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瀬戸音信

                                      五島うどんのルーツ・秘伝
                                    人・物・情報の交差する島々の物語
                                        上五島の歴史と文化・風土
                  (原典:『創立10周年記念誌 上五島の歴史と風土』より)





船崎案内板




手延べうどん製造工程




体験風景


【平成十四年六月十五日】

           五島うどんのルーツ

                                                                                吉村政徳

 1  日本の食文化は、麺(めん)をぬきにしては語れない。それほど麺は全国各地に深く根を張り、地方のオリジナルな形や香り、あるいは食べ方まで創造してきた。

 本県唯一のうどんである「五島うどん」もその一つだが、五島うどんはいま、全国に静かなブームを起こしつつある。

 五島うどんは、今でこそ知る人ぞ知るうどんであるが、数十年前までは地産地消で市場に出回ることも少なかったため、おいしいのに五島以外の人たちに広く食されることがあまりなかった。「幻のうどん」とまで言われる所以もここにある。

 ところが、この五島うどんが、数ある全国有名ブランドのうどんに比べて、「どこの麺よりもコシが強くて決してノビない美味い麺」ということが広まってからその魅力は倍加され、今や「日本三大うどん」に数えられるまでになってきたのである。

 「三大うどん」の一つとはたいへん名誉なことだが、実はもっとスゴイことが先ごろ長崎新聞に載った。うどん博士と異名をとる国学院大学の加藤有次博士が「五島うどんが全国うどんの発祥」という小論を発表されたのである(追記参照)。つまり氏は、日本のうどんの発祥地は、歴史的にも古来の製法が今も残っている「本県の五島、なかんずく上五島」であり、上五島から全国に広まったと主張されているのである。

 私はこの発祥地説をすでに数年前に博士から聞いてはいたが、それを聞いた時には、「わが郷土にもすごい宝があるものだ。」と小躍りして喜んだことを思い出す。

 2  この「五島のうどん発祥地説」をひとつの契機として、私は平成十三年十一月、教育長として五島うどんのルーツを求めて中国に渡った。うどんの本家調査である。

 しかし、一口にうどんと言っても中国の麺の種類は三百とも四百とも言われ、そのルーツを捜し当てるのは至難の業である。

 歴史的に日本のうどんは、遣唐使が伝えたとする説と元寇の役のとき伝ったとする説がある。また事前の研究で五島うどんは乾麺で製法が手延べであることから、中国にこれと類似の麺がないか文献で調べたところ、「索麺」という乾麺製法の麺があることを突きとめた。

 さっそく長崎の中国領事館を訪ね、時の張煥忠総領事に協力を求めると、総領事は本国政府に電話で調査を依頼して、数日後、浙江省温州市近郊の永嘉県(えいかけん)に「岩坦索麺(がんたんさくめん)」というのがあることを教えてくれた。また、県の国際課でも乾麺なら遼寧省の瀋陽市(旧奉天市)に「香雪桂麺(こうせつけいめん)」という麺があり形も五島のそれと良く似ていることを案内してくれた。

 その他にも山西省、山東省、福建省などが調査の候補地にあがったが、最終的には元寇ルートの桂麺と遣唐使ルートの索麺に仮説を立て、この二つに絞込んで中国の現地調査を開始した。

 その結果、蒙古に近い瀋陽市の香雪桂麺は五島うどんとは、似て非なるものであることがわかった。ラーメンであった。ところが翌日、浙江省永嘉県に入り岩坦索麺の調査を始めたとき、この索麺こそが五島うどんのルーツだと直感する製造現場を目の当たりにしたのである。大げさに言えば何百種類もの中国麺からの大発見であった。

 驚いたのは、その製法が五島の手延べと何から何まで同じであるということ。これには本当に驚いた。目の前にこんな事実が展開するとは全く予想だにしていなかったので、平静の心に戻るのにかなりの時間がかかるほど興奮した。

