HP PF 参照 記事

瀬戸音信

                                          遣明船寄泊
                                    人・物・情報の交差する島々の物語
                                        上五島の歴史と文化・風土
                                     〔原典:上五島歴史と文化の会発行『五島・若松瀬戸物語』〕
                   (オンブック発行『甦れ!僻島の事跡と風景』に改訂版掲載)
                      http://www.onbook.jp/bookd.html?bid=0131





入明往路(点線)
4/19
奈留出航
4/21
白鷺飛来
4/22
燕飛来
4/23
雀・青鷺飛来
4/24
烏賊殻など浮遊
4/29
水深63
5/1
島嶼列観望
5/2
大瞿山島付

帰朝路(実線)
6/20
烏沙門出帆
6/25
千鳥飛来
6/26
日島停泊
6/28
日島奈摩


図3 入明往返経路




図4 十一面観音





図5 源壽院観音御開







       遣明船寄泊―策彦周良入明記より


あらまし

 五島・日ノ島に遣明船が寄泊。使節船が東シナ海を航行した時の実態・往反(おうへん)経路を使節僧・策彦周良の日記(策彦入明記)によって追体験。貿易収支、乗組員数や水夫の出身地、船の構造のほか、最近の十一面観音菩薩ご開帳のことなどを紹介する。


一.船による海外渡航

 「陸の道」の果て、それは「海上の道」の始まりである。

 飛行機がなかった時代、海外渡航の唯一の手段は「船」であった。

第二次世界大戦後に「憧れのハワイ航路」という歌が流行した。その歌詞に「別れテープを笑顔で切れば、望み果てないはるかな潮路」という一節がある。この時代、飛行機はあったが、まだ、海外へ行くには、この歌詞のように潮路が主であった。

 わずか五〇年余りの時の流れの間に、世の中は大きく変わった。ジエット機が、世界中の空を飛び回り、さらに、スペースシャトル「コロンビア」が地球上の宇宙空間を巡って、土井さんが宇宙遊泳を行い、また、「国際宇宙ステーション」の組み立て作業で若田光一さんが活躍するような時代となった。

 これは驚くべき出来事だが、人間が「船」を発明し、これを利用して広大な海を渡り知らない国へ航行可能になったときも、その時代の人々は、今、私達が経験しているのと同じ様な驚きを覚えたに違いない。未知の世界への好奇心や冒険心は今も昔も変らず、多くの人の心をとらえて止むことがない。私達の祖先は何時どこからやって来たのだろうか。色々と論議されているが、北方から、また、南方から舟でやって来たといわれている。それ以来、つい最近まで、異国へ行き交うための唯一の交通手段は「船」だった。これを巧みに操り、海を我が物として活躍する海洋国家「日本」が生れた。


二.使節船往反

【南路】

 奈良時代から平安時代にかけて、多くの人達が「遣唐使」として優れた先進文物・制度を求め、怒濤逆巻く東シナ海を中国の唐に向けて命懸けで船を操り渡って行った。

 八世紀には、五島を経由し東シナ海を直接横断して唐に渡るいわゆる「南路」が開発され、九世紀初頭、空海や最澄らもこの航路を利用して渡唐している。

 青方(五島列島中通島の中の地名)の「相河」、今里(同上)の「三日ノ浦」、五島福江島の「三井楽」などは、その代表的寄港地として、古くから知られ、記念碑が建てられている。当時、これらの港は、今の「成田空港」に匹敵するほど重要な海外発進の最前線基地だった。

 「日ノ島」(五島列島若松島に隣接する島)も「遣唐使船」を支援する人達が移住してきた。文書など記録は残されていないが、「日ノ島」神社の勧請年代がそのことを教えてくれる(拙著「渡唐船と倭寇の拠点―五島・日ノ島」『歴史研究』第五〇四号、二〇〇三年五月号、五〇〜五九頁所収)(第二章参照)。

