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瀬戸音信

                                          伊能忠敬と五島
                                    人・物・情報の交差する島々の物語
                                        上五島の歴史と文化・風土
                  (原典:『創立10周年記念誌 上五島の歴史と風土』より)






伊能忠敬像



五島列島測量図

【平成十八年三月四日】

              伊能忠敬と五島

                   比留木忠治

◎講話概説(聴取メモより)

 興味を持った理由のひとつは、貧しい出身であったこと。

 家が残っている(庄屋)。家付の娘と結婚。当時の房総半島の交通は運河を利用し、船運で江戸へ搬入。

 五〇才過ぎに五年間勉強。江戸物産販売所から江戸観測所まで通った。道程を歩幅で測ったが小さいと言われ、北海道までの距離の測量を提案し実行。やがて「五島」まで測量の地域が伸びる。

 五島は海岸線が長い。断崖がある。海が荒れる。二カ月かけて測量を実施。測量の先生は、年下。最初の数年間は、費用は自腹。後に、江戸幕府の援助を受けることが出来た。

 五島に来た時は、一〇人余りの人数。その中で技術者は、五〜六人。江戸幕府の役人もいた。行った先々で何百人かの地元の人たちが協力した。五島藩は財政難の時代(三年奉公)。測量の道程は、地球を一周するくらいの距離を歩いたと言われている。

 シーボルト事件は、高橋景保(幕府天文方)が国外持ち出し禁止の日本地図(忠敬が作成)をシーボルトに贈ったことが発覚し、その罪が問われた事件。シーボルトは国外追放となり、高橋景保は獄死。

 分隊長の坂部貞兵衛は、日ノ島でチブスに罹り、福江で死亡。坂部の忠敬あての手紙が残されている(福江資料館所蔵)。

 五島で測量を実施したのはなぜか。外国船が頻繁に行き交っていたため国防上の必要性が高かったからではないか。(文責 新木涵人)

◎講話内容覚書

 伊能忠敬(ただたか)。江戸後期の測量学者。本名、神保三治郎。千葉県九十九里町に生まれ、十八歳の時に酒造家伊能家の婿養子となる。彼が伊能家に来た時、家業は衰え危機的な状態だった。

 忠敬は倹約を徹底すると共に、本業以外にも薪問屋を江戸に設けたり米穀取引の仲買をして約十年間で完全に経営を立て直した。

 一七八三年(三十八歳)の天明の大飢饉では、私財をなげうって地域の窮民を救済する。こうした功績が幕府の知る事となり、彼は苗字・帯刀を許された。やがて五十歳を迎えた忠敬は、家業を全て長男に譲り、幼い頃から興味をもっていた天文学を本格的に勉強するために江戸へ出る。浅草には星を観測して暦(こよみ)を作る天文方暦局があったからだ。

 人生五十年といわれていたこの時代、隠居後は盆栽を育てたり孫と遊んだり、のんびり余生を送るものだけど、五十歳から「勉強の為に」江戸に向う知識欲、知的好奇心の大きさにオドロキ!

 暦局に着いた忠敬は、この当時の天文学の第一人者、高橋至時(よしとき)の門下生となった。第一人者とはいえ、高橋至時はまだ三十二歳。一方、弟子入りを申し込んだ忠敬は五十一歳。忠敬は家業を通して、長年人を使う立場にあった男。しかも時代は儒教精神から年上は常に敬われ、メンツを何よりも重んじる封建社会だ。普通の男なら、二十歳も年下の若造に頭を下げて弟子入りを請うことに抵抗があるだろう。しかし忠敬は違った。燃え盛る向学心の前では、そんなプライドなど取るに足らないことだったのだ!

 当初、至時は忠敬の入門を「年寄りの道楽」だと思っていた。しかし、昼夜を問わず猛勉強している忠敬の姿を見て、彼を「推歩先生」(すいほ=星の動き測ること)と呼ぶようになった。

 忠敬は巨費を投じて自宅を天文観測所に改造し、日本で初めて金星の子午線経過を観測したりもした。この頃、暦局の人々の関心ごとは、「いったい地球の直径はどれくらいなのか」という疑問だった。オランダの書物から地球は丸いということを知っていたが、大きさがよく分からなかったのである。

 そこで忠敬は「北極星の高さを二つの地点で観測し見上げる角度を比較することで緯度の差が分かり、二地点の距離が分かれば地球は球体なので外周が割り出せる」と提案。この二つの地点は遠ければ遠いほど誤差が少なくなる。師弟は考えた。「江戸からはるか遠方の蝦夷地(北海道)までの距離を測ればどうだろうか」、と。

 当時、蝦夷地に行くには幕府の許可が必要で、至時が考えた名目こそが「地図を作る」というものだった!

 外国の艦隊がやって来ても、幕府には国防に欠かせぬ正確な地図が無く、そこを突いたのだった。結果、幕府は、蝦夷地は勿論、東日本全体を測量してもよいという許可を与えたのだった。

 ただ幕府の援助はなく、全て自費、忠敬は三〇年間しっかりと家業を勤めてきたから、この測量が可能だった。

 忠敬は幕府に手紙を送った「隠居の慰みとは申しながら、後世の参考ともなるべき地図を作りたい」、と。

 一八○○年(五十五歳)、忠敬は江戸を出発。測量方法は、歩幅が一定になるように訓練し、数人で歩いて歩数の平均値を出し、距離を計算するというものだった。

 目撃者の記録には「測量隊はいかなる難所もお通りなされ候」とあり、雨、風、雪をものともせず、海岸線の危険な場所でも果敢に突っ込んでいった。昼は測量、夜は宿で天体観測し、両者を比較しながら誤差を修正、各数値の集計作業に追われた。

 江戸に居た至時は手紙を書いて忠敬を励ました。「今、天下の学者はあなたの地図が完成する時を、日を数えながら待っています。あなたの一身は天下の暦学の盛衰に関わっているのです」、と。

 忠敬は三年間をかけて東日本の測量を終え江戸に戻ると、さっそく本来の目的であった地球の大きさの計算に取り組んだ。その結果を後に至時が入手したオランダの最新天文学書と照らし合わせると、共に四万キロで数値が一致し、師弟は手に手を取り合って歓喜したという。この時忠敬が弾き出した数値は、現在分かっている地球の外周と千分の一の誤差しかない正確なものだった!

