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瀬戸音信

                                           玄加玄徳碑
                                    人・物・情報の交差する島々の物語
                                        上五島の歴史と文化・風土
                                      〔原典:上五島歴史と文化の会発行『五島・若松瀬戸物語』〕
                   (オンブック発行『甦れ!僻島の事跡と風景』に改訂版掲載)
                      http://www.onbook.jp/bookd.html?bid=0131







玄加玄徳碑




入江過去帳




松園系図




 

        玄加・玄徳碑

はじめに

1.謎の「念仏碑」

「日ノ島」の昔の船着き場、今は突堤の根元の崖下に、約二メートルを越える石碑が二基建っている(図1。向かって左側の石碑は、「松園八郎五郎之墓」という文字がくっきりと刻まれ、はっきりと読み取ることができる。一方、右側の石碑は風化が激しくて、刻まれた文字が何だかよく判らないという状態。

しかしながら、この右側の石碑を、光の陰影に注意しながら角度を色々かえて眺めていると、真ん中に「南無阿弥陀佛」と彫られた「念仏名号」が次第に浮かび上がってきて読めるようになる。また、「松園」「正保四」「八月彼岸」「入江」「同七太夫」という文字が彫られていることもかろうじて判読できるようになる。さらに、この石碑の表の左右部分に何か文字が刻まれていたような痕跡も認められる。この部分には、おそらく建立趣旨などが「碑文」として刻印されていたと思われるが、残念なことにこれは判読不能な状態。今はとりあえず、この右側の石碑を「念仏碑」と呼ぶことにする。

この「念仏碑」が古い時代の物であることは、見たとおりの風化の度合から判るが、誰が奉(まつ)られているのか、誰が何の目的で建てたものか、左側の石碑とどのような関係があるのかなどの事跡については、謎に包まれ今まで殆ど判っていなかった。ところが、ある事がきっかけとなって、旧若松町教育委員会事務局ならびに文化財保護審議会委員の皆さんと、この「念仏碑」の調査を色々と行ったところ、それら事跡の解読に成功し、さらに、そこに秘められた意外な事実を掘り起こすことができた。

2.「松園八郎五郎之墓」と建立経緯

「念仏碑」の謎解きが、どのようにしてなされ、どんな秘められた意外な事実が掘り起こされたか、その経緯(いきさつ)を述べる前に、「松園八郎五郎之墓」の石碑に刻まれている「墓碑銘」をまず見てみることにしよう。列挙すると次のとおり。

右側面の墓碑銘 「慶長五年寅十二月三日没」(注 慶長五年:一六〇〇年)

左側面の墓碑銘 「明治参拾四年八月再建 嫡孫二十一代 松園忠誠書」

「天草石工船場丈吉刻」(注 明治三十四年:一九〇一年)

この碑が、明治参拾四年八月に再建されたことにちなんで、以下では、「再建碑」と呼ぶことにする。

平成十一年(一九九九)十一月、旧若松町教育委員会・教育長からの問い合わせに応じて、松園清兵衛氏は、この「再建碑」が建立されるまでの経緯を語ってくれた。教育長が聴取した話は、おおよそ次のようである。

●「再建碑」の建立発起人は、当時、五島一円を移動しながら漁業経営に当っていた氏の祖父に当る「松園文作」という人であり、この人が石碑建立を発注したこと。

●発注時点では、「松園文作」氏の経営状態はよかったもののやがて経営が思わしくなくなり、一族の「松園忠誠」氏に資金の借入を申し入れたこと。

●「松園忠誠」氏は、自分に碑文書きの揮毫をさせることを条件に、資金を貸し出すことを了承し、「松園文作」氏もこのことを承諾して、完成に至ったこと。

なお、建立の目的については、この時点で確証は得られていないが、教育長ならびに文化財保護審議会の各委員(近藤章・藤原栄之助・下窄忠・梶山正・山路敏男・石司鴻稀・新木涵人の各氏)は、右側の「念仏碑」が風化し解読が困難となってきたので、「松園八郎五郎」の没年を刻印し、再建したものであろう、と推定した。

この「再建碑」は、その墓碑銘からみて、「松園八郎五郎」が没して凡そ三百年後に建立されたものである。後述する「念仏碑」発見と「没後二百年祭」の事跡、四百年後の調査・解読の実施などを併せ考えると、互いに何か深い因縁で結びつけられているように感じられてならない。