 ここ「日ノ島」湾(図1)は、自然が形作った良港であり、海外渡航上の要衝として知られ、南北朝動乱期、伊東祐武が恩賞としてここを要求したほどであった(瀬野精一郎編『南北朝遺文 九州編第三巻』三三二三、「足利直冬充行状写」、日向伊東文書)。結果は、否定され代替地が与えられたが、このことは、直冬に随行していた鎌倉幕府の「恩沢奉行」(直義差回しの奉行)が「日ノ島」湾は海外渡航上の重要な要衝であるとの認識を持っていたことを物語っている。

 時代が下った室町時代にも、この「遣唐使」時代に開発された「南路」を利用して「遣明船」(図2)が頻繁(ひんぱん)に五島経由で中国へ渡航している。しかし、この「遣明船」は、「遣唐使船」のようには知られた事跡となっていない。

 「遣明船」の起りは「倭寇」と切っても切れない関係にあるが、十六世紀中葉、「王直」(後期倭寇の首領・五峰と号し五島や平戸を根拠地として活躍)に代表される「倭寇」の跳梁(ちょうりょう)が激しく、その事跡の方があまりにも有名で、その蔭に隠れてしまったためか。

【遣明船】

 中国・明(当時中国を支配していた王朝名)との通交は、建徳二年(一三七一)、征西将軍宮・懐良親王(かねよししんのう­=後醍醐天皇の皇子)によって始められた。これが後に室町幕府に引き継がれ「遣明船」となる。これは、室町幕府と明との間で行なわれた朝貢のための勘合貿易船で、応永八年(一四〇一)、足利義満によって開始され、天文十八年(一五四九)までの約一世紀半の間に、十九次にわたって派遣された。「勘合」とは、中国で使者の真偽判定のため、明政府が発行した「割符」のことで、明代では諸外国にも適用し、入明の際には渡航証明書として必ず所持することが義務付けられた。

 遣明船は、名義上は日本国王(足利将軍)の使節であったが、時代が下ると有力な守護大名や大寺社が経営し、貿易には和泉国堺や筑前国博多の商人が活躍した。

 応仁・文明の乱(一四六七〜一四七七年の内乱)後は、守護大名細川・大内両氏が主導権を争い、一五二三年(大永三)には双方の使臣が争う寧波(にんぽう)の乱に発展した。

 その後、「勘合」は大内氏が所持し、その滅亡まで同氏が遣明船を派遣した。貿易の方法は、進貢貿易、公貿易、私貿易の三種類があったといわれている。

 ちなみに、遣明船の貿易収支はどのようなものかを調べてみた。船一隻の貿易総額は約三万貫文。これから必要経費二千貫文と請負額三千貫文を差し引くと、二万五千貫文。商品の元値が七百貫文弱とすると、純益は一万八千貫文(米一石十万円として現在の価格に換算すると、約十八億円)余りと莫大な利益になったという(脇田晴子著『室町時代』中公新書、一九八五年、六一頁)。

 遣明船が五島列島を経由して往反し,「日ノ島」にやって来て寄泊した事実は、使節僧、たとえば策彦周良(さくげんしゅうりょう)の書き残した記録(策彦入明記)によって知ることが出来る。


三.策彦入明記

【策彦周良】

 戦国期の禅僧。一五〇一年四月二日に井上宗信(管領細川家の家老)の子として生れ、一五一八年、天龍寺(夢窓疎石が開山、足利尊氏・直義兄弟が建立した寺)で得度(とくど)して仏門に入り、一五七九年六月三〇日に没した。

 一五一四年、策彦十四才の春、天龍寺での仏国国師・高峰顕日(こうほうけんにち=後嵯峨天皇の皇子、下野国那須の雲厳寺を開山、夢窓疎石に印可を与えた鎌倉後期の五山の禅僧)の二百回忌に際し、第十代将軍足利義稙(あしかがよしたね)の給侍を勤めたという(牧田諦亮著『策彦入明記の研究 下』法蔵館、一九五九年、十四頁)。

 策彦周良は、大内義隆の要請を受けて、一五四〇年(天文九)と一五四九年(天文十八)の二度、入明朝貢船団の副使・正使として北京入城を果たしている。この二度の入明の旅を克明に記録したのが「策彦入明記」といわれている日記である。

