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瀬戸音信

                                        日ノ島神社勧請事情
                                    人・物・情報の交差する島々の物語
                                        上五島の歴史と文化・風土
                   〔原典:上五島歴史と文化の会発行『五島・若松瀬戸物語』〕
                   (オンブック発行『甦れ!僻島の事跡と風景』に改訂版掲載)
                     http://www.onbook.jp/bookd.html?bid=0131





図1日ノ島高松宮



図2高松神社



図3小笠神社



図4三熊野神社


     「日ノ島神社」勧請事情考

 「日ノ島」には、大宝元年(七〇一)に勧請されたという神社があり、高松宮(図1)あるいは横須賀熊野神社と呼ばれていた。今は「日ノ島神社」と改称さている。

 1.伝承

 言い伝えによると、当時の遠江国周智郡横須賀村(現、静岡県小笠郡大須賀町横須賀郷)地方から、高松(現、高松神社、主祭神―熊野結大神=イザナミ尊)(図2)・小笠(現、小笠神社、主祭神―熊野夫須美大神=イザナギ尊)(図3)・横須賀(現、三熊野神社、主祭神―家津美御子神=スサノオ尊)(図4)の三座を勧請したという。勧請元の「三熊野神社」などは、文武天皇の勅命によって、七〇一年に「紀州熊野三座」を勧請したとされている。このことから、紀伊熊野の海上勢力が、この「日ノ島」にまで及んでいたものと考えられる。

 2.住民出自

 大宝元年に施行された大宝律令の令義解(りょうのぎげ)には烽火(とぶひ)の規定があり、この規定にしたがって遠江国周智郡横須賀村から派遣された人達(防人等)が住み着き、また、大宝二年(七〇二)に遣唐使が五島列島から直接東シナ海を横断して中国に渡っており、その遣唐使を支援した人たちが派遣され居住していたと考えられ、それらの人達が彼等の氏神(熊野本宮の主祭神―家津美御子神は、造船術を伝えた神として「船玉大明神」とも呼ばれ、船頭や水主の崇敬篤い神とされている)を郷里から勧請して祀ったものと思われる。

 ここ「日島」は、奈良時代から近世にかけて「光通信」と「海外渡航」の最先端基地だった。

 3.烽火の規定

 『令義解』巻五の軍防令の中に十一カ条にわたって規定されている。主な条を挙げると次の通り。

(一)置烽条。凡そ烽を置くには、皆相去ること四〇里とする。若し山や岡が隔絶して便宜に安置できない時は、相互に照応できるようにせよ。必ずしも四〇里と限る要はない。

(二)烽昼夜条。凡そ烽は、昼夜時を分けて候(うかが)い望ましめ、若し烽を放つべき時は、昼は烟(エン=けむり)を放ち、夜は火を放て。其の烟は一刻に尽くし、火も一炬(きょ)に尽くせ。前烽が応えない時は、即ち脚力を差(つか)わして、往(や)りて前烽に告げよ。なお候を見失った理由を問い、速やかに所在の官司(所管の国司)に申せ。

(三)有賊入境条。凡そ賊有りて、境を侵入する時放つ烽は、其の賊衆の多少により烽の数を決めるが、それは別式の規定(延喜式)に拠れ。(注―外国使船・一炬、賊船・両炬、二百艘以上の賊・三炬と規定)

(四)烽長条。凡そ烽には、烽長二人を置き、三烽以下を撿挍(ケンコウ=取り調べる)せよ。ただし国境を越えることを得ず。国司は所管内より撿挍に堪える者を選んで烽長に宛てよ。分番して交代で上下させ、三年で一度替えよ。交替の日に、新人によく教え、よく解からせてから相代わらせよ。烽の修理には烽子を使役し、烽事以外の用でたやすく守を離れることを得ざれ。

(五)配烽子条。凡そ烽には、各烽子四人を配(あ)てよ。若し正丁がいなければ次丁を取れ。近くより取って遠くに及ぼせ。均分して番に配てよ。(二人を以て一番となし分けて上下させよ)。

これらのほかに、(六)置烽処条(烽台相互の距離)、(七)火炬条(材料と作り方)、(八)放烟貯備条(貯蔵上の注意事項)、(九)応火筒条(操作要領)、(十)白日烽烟条(霧発生時などの対処法)、(十一)放烽条(誤報対処法)、などが規定されていた。(出典=永留久恵著「烽燧」『対馬風土記』第十九号所収)。

 4.「三熊野神社」の由来

 通称、総社および三社様(所在―静岡県小笠郡大須賀町西大渕五六三一・一)。

 御祭神―家津美御子神(ケツミミコノカミ=スサノオの別名)、伊邪那美神、事解男神(コトサカオノカミ=一言主神)。

 この神社は、大宝元年(七〇一)九月九日、第四十二代文武天皇の御勅願により、紀州熊野三社を勧請した。

 文武天皇の后宮子(藤原不比等の娘)は、御懐妊を願って「安産で皇子が誕生したら、東に三つの社を建て、勧請して日夜敬い申上げますと、幼時より深く信仰している熊野神社に祈願した。真心込めた願いはやがて天に通じ、無事に皇子が誕生(後の聖武天皇)、天皇も后も大変感激なされ、お願いが成就したからにはと、急いで東の国に社を建てる事にした。幸いな事には、東に貢物を納入してくる鎮国の遠江国があるので勅命で司官奥野左衛門是吉を派遣し、場所を探させた。是吉が当地に来て見ると、南は大海原で渚も清く、北は山また山の続く地形なので「本宮の境内に異ならず」と、当所に本宮、三里(十二キロ)東の高松に新宮、北の小笠山に那智と三社の宮地を決め、萱を刈り、玉串を立てて帰洛した。天皇は是吉を熊野へ遣わし、勅弊を捧げて祈り梛木(なぎ)の木でみくらを調べ、御正体補佐五伴の神をまつり、八重の注連縄、榊で飾った船に神輿を移し、牟呂の津より大海原をお渡りになって、大宝元年八月四日の夕、当町雨垂の浜に御着岸、翌五日に仮殿にお移し申した。この時里人は初作りの粟飯を神前にお供えした。

 新築なった御正殿に鎮座されたのは、九月九日である。以来今日に至るまで、神徳霊験あらたかな三社大明神と崇められている。

 当神社は、災難除、子授け、安産縁結びの守神として信仰が厚い。