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瀬戸音信

                                          故郷の中世史
                                    人・物・情報の交差する島々の物語
                                        上五島の歴史と文化・風土
                   (原典:『創立10周年記念誌 上五島の歴史と風土』より)





宇久島東光寺




小値賀島神方古墳




小値賀島前方




小値賀島碇石



【平成十八年四月二十二日】

             故郷の中世史

                       塚原 博                                

◎講師紹介

 小値賀町歴史民俗資料館学芸員を経て、現在、同館館長

◎講演内容(聴取メモと配布資料参照)

○歴史学の研究 二通りの方法がある。文献史学と考古学。

●考古学は、物(遺物)と遺跡(不動産)から歴史を再現する学問。

●「五島列島の中世」の文献史学による研究はあまり得意ではない。そこで、遺跡を通して見てみたい。そのためには、中世より前の時代からの流れをつかんでおく必要がある。

○自己紹介 出身は、佐賀県の夛久(山に囲まれた盆地)。

●山に囲まれた世界と海に囲まれた世界の歴史には、大きな違いがある。このことに興味を持った。

●大学時代に、浜郷遺跡(有川地区)との出会いが契機となって、小値賀にやってきた。今年(平成十八年)で三十二年になる。

○五島列島の遺跡 織豊時代までの遺跡が宇久から福江にかけて三四〇個所発掘されている。北半部(宇久島→若松島)二四一ヶ所、南半部(奈留島→福江島)九十九ヶ所。

●遺跡を時代毎に分類すると、次の通り(重複遺跡あり)。

旧石器時代三九(北三〇、南九)、縄文時代一八一(北一〇五、南七六)、弥生時代七九(北五八、南二一)、古墳時代四八(北四一、南七)、古代十一(北九、南二)、中世百十一(北九七、南一四)。

●弥生時代→古墳時代→古代にかけての遺跡の急激な減少傾向が如実。この変動は、五島列島における人類活動の歴史の一端を示していると言える。

●五島列島の考古学的年代は、二万五千〜三万年の歴史 「オオサコ」遺跡(小値賀町斑島)出土の「剥片尖頭器」が最古の人類遺物で、二万五千年前の実年代が与えられている。

●弥生時代の特徴は、二分している点にある。 滝河原で石棺が出土。これより南では石棺が出土していない。滝河原瀬戸が小近(遺跡=多)と大近(遺跡=少)の境界となっている。中世期の遺跡も同じ。上、下文化圏の相違が明確にあることを示している。

●弥生時代の墓は、中期以降減少してくる。集落が減少して行ったことを意味する。疫病、海進が原因としている学者がいる。

●古墳時代 『古事記』『風土記』に「チカ」島との呼称で出てくる。『風土記』の「大近」「小近」という捉え方は、考古学的には広域的見方であると言える。

●古墳時代の墓の特徴は、石室を造っている点で、六世紀以降になると「神方遺跡」などで見られるように、副葬品として武器が出土してくる様になる。

●古代、遣唐使時代の遺跡は、宇久島宮ノ首貝塚、小値賀島相津遺跡、福江島大浜遺跡に代表される程度で遺跡数が最も少ない。特に遣唐使寄港地といわれている青方湾や川原湾周辺地域に同時代遺跡が発見されていないが、寄港地特定と絡んで重要な問題。

●五島列島の古社・古寺院 七世紀末から九世紀末にかけて、六つの神社(地主大神宮=五社神社・白鳥神社・大津妙見社・横須賀熊野神社・沖の神島神社・奈留神社)と二カ寺(大宝寺・浄善寺)が創建されている。特に重要なのは、七〇二年前後に創建年が集中している点である。

●五島列島の遺跡の分布の特徴 古墳時代以降は、北部「小値賀島」と南部「福江島南東部」の両極に分布。しかし、永徳三年(一三八三)の宇久氏福江島移転まで、下五島地域で知られている地名は、奈留と美禰良久が散見される程度。

●中世期遺跡分布の状況 宇久島一八、小値賀島域七八、両島域以外の上五島域二四、合計一二〇遺跡。これに対して下五島域全体では、二〇ヶ所の遺跡しか確認されていない。

●中世、中国から鴻臚館(こうろかん)目指して商船来航。

●五島列島は、宇野御厨の一部として位置づけられていた。

●清原是包は、小値賀島の地頭職であった。

●宇久氏の台頭 山本遺跡・西泊遺跡から中国製陶磁器出土。

●一三八三年以降、山本遺跡からの中国製陶磁器出土は激減。

●宇久氏は、中国船との交易によって財力を蓄えた。一方、朝鮮半島製の陶磁器出土は極めて少なく、交易はあまり活発には行われていなかったと判断される。青方氏の衰退の原因は、領地の細分化によって勢力が減退したことによる。

●遺跡出土の中に「干しあわび」があり、交易品であった。

◎中世期五島列島の政治状況(清原・松浦・宇久)(講演資料より抜粋)

○九世紀末〜一〇世紀初頭頃 小値賀を本拠地として続いた清原氏の五島列島支配が、狭義の小値賀島に関する限り十二世紀中葉に松浦氏にとって変わられ、以後、藤原―青方氏と続く清原氏一族は、松浦一族との地頭職を争いながら中通島を本拠地とすることになり、その間に宇久島を本拠地に勢力を伸張させる宇久氏の動向も加わって、上五島地域における在地豪族の活動の活発化とともに中世期遺跡の増加をもたらし、さらに、その影響は、下五島地域にまで及んだ。当然その背景には、経済的動静があり、宇久島と小値賀島域における貿易陶磁器の出土状況から見ると、中国商船との交易もかなり活発に行われた。こうした五島列島内の動きと、南北朝騒乱など社会情勢の変動、貨幣流通など社会経済の成熟等々、時代を追って様々な社会現象に連動し、五島列島の各地と広範囲な地方間の物資移動、流通が活発化していった。

◎流通品の具体例 石造物類(石鍋、石塔、碇石など)、土器陶磁器類、金属製品(銭貨、仏像、仏具など)、木工品(仏像など)、紙類。

・小値賀町内で発見されている六本の「碇石」及び十一世紀後半代から十七世紀初頭に至る多くの貿易陶磁器は、三代実録も伝えるように中国船等の来航を物語る遺物と推定され、五島列島が我が国と中国等の国々との交流もしくは貿易が展開されていく古代から近世期に至る間、文字通り中国東海の門戸として深い関わりを持ち続けてきた海域があったことが伺われる。

・五島列島で筆者(塚原氏)が把握している貿易陶磁器の出土地点は、)に示した通り、現時点で総数七二ヶ所である。それらの遺跡は五島列島全域に万遍なく分布している訳ではない。宇久島一五ヶ所(二一%)、小値賀町管内五一ヶ所(七一%)、両方合わせると実に九二%もの遺跡が宇久・小値賀両町管内に集中し、極端な偏在性を示している。こうした遺跡分布状況は、松浦氏と宇久氏の勢力動向を表している。

◎遺跡紹介

○神ノ崎遺跡(県指定史跡)弥生時代から古墳時代にかけて築造された約三〇基の墳墓が群集しており、特に古墳時代の墳墓群としては五島列島唯一最大の遺跡である。板状鉄斧を出土した二〇号石棺は通常の石棺より約二倍の規模で、しかも棺材には、小値賀に産出しない砂岩を板状に切り出したものを使用している。

○シャラジ中世墳墓群(他省略)     (文責 新木涵人)