3.調査のきっかけと結果

平成十一年(一九九九)九月二十一日付で、千葉県市川市在住の益田隆盛という人から旧若松町教育委員会事務局宛に書状が届いた。それは「志佐純勝」(しさすみかつ)の事跡に関する資料の有無の確認と、もしあればそれらの資料を送って欲しい、ということなどを問い合わせてきたものであった。

「志佐純勝」は、「御厨直」(みくりやただす)に繋(つな)がる「松浦党」の有力豪族・志佐氏の当主。「志佐純勝」は、松浦市志佐町陣之内城を本拠とし、北松浦郡吉井町直谷地域の「直谷城」を脇城として勢力を伸ばしていたが、明応四年(一四九五)、大村・龍造寺連合軍によって攻められて城を追い落され、五島に逃れてきた人物。

「志佐系図」には、「純勝、大村・龍造寺連合軍に攻略され、五島に走る、宰臣の叛に遭い自殺、その子、松房・徳房有馬に逃げ、有馬仙巌(貴純)に頼る。子孫不祥」と記されているという(『松浦市史』三三六頁参照)

益田氏の問い合わせ書状には、この「志佐純勝」に関連していくつかの確認事項が列記されており、その中に、次のような趣旨の記載があった。

それは、「日ノ島の海辺の波打ち際に『玄加・玄徳』という石碑が建立さている、ということを幼少の頃から聞かされていたが、今でもその石碑はあるのか、現在どうなっているのか、わかったらご教示下さい」、というもの。

益田氏の両親は、乳酸菌飲料「ヤクルト」の全国的販売制度創始者として知られている三井楽町の松園家に繋がる系統の出身で、「玄加・玄徳という石碑」は「志佐純勝」の子孫が「日ノ島」に上陸した時の記念碑である、ということを益田氏たちに語っておられたという。

この問い合わせがそもそものきっかけとなって、一九九九年(平成十一)十一月二十六日、同年十二月九日、旧若松町文化財保護審議会委員活動の一環として、委員の皆さんと調査を実施した。その結果、「念仏碑」について、様々なことが判明した。

要点をまとめて示すと、次の三点になる。

まず第一点は、正保四年(一六四七)に、この石碑が建てられたということ。

第二点は、五島藩の日ノ島初代代官となった入江次右衛門(法名―玄加)とその一族、すなわち、入江源之丞(玄加の嫡男)、同弥三右衛門(玄加の次男)、同三右衛門(玄加の三男)、同七太夫(玄加の四男)、同千代介(玄加の五男?)達が建立したものであり、入江次右衛門の生母・マスは、玄徳の娘であるということ。

第三点は、これが、最初に建てられた「玄徳・松園八郎五郎」ゆかりの供養碑か顕彰碑ではないかと推定されること。

そして、さらに、左側の石碑は、これを後世に残そうとして、松園家の子孫が明治時代に再建したものであるということも分かった。なぜならば、前述したように、左側の石碑の右側面には、「慶長五年十二月三日没」、左側面には、「明治三十四年八月再建・嫡孫二十一代松園忠誠書」ということが、はっきりと彫られていたからである。これらのことから右側の石碑と密接な関係があるということがわかった。

「念仏碑」の建立目的は、松園清兵衛氏や益田隆盛氏より聴取した伝承などを総合して推定すると、真偽については疑問があり、さらに調査する必要があるが、「玄徳」が、文禄・慶長の役で小西行長軍に属して勲功を挙げ、日ノ島定住を許されたというその遺徳を顕彰するために子孫が建立した、というものである。

しかしながら、上述した第一点と第二点、すなわち、「いつ」「だれが」ということについては、全く解らなかった、というのがこれまでの情況であった。

それがなぜ解ったかというと、右側の「念仏碑」には、先に見たとおり「松園」「正保四」「八月彼岸」「入江」「七太夫」という文字が彫られていることが分かり、判読できた。そこで、これらを手掛かりにして、さらに調査を進めたところ、解読に成功したというわけである。決め手になったのは、先に述べた益田隆盛氏の「玄加・玄徳碑」についての情報や「日之島代官入江家過去帳」と「松園系図」という古文書。これらは、参考のため末尾に付録として掲載してある。

