きる男の勇気と藩政によって育てられた勤勉、節検、協同の精神と、当時としては高度の漁業技術を惜しげもなくその地の漁師に伝授し、その事によって地域の漁業が発展して五島藩の財政が潤ったことにあったと思われる。

 当時、彼等が持ち込んだ網は、既に紀州湯浅村において造られていた保存と耐久力に優れたものであり、船は長年の経験と造船技術によって改良された五島の荒海に耐える安定度の高い紀州船(佐野船)であった。その為に、彼等は初め九州海域(長崎県の対馬、壱岐、平戸、五島、佐賀県の唐津、呼子)における捕鯨に進出すると共に、一部の漁師は船団を組んで釣漁、網漁の技術を持って来島しているが、その後、対馬や五島海域における漁業資源の豊富なことを知ることによって、その地に永住したり、藩に上納銀を納めて漁業を経営したり、多額の献金をすることによって村役衆となり、網加徳者となってその地位を不動のものとしており、そのいずれの者も漁業の経営と共に漁獲物を加工したり集荷して産地より日本最大の消費地である大阪に向けて直送している。

 この様な紀州の漁師の進出パターンは、九州のみならず関東、北陸、山陰方面においてもみられるが、このことは彼等やその祖先が戦国乱世の時代において水軍として参加したり、兵火に焼かれたり重税に喘いだりして揉みしだかれながらも生き抜かなければならないとした逞しい生活力と、権力の行方や当時日本経済の中心地であった堺や大阪経済の動向に対する洞察力を身についていたからであった、といえる。

◎紀州漁師の五島での記録集約

@小値賀町

 応永年間(一三九四〜一四二七)には、鮑の採取の為にこの地に来島したとする紀州熊野地方の海士集団の記録がある。寛永の頃(一六二四〜四三)には、同島六島を基地として鯨組を営み、後に小値賀を西海最大捕鯨基地とした紀州藤白(海南市)の藤松半右衛門の記録がある。宝永元年(一七〇四)、同島斑島に来島して一本釣、延縄、打瀬網を営み、この地に定住した泉佐野村の漁師集団の記録がある。宝暦四年正月(一七五四)、同町斑島の観音堂に梵鐘を奉納している泉佐野村の漁師集団の記録がある。

 A福江市

 永正四年三月(一五〇七)、玉之浦納の乱において、宇久五島家十七代盛定を助け、その恩賞として永代墨付網代と山下姓を与えられた泉佐野村の漁師・弥惣右衛門親子の記録がある。

 B富江町

 元禄三年(一六九〇)、同町黒瀬郷において鯨組を営み、供養碑を建立している紀州湯浅村の藤新右衛門の記録がある。

 C有川町

 寛永三年(一六二六)、同町名主江口甚左衛門と鯨組を営む紀州古座の三郎太郎の記録がある。享保五年(一七二〇)、同町において鯨組みを営む湯浅村の庄助、同じく平次、同じく文之丞、藤白村の角左衛門、広村の又左衛門、紀州の藤六の記録がある。

 D新魚目町

 正保三年(一六四六)、紀州佐野村より来島し、この地に正光山元海寺(真宗)を建立した一世残雪の記録がある。万治三年(一六六〇)、富江藩主に願われて来島し、同町似首において鯨組や鮪漁を営む泉佐野村の湯川助三郎の記録がある。享保五年(一七二〇)、同町において鯨組を営む湯浅村の五兵衛、庄助、弥十郎、久右衛門、古座村の六右衛門、藤白村の久左衛門の記録がある。

 E奈良尾町

 慶長の頃(一五九六〜一六一四)より、同町において釣漁を営む紀州広村の漁師集団の記録がある。寛延の頃(一七四八〜五〇)、同町において鰯漁を営む紀州広村の戸田長兵衛、久徳六部兵衛、岩本若左衛門、鍵屋市部兵衛、安田七兵衛、高蒲権次郎の記録がある。 寛永二年(一六二五)から万延元年(一八六〇)に至って、この地妙典無縁墓地に眠る百五十余基の紀州広村の漁師の記録がある。                              

 F若松町

 慶長の頃、同町有福において釣漁を営む泉佐野村の漁師睍佐伏エ門の記録がある。元禄八年(一六九五)、同町極楽寺において死亡している高野僧法印玄貞の記録がある。享保延享の頃(一七一六〜四四)同町有福において釣漁を営む佐野村の漁師集団の記録がある。

 G上五島町

 慶長の頃より、同町大曽浦において漁業を営む佐野村の漁師、道津、法村の記録がある。同じ頃、同町奈摩村に来島し、「妙号様」を奉安した紀州の漁師兄弟の記録がある。元文の頃(一七三六〜四〇)、同町飯之瀬戸において釣漁を営む佐野村の漁師集団の記録がある。

