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瀬戸音信

                                      ワイルウエフ号遭難顛末記
                                    人・物・情報の交差する島々の物語
                                        上五島の歴史と文化・風土
                                   (原典:『創立10周年記念誌 上五島の歴史と風土』より)





五島物語



薬師堂



龍馬の手紙の一部



龍馬ゆかりの石碑


【平成十六年七月十日】

         ワイルウエフ号遭難顛末記

                                           山下禎三郎

◎潮合(しおや)騒動(そど)と龍馬

 潮合騒動とは、江ノ浜部落に伝えられて来た事件。

 郡家真一著『五島物語』に次のような記載がある。

〔昭和四十三年(九月)末、司馬遼太郎著『竜馬がゆく』を読んだ有川小の山下禎三郎氏、古賀修身氏、吉居辰美氏は、当時有川町郷土誌編纂資料蒐集係で、ワイル・ウエフ号遭難の事実を知り、その墓碑を探し求めた。史書(編者注・『竜馬がゆく』か)には塩屋崎と記されているが、現在塩屋崎と書かれた地名はなく、有川の潮谷崎がそれらしいので同地一帯をしらべてみると、はたして共同墓地に唯一海に向かって佇っていた墓碑がそれであった。〕(編者注・『竜馬がゆく』には「塩屋崎」とあり、右記引用にも「潮谷崎」とあるが、山下氏は、正しくは「潮合崎」であると訂正された。)

◎龍馬の部下の墓発見 このあたりの経緯を山下禎三郎氏(旧有川町教育長)は『「竜馬ゆかりの墓」発見から三十六年』(資料1)と題する手記で、次のように述べておられる。

〔あれは、今から三十六年前の昭和四十三年九月末のことでした。当時、私は有川小学校に勤務していて船津に住んでいましたが、・・・平戸出身の吉居辰美先生(現平戸市立野子小学校教頭)が一冊の小説を持ってやってきました。吉居先生は、家にあがって座るや否や、私に「山下先生、五島のシオヤザキを知っていますか」と尋ねて来たのです。急なことだったので、私も返事に窮しましたが、江ノ浜の先のシオヤンハナ(地元では昔そう呼んでいた)を思い出して、「シオヤンハナというところは知っているけど、そこがシオヤ崎かどうかは分かりません。シオヤ崎がどうしたのですか」と尋ねますと、吉居先生は「坂本竜馬の部下がそこで遭難して、多くの人が亡くなったそうです。そして、その人たちの霊を慰めるために坂本竜馬がそこにきたそうですよ、ほら」と司馬遼太郎著『竜馬がゆく』の第四篇「怒涛篇」を開いて見せてくれました。何回もそこを読んだらしく付箋が挟んでありました。(注・左記●印)

●ワイル・ウエフ号の生き残りの隊士で下士官をつとめていた浦田運次郎の話によれば船は五島列島の方角に流されていたらしい。

●みな海中に放り出され、浦田ら三人だけが塩屋崎海浜に泳ぎついたが、あとはことごとく溺死した。

●「塩屋崎の海岸に水死十二名の石碑を建ててやるのさ」

●竜馬はこの翌々日、社中の一同をひきいてユニオン号に搭乗し快晴の海を西に向かって帆走し、五島塩屋崎の入江に投錨した。「短艇をおおろし」と、命じた。さきに海難で死んだ池内蔵太らの霊をとむらうためであった。竜馬は海岸に上陸し、土地の庄屋をよんで金を与え、浜に碑を建てることを依頼した(碑でも建ててやらねば、かれらの名はのちの世に空しくなってしまうだろう)。庄屋から筆紙を借り、池らの遺体が打ち上げられた砂浜に紙をひろげ、「溺死者合霊之碑」と書き、碑銘の裏に刻むために遭難者一同の名を書きつらねた。]

 当地にこのような史実のあること知り触発された三人は、竜馬が建てた石碑を突き止めようと、色々地図を調べ、それと思しき海岸線を調査したが、見つからない。あきらめて江ノ浜に戻って帰ろうということになったが、もう一度調べてみようということになり、薬師堂へ行ったところ、堂の由来などに詳しい老人に出合った。奇しくもこの老人が「浦田運次郎」を読み込んだ唄を憶えておられた。それは、《そどよ そど そど 潮合そど》で始まり《さぞやお世話じゃ浦田さん》で終わる俗謡であった。「手記」の引用を続けると、次のようである。