一.「玄加・玄徳」とは

さて、「念仏碑」の謎解きの経緯(いきさつ)について述べよう。

まず問題となったのは、「玄加」「玄徳」ということ。さきに「松園」「入江」「七太夫」という文字が判読できたと述べたが、公民館講座「歴史教室」では過去に「付録一」に抜粋した「日之島代官入江家過去帳」(図2(以下、過去帳という)を研究していたので、これを調べてみた。するとどうだろう、「過去帳」を参照して判るように、そこには「玄加」「玄徳」や「七太夫」のことが書いてあったのである。

「付録一A」の関連個所を抜粋すると次のようになる。

・慈心院 祐譽玄加居士 俗名 入江次右衛門

明暦三酉二月二十五日 七十八歳 日之嶋ニテ死ス

・妙金信女 俗名 マス

八月十二日 五嶋日之嶋ニテ死ス 玄加五嶋の母也

日之嶋住人玄徳ノ娘 玄加ヲ生

・正安信士 俗名 入江七太夫

正保四亥九月十四日 二十五歳 日之島ニテ死ス 玄加ノ四男 日向内記様江奉公ス

これら抜粋個所の傍線を付けたところから明らかなように、「玄加」というのは、日ノ島初代代官・入江次右衛門の法名の一部であること、また、「玄徳」も法名の一部で、この人は、入江次右衛門の母方の祖父にあたること、さらに、「七太夫」も入江次右衛門の四男ということが分かる。

さらに、右側の「念仏碑」の下の方には、右から入江・・・、同・・・と六列列記してあることも認められ、これらは、「過去帳」によって、次右衛門と五人の息子達、すなわち、源之烝・弥三右衛門・三右衛門・七太夫・千代介である、ということを確認することができた。ただ「千代介」については、その具体名の記載がないので、「過去帳」に「與之」とある人物が該当すると推定した。

以上の分析から、「念仏碑」は、益田氏のもたらした情報通り「玄加・玄徳碑」そのものであるということを確認することができた。

二.「玄徳」は「松園八郎五郎」その人か

ところで、もう一つ問題があった。それは、「過去帳」に「松園八郎五郎」について具体的な記載が無く、従って、「玄徳」が果たして「松園八郎五郎」その人であるかどうかという問題である。この問題については、更に驚くべき発見があり、それに基づいて解決することが出来た。

その発見とは、松園清兵衛氏宅から「松園系図」と書かれた古文書(図3が出てきたことである。

それによると、「付録二」に示してあるように、今から約二百年余り前、寛政十一年(一七九九)に、当時の日ノ島代官であった「入江儀左衛門義信」が、「松園八郎五郎」の「没後二百年祭」を催し、それを記念して書いたものである、ということが分かった。

関連個所を引用すると次のとおり。

舊系肥州松浦郡平戸縣志佐領主之総轄 有故謫五嶌之内日嶋 両三年于此

松園八郎五郎 命孫為松園元祖

法名

用嶽玄徳居士 慶長五年寅ノ十二月三日死今至 寛政十一年未年二百年

この抜粋個所の傍線部分から、「松園八郎五郎」は、法名が「玄徳」であるということ、慶長三年(一五九八)頃、松浦の志佐方面から「日ノ島」に来たこと、慶長五年(一六〇〇)十二月三日に亡くなったこと、などを確認することができた。

そのほか、この古文書には、色々と興味深い事跡が記録されている。例えば、「旧系肥州松浦郡平戸縣志佐領主総轄」ということ、「故あって系図が入江家に残されていた」ということ、「玄徳の念仏壱頭を引当てた」ということなどである。そして、これらの記録から、例えば、「玄加が玄徳の石碑を建てたのは何故か」ということ、また、「二百年祭が何故行われたか」ということなど、そこに秘められた謎が浮かび上がってきた。

三.「念仏碑」発見と「没後二百年祭」

「松園系図」の「追加」部分の後段に、次のような記載がある。

日之嶋間伏七月祭礼念佛者 此玄徳再興宛致候由傳承候 依之念佛之祖人ト崇至テ 今両村

念佛共ニ 釜崎ニ而 玄徳之念佛壹頭宛引申候事

これを意訳して読み下すと、次のようになる。

「一 日ノ島と間伏の七月祭礼の念仏は、この玄徳が再興を期待して行っていたとの伝承があり、これにより(玄徳を)念仏を祖(はじめ)た人と崇(あが)め至(いた)って、今、両村の念仏(の伝承)と共に、釜崎にて、玄徳の念佛(碑)壹頭(一基)を引き宛(あ)てた、ということ。」(カッコ内は筆者の補足注釈)