 製法の一致は単なる偶然ではないのか、いくら中国と五島が指呼の間といっても時空を超えて同じ製法が本当にあり得るのか、もしかして五島うどんは近年この地から移入された歴史の浅いものではないのか、いろいろな憶測をめぐらしながら調査を進めた。だが進めていくうちにやはり五島うどんは岩坦索麺がルーツであり、温州の港から遣唐使が五島にもたらしたもの、ということが確信できた。

 3  岩坦索麺のある温州市近郊の永嘉県は、日本の佐賀県と新上五島町を足したぐらいの広大な町で、人口が約九万人。しかも千年以上の多数の史跡や古態の生活様式を今に伝える歴史の町で、時間がゆったり流れて鄙(ひな)ぶりを今にとどめるうどんの町である。

 中国の自治区分は「省」が日本の「県」に当たり、市は市で、「県」が日本の「町」になる。だから永嘉県は日本流にいえば「永嘉町」である。町内の小さい集落は、日本の「大字」に当たるのが中国で「鎮」とか「郷」という。永嘉県は十二鎮二十八郷からなり、索麺のふるさと岩坦は岩坦鎮と言われる一万二千人ほどの農業の村。五島の気候とよく似ている。隣町温州市の市の花木がツバキというから共通するところも多いようだ。

 岩坦鎮は、うどんの原料の小麦とビーフン原料の米を二毛作で作り、どちらも地産地消であるため索麺が商品として店頭に出回ることはない。そしてどの家でもうどんを作らない家はないほど鎮全体がうどんの村である。事実、午前八時ごろに岩坦に到着したが、目的の館に着くまでの間、各路地でうどんを食べている人を何十人見たことか。それは異様な光景ではあったが確かにうどんの里であることを如実に象徴するものであった。

 岩坦索麺の製法の一部始終を実際に見学した。まず@小麦粉に水と塩を入れ手でこねる。A寝かす(熟成させる)。B円盤状に延ばす。C円盤状に平らになった麺を包丁でらせん状に切る。D切った麺を手もみしながら親指大の太さの縄状にしてタライにらせん状に巻きながら入れる。E小巻木(こまき)に麺を8の字に綾掛けして伸ばして細くする。F箱の中で再び寝せる。G小さく伸ばす(これを五島では小引きという)。Hハタ付けに差し更に伸ばす(大引き)I乾燥させる。J五十センチ程度にカットして8の字に整える

 この手延べの製造手順は、五島うどんのそれと何から何まで同じである。使う道具もほとんど変わらない。あえて違いを探せば、五島うどんは島特産のツバキ油を縄状になった麺の表面に塗るが岩坦麺は塗らないことぐらいである。

 索麺の索とは縄状という意味。まさに両麺とも製法の途中で親指ほどの太さの長い縄麺とする。だから別名岩坦麺は「長寿麺」とも呼ばれ、あるいは細く伸ばすときに8の字に綾掛けすることから「8字麺」ともいわれて、吉祥縁起の食べ物としてこの地方の食文化の中心をなしている。たとえば、新婚夫婦は初夜寝室に入る前に必ずこの長寿索麺を食べるという。また各家では来訪のお客をこの索麺でもてなし、手土産や贈答品としても使われる。五島うどんの習慣もひじょうにこれとよく似ている。

 4  温州の岩坦索麺がいったい何時どのようにして五島に伝播したのか。うどん博士の加藤有次教授は、遣唐使が日本本土に伝える前に五島に伝えたと発表した。私は姉妹都市調査と共に加藤説の信憑性をも探ろうと中国現地で調査にあたった。

 まず遣唐使船の南路は、五島から一挙に東シナ海を横断して揚子江河口地帯の楊州から蘇州明州の間に上陸している。温州もその中にある。八四二年の「平安遺文」という書物には、「入唐僧の恵雲は、博多から五島の奈留島に着き、船長は唐から乗ってきた旧船を捨てて、島の楠木を切って三ヶ月で新船を完成させ、六日で温州の楽城県に着いた」とある。温州の楽城県とは現在の楽清市で港町。その楽清市から岩坦までは五里ばかりで一山越えたところにある。