〔塩屋崎は潮合崎であり、ここで遭難事故があったことを確認した私たちは(中略)、翁に厚く礼を言って、村の墓地に急ぎました。吉居先生と古賀先生は、墓地の中央部を探し始めましたが、私は、何かの力で引き寄せられるように一基だけ海に向かって建っている大きな墓に向かって歩いて行きました。碑面を見ると、何と、熊吉、常吉、浅吉・・・という文字が刻んであるではありませんか。墓地に入って二分足らずの出来事でした。私は大声で「あったぞう」と叫びました。二人は「また冗談を」と言っているのです。「うそじゃない、早く、早く」という私の声に二人とも走って来ました。碑を確かめるや三人とも疲れも空腹も忘れて小踊りして喜びました。早速、小説を開いて碑に刻まれた人名を確認してみました。一部一致しないところはありましたが、まさしく私たちが捜し求めていた碑だったのです。(後略)〕

 この碑は、現在「竜馬ゆかりの碑」として脚光を浴びているが、当時、地元では、この碑のことを「さつまじん様」というだけで、その由来は誰も知らなかったという。

◎潮合崎騒動(『有川町郷土誌』(資料2)より)

○事件の概要 慶応二年五月二日の払暁、坂本龍馬主宰の亀山社中持船ワイルウエフ号が江ノ浜の潮合崎で遭難した事件。

 船将高泉十兵衛(鳥取藩浪士黒木小太郎)と士官細江徳太郎(土佐藩浪士池内蔵太)外、水主頭、水主八名が溺死。浦田運次郎(佐柳高次)と水主二名、便乗者薩摩藩家老小松帯刀の家臣村山八郎次の四人が救助され、浦田と村山は友住の佐々田善蔵宅に、水主市太郎と三平は江ノ浜の地役丈蔵宅に収容された。

 浦田運次郎は、積荷と遭難の状況について、次のように供述したという。ワイルウエフ号には、荒鉄凡そ七百石位、鍋地金凡そ二十石位、外に大砲七挺、小筒十六挺、尻込め鉄砲等が積まれていた。二十九日も凪だったが、翌五月一日朝六時頃、甑島(こしきじま)沖まで行った頃から東風が吹き始めて次第に強くなり、天草に向けて乗り戻すうちに風浪が強く高くなり、夜になって島影も見えずますます大風雨大浪になり、夜十二時頃か、大南風に吹きかわって、どこの沖かもわからず、五島領西海へと乗り抜けるつもりで沖合へと向かって行くうちに、二日暁五時頃、表の方にチラと島影が見えたので浦田が舵を取直したが瀬方に近く、舳にいた高泉が碇を入れたが左右海岸の間にあり、高泉は刀を海中に沈めて八幡宮に祈誓をこめた。しかし大波で瀬方に打ち上げられ、引波で舳から沈船した。自分たちは、最寄りの磯に打ち上げられ、磯廻りの人に助けられて有川掛江ノ浜の潮合崎であることを知り、四人共江ノ浜村地役丈蔵宅へ召連れられ、破船の始末を糺された。

 これらの供述内容は、「安永文書」(友住村遠見番所船見役安永惣兵衛孟貞の取調べた古文書)に基づいている。引用すると次のようである

〔破船ニ付證文

 寅五月二日暁当領有川掛江之浜之内汐谷崎と申所にて松平修理太夫様御手船異国形帆前船壱艘及破船候段城下表江致注進役々出張一と通吟味候一件左之通

一拙者共儀薩州手船異国形帆前船乗組之者にて今般於長崎屋敷買入候同異国形帆前二本檣運送船壱艘、乗頭高泉十兵衛、細江徳太郎、拙者並水主便を共十六人乗荷物左之通積入申候