ここの段落で「入江儀左衛門義信」が何を言わんとして書き残しているのか、当時の状況を想起しながら、解釈を加えてみる。

当時、七月に「日ノ島」と「間伏」で祭礼が行われていたものと思われる。その時、「南無阿弥陀仏」という「念仏」を唱える習わしがあった。

ことの興(おこ)りは、この玄徳という人が「再興」を祈願して「念仏」を唱えたという言い伝えによっているという。「日ノ島」にあった「円通寺」や「間伏」の「神護寺」の宗派は、「釈迦牟尼仏」を本尊とする「禅宗」であるから、それまでは、「南無阿弥陀仏」とは唱えなかったとおもわれる。それはともかく、祭礼で「南無阿弥陀仏」の「念仏」を唱え始めた人が玄徳で、そのためにこの玄徳を崇め奉ってきているというのである。

「入江儀左衛門義信」は、このような事柄をどのようにして知ったのだろうか。そこには何か、「日ノ島」と「間伏」で、祭礼の際「南無阿弥陀仏」と唱えるようになったことに関する「伝承」を再確認するような出来事があったのではないか、と考えられる。

その出来事とは、一体何だったか。この問題を解く鍵は、「松園系図」の「追加」部分後段の「釜崎ニ而 玄徳之念佛壹頭宛引申候事」という条(くだり)に隠されている。つまり、「釜崎」で、「玄徳」の「念仏(碑)」壹頭(一基)を引き宛てる(発見する)というような出来事があり、そのお蔭で、そこに刻まれている「碑文」を読むことができたからではないか、ということである。なお、「頭」を「基」と大きな「塔」などを数える語に読み替えることについては、教育委員会事務局の荒木貞美氏の示唆に基づいており、この点に関して、旧若松町文化財保護審議会の各委員も異論がない。

この「念仏碑」は、二百年の歳月を経て寛政十一年(一七九九)に発見されるまで、釜崎の崖下の渚に倒れ落ちて埋もれ、岸に寄せる波に洗われるままになっていたのではないか、と思われる。倒れ落ちた原因は、ある時、強い風雨にさらされて崖が崩れ、それらの土石と一緒に押し倒されて渚に埋もれたもの、と考えられる。

「念仏碑」の発見は、恐らく偶然の出来事だったが、「入江儀左衛門義信」は、これを建て直し、これを記念して「極楽寺」と「神護寺」の僧侶を迎えて「没後二百年祭」の法要を催したもの、と推察される。

なお、当時、「日ノ島」に「円通寺」があったことは、「過去帳」の記載から明らかだが(付録一C参照)、「極楽寺」と「神護寺」から僧侶を迎えたということは、当時、おそらく「日ノ島」の「円通寺」に住職がいなかったからなのだろう。

四. 秘められた意外な事実

「入江儀左衛門義信」の書き残した「松園系図」によれば、「玄徳」の本家(長男)は福江に行き、「日ノ島」の松園家を次男が相続している。ところが、「玄徳」の年忌(年号月日)などは、「松園家」ではなく、先祖代々由縁(ゆかり)ある「入江家」に伝え継がれてきた、と書かれている。

その「由縁」というのは、「玄加・入江次右衛門」一族による「玄徳」の石碑の建立ではないかと考えられるが、なぜ「松園家」一族ではなく「入江次右衛門」一族が石碑を建立したのか、その理由についての記載はなく、大きな謎の一つである。

そもそも、なぜ、「松園八郎五郎」が「日ノ島」にきたのかが、謎に包まれている。「松園系図」には、「舊系肥州松浦郡平戸縣 志佐領主之総轄 有故謫五嶌之内日嶋」(旧系肥州松浦郡平戸県志佐領、領主の総轄、故ありて五島の内日ノ島に謫(たく・配流の意味)す)とあるだけで、その理由は具体的に記載されていない。おそらく「碑文」にその経緯が刻まれていたので、それで具体的な記載を省略した、と考えられる。

いずれにしても、「日ノ島に配流」ということは穏やかではない。弱肉強食の時代、「旧系肥州松浦郡平戸県志佐領」で争いがあって敗れ、勝者から「遠島」の措置を受けたからなのだろうか。「玄徳」が再興を祈願して「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えたというのも、何かこのような出来事があったからだとすれば、理解することができる。