 千古の生活が今も息づく岩坦と海を挟んで一衣帯水の地にある五島の接点がここに浮かびあがる。そして千年以上の時空を超えて両方の索麺製法が今も同じように伝承されている事実は、稀有なことと思われるかも知れないが、両地方とも文化文明の激流にさほど流されない土地柄だけにこういうことは在り得ることなのだ。

 数年前、「古事記」に五島地方に麺(の一種)があったと記されていると長崎新聞が報じていた。千年どころか千三百年近い歴史を持つということである。五島うどんはまさに歴史あるうどんであり、加藤有次博士の発表の通り、五島こそが日本最古のうどん発祥の地と確信する。

 ここに、わが上五島は「全国うどんの発祥地」であることを内外に広く宣言する。現在、福岡市の天承寺という境内に「うどんそば発祥の地」という碑が建っていて、博多がそれの発祥地と主張しているが、これは、禅宗の僧が一二四一年に宋から「古文書水磨の図」という製粉技術の原理を伝えたのが、始まりとしている。

 確かにこの史実は疑うべくもないが、麺の伝来はそんなに新しくはない。六三〇年から始まった遣唐使の長い旅での保存食を考え合わせれば、五百人以上にものぼる船団の食糧をまかなうにはおのずと乾麺が採用されるのは理の当然である。古事記にある五島地方の麺の記事もこれを裏付けてはいないだろうか。

 5  上五島の住民にとってうどんは食文化の代表格である。いわば空気みたいな存在といってよい。むかしは季節の節目ごとの行事や冠婚葬祭では必ずうどんが出ていた。ハレの食べ物なのである。今でも上五島でうどんのないイベントは考えられない。

 うどん料理は素うどんが一番旨い。絶品の麺が上五島の特産品アゴ(トビウオ)だしスープと絶妙にマッチしてコシの強い麺をいっそう引き立たせるからである。また名物「地獄だき」を食べた島外の人は、「これを知ったらよそのうどんは食べられん」と口をそろえる。

 五島うどんは、所によって束ねる帯に青帯と赤帯があり、結ぶ帯の色で並と特上物の区別をしていた。また土地の殿様に献上するときには、桐箱入りの特別仕立てで献上している。

 今は、桐箱入りはないが、赤青の色帯や桐箱入りの特上うどんを現代に蘇らせるのも文化力を高める一つの方法だ。ぜひ復活を願う。島外への需要拡大策で役場にも「うどん課」があってよい。しまの子供たちにも、総合的学習の中でこの宝を学習し、わが郷土の高い文化価値を理解させたい。

                         (文責 吉村政徳)

 五島うどんのルーツは中国にあった!

 うどん博士と異名を取る國學院大學の加藤有次教授によると

 「五島うどんが全国のうどんの発祥地」という。

 遣唐使によって中国大陸から伝えられたうどんの製法が、五島 から全国にひろまったという説。

 そして、そのルーツが中国の「索麵(さくめん)」であるとい うのだ。(追記参照)

【追記】

       五島こそうどんの古里 

                                                國學院大学教授 加藤有次

 五島うどんは忘れることのできない存在である。以前、テレビの旅情報番組で「うどん街道」シリーズのリポーターを担当した際、五島に渡ったことがある。それは、日本のうどんの歴史を見る上で五島うどんが非常に重要だからである。

 そもそも、うどん発祥は中国である。奈良時代から平安時代にかけて、先進文化を導入するため中国に派遣した遣唐使が持ち帰った数十種類もの唐菓子の中の、索餅(さくべい)、はくたく、餛飩(こんとん)が日本のうどんになったといわれている。