一荒鉄 凡七百石位 一鍋地金 凡弐拾石位

右之通積入候得共、弥何程と申儀相心得不申四月廿八日暁七ツ時頃長崎港出帆之処、翌廿九日朝より風浪不相極凪ニ有之候得とも色々舵とり同夕天草牛深迄通船之処無程夜ニ入兎角風茂不相極漂居候内、夜明ニ相成翌朔日朝六ツ時頃ニ候哉、領内甑島沖迄通船漂居候内東風吹出シ候ニ付、沖江舵リ出候処、次第吹強り何分国元江乗付不相成高泉十兵衛初乗組候事申談之上五ツ時頃ニ茂候哉、只今之内天草地江向乗戻候ツツ同所何連江成共乗付て申評判相変候ニ付、帆をひらき一時天草目掛ケ乗戻行候内、四ツ半頃より雨降り出し風益吹募り波高ニ相成、夜ニ入迄何れの島影茂不相見次第大風雨大浪ニ罷成候得成候得共、船中一同精々相仂兎角取凌居候之内、凡九ツ時頃ニ茂有之候哉大南風ニ吹変し浪は次第ニ堆く殊ニ暗夜之大風雨ニ候得は、最早何れの沖合江罷在候哉相分不申、天草地乗付茂不任心底此上致方茂無く、高泉十兵衛御一同評定致候は只今迄吹続候東風ニ有之候得は、多分五島領西洋江乗抜て申積にげ任風船を真艫ニ向直し三ツ折一勺丈之帆ヲ掛ケ沖合々々と乗行候処、同二日暁七ツ半頃ニ茂候哉表之方江チラと島影相見へ候ニ付乗組惣て取驚拙者梶を取直し候内、最早瀬方近く相見得無致方表江罷在候高泉十兵衛入碇候得共左右海岸の間にて十方ニ暮、十兵衛は刀を海中江沈め、八幡宮江祈誓を籠、折角取防船ヲ瀬当不申様ニ九死一生相仂候得共、終ニは大波ニ罷打上瀬方江相当候之処引波ニ付舳より沈船ニ及乗組人数如何散乱致候得、大波ニ罷引巻候内拙者並便乞村山八郎次、水主市太郎、三平儀は最寄磯辺江罷打上助命罷在候砌り無間茂夜相明候処、磯廻之人相見得候ニ付、何れ之御領分ニ有之候哉聞合候処、五島御領有川掛江之浜村之内汐谷崎と申所之由にて則難船之旨申聞候処直ニ四人之者共、右江之浜村御地役丈蔵宅江罷召連破船之始末罷相糺右之趣有川御代官衆江罷申越則近藤七郎右エ門殿御地役衆具外大勢御召連就罷越難船場之様御見分之上尚又委細御取調ニ相成直ニ御城下表江就及御注進且四人之者共江衣服壱枚宛手拭壱筋ツツ御与就下猶船中以来追々差労て申旨御叮嚀御介抱罷下候之上滞留中不自由之品茂有之候て無遠慮て申出死骸其外海底江相沈居候品茂凪海次第追御取上て就下由且船付荷物自分荷物何程有之候哉御取調ニ付左之通

一、大 炮  七挺 一、小 筒 拾六挺

右之通船付ニ御座候

一、尻込鉄砲 三挺 一、同六挺込 同

右之通乗組三人分余は兼て相携候御道具手廻等之儀茂何程持合候哉存不申候(以下略)〕(古文書引用文 文責 湯川紳吉)

○事件にかかわった人たちと動向 有川代官所が通報を受けたのはその日の昼頃。早速代官近藤籐七郎右衛門は、下代原才衛、船見役平田軍治、中山五三郎、庄屋嘉右衛門らに友住遠見番役安永惣兵衛、下船見立木勝四郎、小頭浜辺利八、足軽又作等が加わって江ノ浜に行き、幔幕を張って仮番所を設営し、生存者の両宿所にも幕を張り高張を立て、番所には昼夜代官・下代の内一人と船見・足軽各一人が詰めて破船の沈荷、流れ物・死体の収容吟味に取りかかり、取り揚げられた沈荷、流れ物は友住の佐々田善蔵・浜辺利八・町人惣右衛門及び安永惣兵衛が預り、下代・船見役遠見番役並びに江ノ浜・友住・赤尾三村の小頭に浦田運次郎等が都度立会い検分することとした。翌三日、中山五三郎が中乗飛船で福江藩庁に通報、五日、藩から御目付太田水之助と足軽目付平右衛門等が友住に来着、立木勝四郎宅を宿舎として浦田運次郎から事の顛末を聞き、六日、飛船を以て長崎の薩摩屋敷へ通報、十七日、薩摩藩船方役小嶋朝之進と船棟梁木森善内(善助)、問屋加納屋重助が来て佐々田善蔵宅に旅装を解いて委細を糾明、十九日一旦長崎へ引きかえしたが、友住の医師中嶋雲碩の治療を受けていた村山八郎次も同行帰国した。そして福江藩から船奉行穎川真作と足軽が友住にきて安永惣兵衛宅を宿とし、生存者に対し福江の殿さまからの慰労の辞と酒肴が贈られた。六月七日になると薩摩の長崎屋敷の産物元締役服部清八郎と御用付代尾上助次が渡来、安永宅を宿舎として太田水之助・近藤七郎右衛門と諸事について談合し、十三日、更に薩摩産物元締役付山本作右衛門と一旦帰った船棟梁木森が海士十三人、取人二人、夫方六人と沈荷取り揚げ道具を携えて来て、佐々田善蔵宅を宿舎とした。