「入江次右衛門」は、「過去帳」によると、明暦三酉年(一六五七)二月二十五日に七十八歳で亡くなっているので、「玄徳」が「日ノ島」に来たと推定される慶長三年(一五九八)の時点では、数え年で弱冠十九歳の若武者であった。従って、祖父「玄徳」が争いに巻き込まれた時、大いに祖父を助け活躍した、と考えられる。

一方、「玄徳」の長男は「福江ニ宛所(あてどころ・目標の意)出」との記載から五島藩預かりということで、一種の人質的な待遇を受けたのではないか。そのために、次男が「日ノ島」に残り「松園家」を相続することになった、ということになる。

ところで、「入江次右衛門」が、五島藩から「日ノ島初代代官」として取り立てられたのは何故だろうか。これも大きな謎の一つである。そこで、ありったけの想像力を働かせてその謎解きをして見る。その筋書きは、おおよそ次のようなものである。

「玄徳」の長男を五島藩の家臣として差し出す代わりに、将来「日ノ島」が五島藩の領有地となった場合は、「入江次右衛門」に任せる、というような取引がなされ、このような「玄徳」の配慮によって、「入江次右衛門」が、五島藩の「日ノ島初代代官」になることができた。そこで、「入江次右衛門」一族が、「玄徳」の五〇年忌に際し、その遺徳を顕彰して石碑を建立した、という筋書きである。

このような筋書きを想定するに当っては、次のような前提を置く必要がある。

●西暦一六〇〇年以前は、「日ノ島」はより上級の権力が直轄した地域だった。

●従って、それまでは、「日ノ島」は、五島藩の支配する地域ではなかった。

●玄徳が、「日ノ島」に定住を許されて始めて五島藩の領有が現実のものとなった。

●五島藩の直属の家臣が代官になっていない。

●それは、玄徳との間に上述したような盟約があったからである、など。

五.五島藩との不思議な関係

入江家と五島藩の間には不思議な関係がある。

「過去帳」(付録一B参照)によると、五島藩二十六代当主・盛佳(もりよし)の末子・喜丸が、生れてから九歳になるまでの間、入江家の養子となっていた事実がある。これは、入江家が特別な処遇を約束された家系であったことを意味すると見ることができる。

この「喜丸」は、後に「松尾七郎左衛門」の養子となり「松尾頼母秀利」と名乗るが、父「盛佳」(法名―覺岸院殿)が四十二歳の厄年に生れた子供であったために、入江家に養子として預けられ、童名を「入江紋次郎」と称して成長する。ある時、京都の門跡へ入門する手筈になって「喜丸」と改名するが、あまり喜ばず物入りでもあったので病身という理由をつけて「京都門跡」入りは取りやめとなる。

宝暦四年(一七五四)、五島藩二十七代当主盛道(もりみち)は、先祖の墓参りなどを兼ねて、宇久島など領内を巡視して回り、「日ノ島」にも寄泊した。日ノ島・金堂崎の元代官屋敷の跡地前に浜があり、今は埋め立てられて、広場には集会所などが建ち、岸壁は船着場になっているが、そこは「御成波戸」と呼ばれていた。「盛道」が寄泊したとき、ここから上陸したのでそのように呼ばれるようになったという。

「盛道」は、このとき、高松宮(現在の日ノ島神社)に米四斗五升、境内の弁財天に米一斗を寄進し、翌宝暦五年(一七五五)、当時の高松宮・弁財天・常楽寺・円通寺などを五島藩の寺社領とする。

先に述べたように、「日ノ島」には、享保十年(一七二五)から享保二十年(一七三五)の間、「喜丸」という「盛道」の弟が、入江家の養子となって住んでいたが、「盛道」は、父・盛佳の死後、この弟を福江に召し帰している。

宝暦四年、「盛道」が「日ノ島」に寄泊したのは弟の養子先であった入江家への挨拶とも考えられるが、それはそれとして、この年の領内巡行の目的は、何であったか。当時、五島藩は、長年続いた飢饉対策に追われていたこと、幕府から異国船御番役を負わされていたこと、参勤交代に多大な費用が必要であったことなどを考え合わせると、恐らく藩の勢力拡大と藩の財政建て直しが主な目的ではなかったか、と思われる。

いずれにしても、「日ノ島初代代官・入江次右衛門」一族が建立した「念仏碑」すなわち「玄加・玄徳碑」は、「日ノ島」の近世史を物語る貴重な史跡であり、「日ノ島」の近世は、「松園八郎五郎」の来島によって始まった、といっても過言ではない。