 餛飩は小麦粉をこねて広げた皮に、切り刻んだ肉を包んで煮たもので、今日のワンタンのようなもの。中国には今でも餛飩屋が存在する。日本では、この餛飩が温飩(おんどん)、そして饂飩(うどん)になったといわれているが、その変遷を確実にたどることは難しい。

 では、索餅とはいかなるものなのか。これは奈良時代・天平期の東大寺の正倉院文書に記録が残っている。最初は麦縄や麦といわれたものが、次第に索餅と呼ばれるようになった。索とは太い縄という意味で、小麦粉を餅(もち)状にして、あたかも縄をなうがごとく、細く麺(めん)にする。この製法はまさに五島うどんそのもの。やがて、この製法が石川県の輪島そうめん、富山県の氷見うどん、秋田県の稲庭うどんなどに伝わったと考えられる。

 これらは皆、日本海側であることから北前船によって伝達されたとしているが、決してそうではない。輪島そうめんは江戸時代以前からのものである。伝わった方法については別に熟考を要するが、この索餅から索麺、そうめんへと変化し、日本のめん文化の歴史を担ってきたといえる。

 五島うどんの発祥についてであるが、五島列島は奈良時代から遣唐使が中国から渡航する際の休息地であったため、恐らく遣唐使によって索餅の製法が五島に伝わったと考えられる。したがって、索餅のわが国最初の上陸地は五島ということになり、五島こそが日本最古のうどん発祥地といえる。

 その後、この製法が近畿地方から日本各地に伝わり、太く、細く、長い麺を作り、食べる上で各地の風土や知恵によっていろいろな工夫が施された。うどんは、それを媒体として千年以上の日本の歴史やさまざまな郷土の食文化を生み出した。そして今日、日本人の代表的な食文化の一つとして形成されるに至ったが、その原点は五島であり、五島こそがうどんの古里である。

 こうして全国に広まったうどんではあるが、うどん研究は、いまだ途中段階であり、今後はさらなる努力を要する。「たかがうどん、されどうどん」なのである。(平成十四年三月十九日・長崎新聞掲載コラムより)


【平成二十三年三月十二日】


   
五島うどん秘伝 〜手づくり体験と試食会〜 

                                         平岩勝行

◎講師紹介

 上五島手作りうどん組合・組合長

◎日時・場所

 三月十二日 午前十時より 於・船崎饂飩伝承館

◎体験記(担当 吉村政徳)

 私たちの周りには知っているようで実は知らない灯台下暗しのものが数多くある。身近にありながら気付かない大切なものも多い。五島うどんなどその典型で、「地獄炊き」の炊き方やその他のレシピは知っていても、麺の作り方となると島の体験者もそんなに多くはない。

 本会は、その部分に着目して本年度最後の文化講座を表題の通り「手づくり体験と試食会」として試みた。場所はうどんの古里・船崎郷の「船崎饂飩伝承館」。この伝承館は平成二十年に完成した公民館だが、昔からの船崎うどんの製法・伝承・体験・交流の場として建設された「うどん文化」のコミュニティーセンターの機能を併せ持つ。

 当日は会員二十四人が参加した。講師には、同郷の「上五島手づくりうどん組合」の組合長である平岩勝行氏夫妻をはじめ、石川うどんの石川ゆきえさん、船崎製麺所の犬塚勝也さん夫妻、西下製麺所の西下俊行さん、津田製麺の津田美恵子さん、宮下製麺所の宮下ツネさん、道脇うどんの道脇智子さん、そして伝承館の伝承会恵製麺の西崎美恵さんの八製麺所の方々に指導を仰いだ。