○龍馬が来る 寺田屋事件で傷を負った龍馬は、この時期、湯治のため鹿児島に滞在していたが、ワイルウエフ号遭難の報を受けると、急遽、鹿児島に入港していたユニオン号で長崎に帰り、六月十四日、社中一行と遭難現場を訪れ、江ノ浜で自ら碑文を認め、建碑費用と共に地役人に託して、下関に向かったという。

墓碑の碑文

 正面=高泉十兵衛、水主茂吉、嘉蔵、細江徳太郎、徳次郎、貞次郎、水主頭虎市、勇蔵、幸助、同熊吉、忠次郎、常吉

 左側面=薩州手船二本檣帆前船、当所於塩合崎破船乗船之人数

 右側面=慶応二丙寅五月二日、暁天溺死各霊之墓

◎安永文書(資料3)

 石碑発見者の一人・吉居辰美氏は、長崎県教育研究(昭和五十五年一月号)に、「坂本竜馬ゆかりのワイル・ウエフ号遭難の慰霊碑発見顛末記」と題して随想を発表されている(「長崎県職員公式ブログ」(http://renkan.exblog.jp/tags/。その中で、広報誌「ありかわ」(昭四十四年十一月十五日)から「安永文書」に関する発見の経緯や内容について引用し、次のように紹介している。

 〔この碑が発見されて以来、有川町教委の大内田氏は精力的にこの件についての追跡調査を行った。その結果、福岡において当時の友住村遠見番所船見役安永惣兵衛孟貞の取調べた古文書が発見され、ワ号の遭難に関して次のような事実が明るみに出た。

 遭難を知らせる江之浜村地役人の急報に有川掛代官近藤七郎右衛門は、現地に飛船でかけつけ福江城下に急報した。五月五日に五島藩目付役太田水之助が現地に出張ってきた。水死体の収容、海中に沈んだ積荷の引揚げ等に土地の水練達者な者は勿論のこと有川鯨組羽指、宇久海士など一一五〇人、船一二三艘が繰り出されて江之浜村は戦場のようにごったがえした。

 約一ヵ月半にわたって救難作業が続けられ、六月十八日に薩摩藩に積荷等の引渡しが行われた。五島藩側より、御目付役太田水之助、御船奉行頴川真作、有川掛代官近藤七郎右衛門、下代船見役、薩摩藩側から、長崎蔵屋敷物産総元締服部清八郎、御用付代屋上助次、士官浦田運次郎、水夫が双方立合い積荷引揚げ目録が手渡されて、ワイル・ウエフ号遭難事件は落着した。

 「資料3」として、配布された「安永文書」は、その一部で、浦田運次郎が尋問に応じて、遭難の概略と乗組員十六人の名前を供述した記録である。乗組員の名前のみを抜粋する。

〔乗頭 高泉十兵衛、細江徳太郎、助命・浦田運次郎、水主頭・登市、熊吉、平水主・朝吉、助命・市太郎、徳次郎、勇蔵、忠次郎、嘉蔵、貞次郎、幸助、常吉、助命・三平、便乞・助命・村山八郎次 此八郎次殿は薩州様家老小松帯刀様家来にて友住港口江上陸其外は汐谷崎最寄へ上陸之事〕   (文責 新木涵人)