 この日記は、中世の日明外交の記録として貴重な史料とされている。一五三八〜四一年(天文七〜十)の遣明副使のときの「初渡集」、一五四七〜四九(天文十六〜十八)の遣明正使のときの「再渡集」を中心とした日記で、ほかに進貢品とその調達の状況がわかる目録や、再渡で明上陸前に停泊したときの支出帳などが含まれている。策彦が第三世塔頭(たっちゅう)であった京都天龍寺妙智院に伝わり、入明の史料として最も詳しくまとまっているといわれている(牧田諦亮著『策彦入明記の研究 上』仏教文化研究所、一九五五年、三八四頁)。

 「日ノ島」に「策彦周良」が寄泊した事実は、天文七年から天文十年までの入明往反の経緯を記した「策彦入明記・初渡集」の帰朝時の一節の中にある。

 また、この日記には、中国に向けて出帆するに当って、「奈留島」に寄泊し、「奈留神社」で航海安全祈願を行ったことなども記されている。ちなみに、「奈留島」は、「日ノ島」の南南西に隣接する島で、この島の北側の「舟廻」は、「日ノ島」とは「滝河原瀬戸」を隔てて目と鼻の位置関係にあり、潮流を利用すれば小舟での往反に便利なところである。

【「日ノ島」寄泊記事】

 「策彦周良」が「日ノ島」に寄泊したのは、今からおおよそ四六〇年前、天文十(一五四一)年六月二十六〜二十八日の三日間である。六月二十日に「烏沙門」(中国・杭州湾外の「舟山群島」東端の石馬山にある浦)を出帆して六日後のことであった。

 二十四日から二十九日までの日記原文を引用しよう。寄泊したときの様子が生き生きと描かれている(カッコ内は筆者の意訳文)。

 廿四日 晴。風ヲキ西。申方風。辰刻。施餓鬼一会。巳刻。蜻蜒來。午時。船頭主計侑酒。舟行晝八里。風軟。夜二十里。アライ。今夜。夢先考懐玉宗信。又夢家兄筑前守。

(二四日 晴れ。風をき西、西南西の風。午前八時、皆で施餓鬼追善供養。午前一〇時、トンボ飛来。真昼、船頭主計が酒をすすめる。航行昼八里。風やわらか。夜二〇里。荒れる。この夜、亡き父懐玉宗信や兄筑前守の夢を見る。)

 廿五日 晴。風ヲキハエ。未方風也。辰刻。千鳥來。午時。懺法一座。舟行十五里。夜二十里。

(二五日 風をきはえ、南南西の風。午前八時、千鳥飛来。午前十二時、読経し懺悔の修行。航行十五里、夜二〇里。)

 廿六日 風マハエ。卯刻。立島當辰方。交五里許。五島膳左衛門云。此島五島西面姫島云々。又島傍舟一隻見。相侶二號船。午時。雨。須臾而歇。申刻。到五島之内日島。而繋泊矣。果然二號船亦到此而泊矣。即阿野備後守・禪甫・禪良・徳雲來。又志賀島人來。粗説防・長二州及博多之事。酉刻。大光・鈞雲・吉治・矢備以下上岸。喫清水。島側有寺。曰圓通寺。各造詣而茶話。遂設浴。浴了乗本船。初喫吾邦冥加・青山椒等。

(二六日 風真南。午前六時、東南東の方向に島影。五里ほどの距離。五島膳左衛門がいうには、この島は五島の西側の姫島というのだそうだ。また島沿いに舟一隻が見えた。仲間の二号船。午前十二時、雨。しばらくして止む。午後四時、五島内の日ノ島に到着。舟をつないで停泊する。思った通り二号船もここに到着し停泊する。すぐに阿野備後守・禪甫・禪良・徳雲が来る。また志賀島の人も来て、防・長二州および博多の情況のあらましを話す。午後六時、大光・鈞雲・吉治・矢備以下が岸に上がる。清水をのむ。島のかたわらに寺があった。圓通寺という。おのおのそこに行って茶のみばなし。湯浴みする。湯浴みの後本船へ乗船し、わが国のみょうがや青さんしょうをはじめて食べる。)