 講師陣は朝の五時から仕込みに入り(通常は午前三時から)準備していた一俵(二十五s)の小麦粉に塩水を混ぜて生地にする「@練り上げ」から始まり、次いで麺の腰を強くするための「A足踏み」をしてタライにしばらく寝かせる。その後「のし台」に生地を乗せさらに足踏みしながら広げていく。ころ良い広さになったところで、鎌で生地に渦巻き状の切り目をいれる。この作業を「切り回し」と呼ぶ。切り回した生地をほどき、縄状になった麺を手で丸めながら小指ほどの太さに細く丸める「B細目作業」をして、再度渦巻きにしてタライに納める「Cこなし(小均)」となる。このとき刷毛で縄状になった麺の表面に椿油を塗る。これは麺と麺とがくっ付かないようにすることと、歯ごたえのある食感にするグルテン引き出しとそれを逃がさないための幕づくりと言われている。

 ここまでの作業工程を指導陣があらかじめ早朝から準備してくれた。そしていよいよ午前十時から講座が始まる。ほとんどの参加者が初めての体験のようで、白のエプロンと帽子を貸与され手をよく洗ってから恐る恐る開始。

 作業工程は「Dかけば(掛巻)」という作業から挑んだ。「かけば」は、六〇aほどの小指大の竹の棒二本を三十a幅に横に並べ、八の字を描くように棒に麺を掛けていく。それも麺に撚り(ひねり)を掛けながらの作業だから、初めての体験者にはなかなか難しい。手本を見せる講師陣の手慣れた早業に驚嘆の声があちこちからあがる。しかし参加者も掛けるスピードを除けばみな満足げな表情で、「かけば」をこなしていた。ちなみに撚りを掛けるのは延ばすときに切れないようにするためという。

 かけばが済んだ麺は、箱に納められて熟成の時間をとる。その後、「E小引き」・「中引き」といって、八の字に掛けられた麺の二本の竹棒を二人で引き合って延ばす「小引き」。少し延びたところで一休みさせ、次の「中引き」で再度延ばしてだんだん麺を細くしていく。ある程度延びた麺は次の作業「Fはたかけ」となる。「はた」と呼ばれる干し台に掛けることだが、「あぜ開け」(麺と麺を広げる)という作業をしながら乾燥準備に入る。そして「G乾燥作業」となる。

 伝承館には天井からの扇風乾燥機があるので当日は室内乾燥となったが、船崎の各製麺所ではそのまま「はた」を外に出して天日干しにして乾燥させるところが多い。手づくりうどんの船崎ならではの風景でもある。本来は、外干しのあと室内に入れて丸一日乾燥させて完成となるのだが、当日は数十分の乾燥だけで半なまでの試食会とした。

 「はた」にさがった約三十本の参加者手づくりの半なま麺をハサミで個人個人の自由な長さに切って調理場へ運んだのだが、プロが商品にする際の麺の「Hこわり作業(一定の長さに切断する作業)」も製麺所によって長さがまちまちで、それぞれに異なるという。ちなみに組合長の平岩勝行さんは十八・五a。浦桑郷の某製麺所は二十四aといった具合である。

 試食会は参加者が自ら作った麺で「地獄炊き」にした。加えて製麺所の奥さんたちの手づくりのおむすびや惣菜も膳に並び賑やかな昼食となった。うどんを食べてみると、いつもの船崎うどんに比べるとやや麺が太いかなという感じがする。

 平岩勝行氏は「初めての体験ではこのくらいの太さで丁度いいでしょう。」と、参加者をフォローし、腰の強さにも「半ナマだとこれくらいのものなんです。」と説明があり、やや甘い講評に体験した参加者も苦笑しながら納得した面持ちであった。

 一俵の小麦粉から一袋三百グラムのうどんが六十五袋とれるという。参加者は自ら作った手づくりうどんとフシ麺をお土産にたくさん頂いて、満面満足の顔で講座を修了した。

 講師陣のチームワークは今後ますます高まり、そして深まっていくことを確信しつつ、うどん伝承館のさらなる稼働を願って極めて有意義な年度納めの講座を閉じた。      (文責・吉村政徳)