「玄加・玄徳碑」は、そういう意味でその証(あかし)を今に伝えてくれる正に象徴的記念碑ということができる。そして、そこに秘められた事跡の解明が、とりもなおさず、若松瀬戸浦地域ひいては五島藩近世史の理解を深めることにつながり、今後の郷土史研究に大いに役立つものと考えている。

【付録一】 日之島代官入江家過去帳(抜粋)

  A

・宗間信士 俗名 入江助左衛門

八月十二日 筑前唐泊ニテ死ス 玄加之父也 生国シワク

・妙金信女 俗名 マス

八月十二日 五嶋日之嶋ニテ死ス 玄加五嶋の母也

日之嶋住人玄徳ノ娘 玄加ヲ生

・妙圓信女 俗名 アカ

六月十二日 筑前ニテ没ス 玄加筑前之継母

・慈心院 祐譽玄加居士 俗名 入江次右衛門

明暦三酉二月二十五日 七十八歳 日之嶋ニテ死ス

・妙清信女(廣弘院濟譽妙清大姉) 俗名 コメ

六月十二日 日ノ島デ歿ス 玄加ノ先妻

男子 宗意 宗伯 須覚 正安 女子 猟尽梁瀬新左衛門母 總テ五人生

コノ コメ 平戸領青木竈司娘

・妙尊信女(大寳院隣譽妙尊大姉) 俗名 ヲワゴ

明暦二閏四月二十五日 玄加遠嶌ノ時 玉之浦ニテ歿ス墓彼地ニ在

此腹ニ子與之

・宗意信士 俗名 入江源之烝

正保四・六月九日 四十二歳ニテ宿之浦ニテ歿ス 廟所若松ニ移ス

玄加の嫡子也

・深楽院 寂譽宗伯居士 俗名 入江弥三右衛門

万治元戊戌四月十日 四十九歳 日之島ニテ死ス 玄加ノ二男也

・須覺信士 俗名 入江三右衛門

寛文三卯五月七日 四十七歳 日之島ニテ歿ス 玄加ノ三男

此子ニ俗名佐左衛門ト云男子有 富江領奉公於江戸死ス

・正安信士 俗名 入江七太夫

正保四亥九月十四日 二十五歳 日之島ニテ死ス 玄加ノ四男

日向内記様江奉公ス

・誠心院 安譽玄至居士 俗名 入江弥三右衛門重明

寛保四・延享元甲子四月十二日 七十一歳ニテ死ス 後ノ入江儀左衛門父也

享保十二未 前太守大和守様御末子様入江弥三右衛門重明ニ御預ケ被遊 九ケ年奉育
同二十乙卯之春福江ニ御歸座 今之松尾頼母也

・圓融堂頓覺秀利居士 俗名 松尾頼母秀利

寛政八丙辰年八月六日 七拾歳ニテ死ス 覺岸院殿之御末子

但前太守大和守様御法名覺岸院殿御四十弐御厄之御子故先ノ入江弥三右衛門重明法名誠心院江御預ケ被遊候ニ付御誕生数日前ヨリ福江マデ出下相詰居候テ御生被遊十七日目ニ御門ニテ奉預リ御連登リ於当家ニ奉育則御童名入江紋次郎様奉称候然所京都御門跡様江被為入候筈ニテ喜丸様ト御名改被遊候然共京都江為入候義不懽御物入ニ付京都表ニ御病身之御申立ニテ相溜御九歳之時御帰座被遊其後松尾七郎左衛門殿御養子ニ被為成彼家御相続御隠居被成当辰ノ八月六日朝七十歳ニテ御死去被遊候事

右之通太守様御子様我々式家柄尚当島端抔江被為入候儀者前代未聞之稀成事ニテ当家之面目不遇之誠ニ覚岸院殿御厚恩之難有事無限猶亦当所之義名也末々迄モ覚岸院殿之御厚恩并秀利居士御年回等忘失仕間敷事