 しかし、その喜びの中、至時は天文学書の翻訳等に無理を重ねたため病に倒れ、翌年三十九歳の若さで永眠する。忠敬は深く打ちのめされた。

 半年後、十一代将軍家斉に東日本の地図を披露し、そのあまりの精密さに、立ち会わせた幕閣は息を呑んだ。そして忠敬には「続けて九州、四国を含めた西日本の地図を作成せよ」と幕命が下る。

 彼の測量はもはや個人的な仕事ではなく、多くの人の期待を担う正式な国家事業に変わった!

 一八○五年(六十歳)、再び江戸を出発、今度の測量隊は時に百人以上になることもあった。忠敬は暦方の皆から「西洋人が科学に携わる時には、自分の為にではなく、人の為、天下の為に命がけでやるといいます。天に尽くすつもりで事業を達成されますように祈っております」と励まされた。

 だが西日本の測量は、体力が衰え始めた忠敬には過酷だった。三年で終るはずが内陸部の調査が加わったり、思いのほか四国が広かったために予定の三年が経っても九州は全く手付かずだった。

 ようやく九州に入った忠敬が娘に出した手紙には「(十年も歩き続け)歯は殆ど抜け落ち一本になってしまった。もう、奈良漬も食べることが出来ない」と書かれていた。また、ずっと相棒だった測量隊の副隊長がチフスで死んでしまう悲劇もあった。

 そして、一八一五年二月十九日、最終測量地点の東京・八丁堀で、忠敬は全ての測量を終えた。時に忠敬七十歳。彼が十五年以上かけて歩いた距離は、実に四万キロ、つまり地球を一周したことになる!

 後は各地の地図を一枚に繋ぎ合わせるだけだ。地球は球面なので、地図という平面に移す場合の数値の誤差を修正する計算に入った。だが既に高齢になっていた忠敬は肺を病んでしまう。そのまま忠敬は回復することなく、一八一八年、七十三歳で病没する。

 高橋景保(至時の息子)や弟子達は「この地図は伊能忠敬が作ったもの」、そう世間に知らしめる為に、彼の死を伏せて地図の完成を目指した。一八二一年、江戸城大広間。幕府の重鎮が見守る中、ついに日本最初の実測地図「大日本沿海與地(よち)全図」が広げられた。これらの地図は三万六千分の一の大図が二百拾四枚、二十一万六千分の一の中図が八枚、四十三万二千分の一の小図が三枚という、途方もない規模のものだった。

 伊能忠敬が上五島に足を入れたのが、一八一三年(文化一〇年五月二九日)、伊能忠敬の分隊坂部貞兵衛率いる一行は小値賀より津和崎へ渡り仲知浦、ビシャゴ瀬、江袋を経て海路青方村奈摩へ。

 六月五日、奈摩村、越首から山越え似首へ、また青方村から山越え浦村まで計測、明六日奈摩村を出、江袋、大水鼻、碇鼻、曽根崎を経て小河原浜に至る。

 伊能忠敬の本体は六月十日、小値賀より津和崎へ渡り、赤波江、大瀬良小瀬良を経て立串へ柴田徳太郎宅に宿泊。この日、魚の目代官川崎左右ェ門立串に迎えに出る。

 明十一日立串から小串、大浦、似首、丸尾を経て榎津へ、この日、桑木、浦、堀切まで計量し榎津川口成作、庄屋西村本右ェ門宅に分宿。

 明、十二日、榎津を出、赤之瀬崎を経て有川へ渡る。有川からは中通島の東面の測量をしながら太之浦・阿瀬津・岩瀬・浦奈良尾から奈留島を経て椛島にわたり福江島着いている。

 片方の分隊坂部貞兵衛は、中通島の西部を経て福江島を目指す。しかし、坂部は日ノ島で病に倒れ、福江島で伊能忠敬ら隊員に看取られながら亡くなっている。現在も、福江の宗念寺の境内にその墓は静かに建っている。(文責  湯川紳吉)

【付記】坂部貞兵衛の手紙(『浜木綿』より抜粋)

(前文略)

一、其御方様御不快、少々御快候得共、御床を御離レと申ニも無之由、御保養専一ニ奉存候私儀も、兎角はかはか敷無之、依之明日は、日之嶋引払、福江へ相越、轉薬可仕と奉存候、日之嶋ニても、大既一廻り程の服薬ニ候得共、庸医ニて不信仰故歟、一向しるし見へ不申、其上、日之嶋之宿、大家ニハ候得共、古家ニて、先日之大雨ニ座敷中もり、寝床ニまよひ、両便所十四五間も離し、高キ縁ンヲヤット下りて通い、又、床之廻りを、数万之蟻行道いたし、漸々日之嶋出立ニ相成候と、先うれ敷奉存候 依之明日は、外ニも久賀泊りニ相越候故、私儀も早々日之嶋引払、御先へ福江へ相越、服薬仕、市中廻り之時分ハ、御間ニ逢ひ申度と、心掛罷在候(後略)(六月廿六日書簡)    (文責 新木涵人)