 廿七日 晴。風北気。以故不出船。猶在日島。巳刻。正使上岸。大光・惟徳・三英・三正統・仁叔恕・泉上司・仁書記・繼上司以下隨后。遂就圓通寺懺法三十三座。各讀正使和上夙願也。當散筵一衆一同又一座。正使導師。予香華。大光自歸。座罷。正使見設粥。鈞雲・吉治亦來陪。矢備・阿備以□光。二號船徳雲・禪良上司亦來。列于懺座。繼光・天初竺・萬英祝首座以微恙懈怠。粥了。同正使浄浴。浴后高枕安寝。遂勅僕従自本船搬晩炊。與正使同飯。薄暮。乗小舶上本船。圓通寺山號曰金烏山。蓋副于日島也。予問其支派於主盟。主盟答云。其先出于嵯峨門派。然年代深遠。而不知何的流。蓋以夷中僻島也。本尊十一面観音。自大唐流出。云云三十三年一開帳。

(二七日 晴れ。風北風、そのため船を出さず。なお日ノ島に在る。午前一〇時、正使が岸に上がる。大光・惟徳・三英・三正統・仁叔恕・泉上司・仁書記・繼上司以下がその後に従う。圓通寺に行き「三十三座」の懺法をおこなう。それぞれの経を読むことを正使和上が以前から願っていた。一つの衆徒一同が散会すると又つぎの一座というように行われた。正使が導師、私が香華、大光が自歸をつとめる。座をおえて、正使がかゆをそなえつけられる。鈞雲・吉治また来てそえる。矢備・阿備□でもってかがやかす。二号船の徳雲・禪良上司また来て、懺座につらなる。繼光・天初竺・萬英祝首座、軽い病気といって欠席。かゆおわる。正使とともに湯浴みして身を清める。湯浴みの後、高枕でやすんじてねむる。召し使に命じて、本船より晩の食事を運ばせる。正使とともに食事にあずかる。くれがた、小舟に乗って本船に上がる。圓通寺は山号を金烏山という。おもうに日ノ島にそうからだ。私が住職にその支派を問う。住職は答えていうには、その先は嵯峨門派の出であるが、年代が遠い昔の事、今はどの流派に属するか知らないと。おもうに地方の僻島だからなのだろう。本尊は十一面観音。大唐から流出したもので、三十三年に一度開帳するのだという。)

 廿八日 快晴。風ハエ。卯刻。開船出日島。二號同前。今旦。吉治侑中酒。初喫吾邦酒。午時。天気陰。少雨。又晴。祈祷懺法一座。酉刻。繋泊于南満屋堅。自日島到茲。舟行七里。此島亦五島内也。佳境可愛。

(二八日 快晴。風南。午前六時。船をときはなして日ノ島を出る。二号船も同様。今朝、吉治が中酒をすすめる。はじめてわが国の酒をのむ。午前十二時、天気くもり。すこし雨。また晴れ。祈祷懺法一座をおこなう。午後六時、奈摩の矢堅に舟をつないで停泊する。日ノ島からここに到着。航行すること七里。この島は、また五島内で、景色が素晴らしく美しい所である。)

 廿九日 晴。辰刻。少陰。又晴。風北。故不出船。猶在南満。午時。正使和尚見侑一盞。午后。繼光・惟徳以下各乗小舶。先甲往博多津。

(二九日 晴れ。午前八時、薄曇り。また晴れ。風北ゆえに船出せず。なお奈摩に在る。午前十二時、正使和尚が一杯の酒をすすめられる。午後、繼光・惟徳以下がおのおの小舟に乗って、博多津に向けて先行する。)

【遣明船往反の経緯】

 「策彦入明記・初渡集」の記述と「策彦入明記」研究者・牧田諦亮氏の解説を基に、策彦周良が入明往反(おうへん)時にたどった経路などをまとめてみた。

 表は、博多から目的地(定海縣)までの発着経路などを一覧表にしたもの。図3は、これらに基づいて図解したものである。

さて、「策彦入明」の往路と帰朝の経路やその時々での情況はどのようであったか。

【往路】

 往路についてみると、次のようである。

天文八年三月五日、二年間に及ぶ準備が万端整い、博多出帆を決意。まず志賀島に至って、この先行き長い船旅に備えて航海安全祈祷を行なった。しかし、天候や風向きが悪かったためか、ここで十日余りを費やす。