 C

・徳相院 恵山妙智大姉 俗名 力子

寛政六甲寅年(西暦一七九四)六月廿日 三十貮歳ニテ於日之島死ス

入江儀左衛門義信ノ嫡女 墓所同所圓通寺ノ後ニ有リ 宇久島來光坊之妻

此腹ニ男子一人女子貮人有リ

尤禅宗東光寺旦那ナリ 産後ニテ死ス

【付録二】 松園系図

松園系図

松園清兵衛

舊系肥州松浦郡平戸縣志佐領主之総轄 有故謫五嶌之内日嶋 歴両三年于此 号松園八郎五郎 命孫為松園元祖

法名

用嶽玄徳居士 慶長五年寅ノ十二月三日死今至 寛政十一年未年二百年

追加

玄徳居士之娘法名妙金信女ハ入江家之元祖玄加居士之母也 仍テ玄徳者玄加タメニハ母方之祖父ニテ御座候

玄徳之本家者松園安左エ門殿ト申仁之代々 福江ニ宛所出今之松園廉極殿家ニテ候日之嶋之家者次男相続致 今之四郎兵衛家ニテ御坐候 然共年久敷事故 玄徳年回等相知不申所 今之入江儀左エ門義信元祖由縁有之ニ付儀左エ門方江年号月日相知居候故當未年弐百年忌ニ相當候ニ付 則四郎兵衛家ニテ十二月二日ヨリ三日マテ 極楽寺爰主神護寺覿牛僧相拓法祭 執行相仕迎候

右法祭相儲候後 皆々打寄精進上ケ吸物盞ニテ大キニ賑合申候 四郎兵衛儀 今日巫ニ 清兵衛東名改仕候

日之嶋間伏七月祭礼念佛者 此玄徳再興宛致候由傳承候 依之念佛之祖人ト崇至テ 今両村念佛共ニ 釜崎ニ而 玄徳之念佛壹頭宛引申候事

右者子孫之面々末々迄茂無懈怠年回之法祭等執行可仕者也

四郎兵衛事 松園清兵衛

寛政十一年十二月三日

右之通リ末々為見合記置者也
            入江儀左衛門義信(花押)



 関連事跡 【祇園宮】

「日ノ島」の釜崎(かまんさき)というところに、八坂神社、別名「祇園宮」と呼ばれている古い神社がある(図4。祭神は海を治める神、素盞鳴尊(すさのおのみこと)

社殿は、祇園山の麓(ふもと)の谷あいに、海に向かってなだらかに開けた段丘の一段と高い奥まったところに建っている。辺りに民家はなく森閑(しんかん)として人影は見えない。この社殿を海から望むと、祇園山を背にして日ノ島湾を見下ろし、漁をする人達を見守っているようにみえる。

石垣で囲まれた社殿敷地の中央部分の階段を降りたすぐ下に、石造の鳥居がある(図5。この鳥居の社殿に向かって右のたて柱には「寛政十二庚申年十一月吉祥日」、左のたて柱には「奉寄進施主入江儀左衛門義信」と銘が刻まれている。そして、鳥居の正面には、「祇園宮」と彫られた額束(がくづか―鳥居上部の横二本、島木と貫の中央部に垂直に懸けられた額)が掲げられている。寛政十二年(一八〇〇)、今から約二〇〇年前に建てられたものだが、崩れ落ちることもなく毅然(きぜん)として立っている。寄進主はこの地方を治めていた五島藩の日ノ島代官。「海士(あま)祈願 幸多かれと 神まつり」と領民の海上安全と豊漁を祈願して奉納したのだろう。

ここ祇園宮では、昔から旧暦六月十五日が縁日で、「祇園祭」と呼ばれる祭礼が催されていた。この祭礼では、必ず余興として芝居を興行(こうぎょう)する習わしがあり、一度でも怠ると神霊(しんれい)の怒りに触れ祟(たた)りがあると信じられており、昭和三十年(一九五五)代まで続いていた。この縁日には、五島の各地から船で見物客が詰め掛け、大いに賑わったという。

「日ノ島」ではめずらしく、ここには「祇園浜」と呼ばれる渚(なぎさ)がある(図6。大昔、祇園山の一角が風雨によって崩れ、谷を埋めて浜を形成したのだろう。この渚では、不思議な音を聞くことができる。波打ち際で砂礫(されき)が波に洗われているが、波が退いて寄せかえす時に小石が波に踊らされ、それらが互いにぶつかり合って石音を発(た)てる。ザザーという波音に混じってカラカラカラと鳴る。「打ち返す 波に石音 響きけり」という風情(ふぜい)である。この波と響き合う石音は、あたかも「祇園祭」の賑(にぎ)わいを今に語り伝えているように聞こえる。「打つ波や ざわめき語る 祇園浜」といった感慨(かんがい)がわいてくる