 以上が五島における紀州の漁師であるが、その出身地は主として泉佐野村、紀州湯浅村、広村、藤白村、古座村となっている。

 その中でも小値賀をはじめとして五島の各地に泉佐野村の漁師が多いのは、文治三年(一一八七)、宇久五島家初代家盛が都落ちした時、泉佐野村より船によって宇久島に下って以来、鎌倉時代や徳川時代には五島より海路瀬戸内海を通り、泉佐野村を経由して鎌倉や江戸に登っている為に、この佐野村と五島は古くからの交流が発生したものと思われてならない。

 これら多くの紀州の漁師は今より四百年の昔から五島へ向けて旅漁を重ねているが、その四百年の間には、現地五島に定住して親から子へ子から孫へと漁業を営んだり、二十才前後の若い身空で長い航海の途中遭難した者がいたり、四十才、五十才の働き盛りの志しなかばに五島において病に斃れた者があった事からすれば、紀州を旅立つ時は一時の別れとはいえ親子妻子の別れがあったり、天神様にその無事を祈願したり、壇那寺において先祖様への供養をしたり、不慮の事故に備えて戒名を貰って旅立った者もあったり、又は五島からの便りで「○○○の善右衛門は何年何月死亡したので本人の遺言により五島に埋葬した」と壇那寺に届けて戒名を戴いたのではないかと思われてならない。

 この事は、当時五島の各地には寺もない時代において、彼等が埋葬されている墓地に戒名のある墓石があることから考えられることであり、また中には名もなく無縁の墓地に眠っている者もあるが、その者の家族は風の便りに「五島で死す、西海で死す」とのみ聞かされた事であろうとおもわれる。然しながらこれら紀州の漁師にとっての五島は、明日に期待する希望に燃えた夕映えの海であった。それは彼らが五島の各地において漁業を営むとともに大阪方面へ干鰯や塩干魚の産地直送をしたり、又は大阪方面より魚網や生活必需品等を搬入したり、その交易によって得た利財を惜しげもなく提供して地元の神社仏閣を建立したり、更に防波堤や船揚場等の公共施設の整備をしたり、勤労、納税、互助共済の尊さを教えて地域の活性化を図っているからであり、更に彼等は士農工商と階級制度の厳しい時代にあって指導層である村役衆となって、その地に理想郷を求めていることからすれば、これら紀州の漁師は五島開発の主役であり、彼等の在るところ海に生きる男のロマンと勇気が明日に生きる力となって残されていた。

 私が紀州の漁師に魅せられてから早くも十年の歳月が過ぎ、その間五島における紀州の漁師を訪ねたところ、その足跡はある町では鮮明に、ある村では漠然とした伝説として残されていたので、彼等の郷里紀州和歌山を訪ねることによって、これら紀州の漁師の祖先や子族や史実に巡り逢える事を期待したが、はや何百年という歳月の流れは遥かなる大河となって流れ去り、洋々たる海となって紀伊水道や熊野灘に淡くかすかに漂っていただけであった。

◎法村家に残る文書の紹介

 法村家の文書は、宝暦八年から十二年(一七五八〜六二)までの「大阪生貝屋書状為替立合控帳」と寛政四年(一七九二)の「従紀州表御書翰着岸付取計覚書併日記」と寛政十二年から文化元年(一八〇〇〜四)に至る「預り証文」の三冊である。

 「大阪生貝屋書状為替立合控帳」は、当時大阪海部堀にあったと思われる両替商生貝屋へ振り出した上納銀調達の為の為替手形と、それに添付した書状の控えを綴ったものである。

 「従紀州表御書翰着岸付取計覚書併日記」は、紀州藩より到着した御書翰についての取り扱いを克明に記録した日記で、その内容は平戸藩浜之浦と富江藩大曽浦法村家の漁場争いについての縣合の状況が書かれており、「預り証文」は、網法村家が近隣村の加徳者(網主)に漁業資金や上納銀を貸し付けた借用証の控えである。

 この三冊の文書の中からは、当時紀州から五島に来島し大曽浦において漁業を営んでいた法村家の漁業経営の実態を知ることが出来るが、その他の年代に至る文書が無いのは、その昔、法村家に大火があったと伝えられていることや、明治に至り新漁業法が施行された為に、藩政時代における旧来の漁業許可権が藩主から県知事に移行して、これまで特権として村役衆に与えられていた漁業権が、民主化により一般の漁民にも与えられる様になった為に、記録の保管が必要でなくなった事と、これらの文書の和紙が生活用品であった襖や農具の張子手捕の下張りや縒などに使用されたからであると思われる。  

 以上が講話の主な内容であるが、詳しい内容は、法村剛一氏著『「夕映えの海―五島と紀州の漁師―』を参照されたい。(文責 鉄川八助)