 三月十七日、ようやく晴、北東風に乗って出港。この日は、小豆(あずち)大島(多くの遣明船は、ここで風待ちをしている)泊まり。二十二日、平戸に上陸し七郎権現詣(もうで)。二十四日、潮時を見て同じ平戸島の河内浦に移動。二十九日まで雨風のため足止め。晦(三十)日、ようやく天候が回復して晴れたのだろう、河内浦を出港して南下、五島の奈留浦に着いている。ここは、東シナ海に向けて開帆するための最後の前進基地の一つで、古くから航海安全祈祷所として有名な奈留(鳴)神社や海安寺がある。ここで風待ち。

 四月十九日、奈留島着岸の日から数えて二十日目、ようやく順風が吹き、東シナ海に向けて出帆した。十里ばかり航行したところで男女群島に差し掛かり、順調な滑り出しであった。翌二十日から二十三日にかけて順風に乗って航行を続けているが、天候は雨とある。

 四月二十四日、海上に浮遊物(烏賊の殻、松葉や藻根などの生活廃棄物)が見られた。船には、二十一日ごろから白鷺や雀それに青鷺などが飛来して中国大陸沿岸に接近していることを思わせるが、なかなか陸地が見えてこない。このことを心配してか、しきりに水深を図っている。五月一日になってやっと水深が四十三尋から三十七尋になり、島影が見えてきて、船上はみんなの喜びで湧き立っている。後で判ったことだが、二十四日頃から北風が吹いていて、そのために船が目的地の寧波定海港口よりずっと南のほうへ流れ着いていた。

 五月二日、水深十六尋の島影に係留する。近くで漁をしている釣り船の漁師と筆談して、ここが浙江省温州沖で、大瞿山島であること、目的地の寧波までは北上して好風の場合五日かかることなどの情報を得ている。この海域は、海水が丹砂(水銀と硫黄が化合してできた赤い土)のように赤く、また点漆(てんしつ=漆を塗る。転じて、物のまっ黒いことの形容)のごとく黒く濁っていると記しているが、さしたる感想も書いておらず、このような情況はこの時代では当たり前のことであったことを思わせる。

 五月五日に正南風が吹き、温州沖を出港。五月八日、好風に恵まれてようやく目的地の寧波・定海港口に到着する。

【北京行】

 この後、いろいろの手続き(勘合符の照合など、いわゆる入国手続き。貢馬が何匹いるかなども尋問している。)があって、寧波に半年ばかり滞在。北京へ向けて船出したのは、天文八年十月十九日。北京入城を果たしたのは、寧波を発って百二十余日を費やした後の翌九年三月二日であった。三月七日、朝拝の儀が行なわれ、使節一行はこれに参列、朝貢を果たす。約七十日、北京に滞在した後、五月九日、北京を出発して寧波への帰路についた。

 天文九年九月十二日、寧波に到着。残留の人たちから熱狂的な歓迎を受けている。この日から、天文十年五月二十日の寧波出帆まで、約二百五十日間は、中国文人との交流や名勝探訪などのほか、帰国の準備(文献類の表装、土産物の入手、船の修理など)などで費やしている。寧波を実際に出発したのは、五月二十一日。二十三日には、定海港付近で仮泊。

 舟山群島(舟山島をはじめ、二〇〇余りの島と多数の礁からなる中国最大の群島。古くから海上交通の要衝で、唐・宋以後の日中交易船の寄港地)の沈家門に至ったのは、五月二十九日、ここで強制的に収容・保管されていた武器などを受取っている。

【帰路】

 五月二十九日、沈家門で兵器類も受領。晦(みそか)日、烏沙門に到着。ここで好風が吹いてくるまで待機。このあと、策彦の日記には、南風(ハエ)東南風・クニハエ・アラハエなど、風向きが丹念に記されている。当時の航運が専ら風まかせであったためであろう。

 六月二十日、卯の刻(六時)ついに好風(マハエ)が吹き、烏沙門の仮泊地を出帆。大瀬戸を出てからは檣(しょう=ほばしら)を立てて帆を引き、好風に乗じて一路帰国への旅立ち。昼夜航行距離、四五里。「満船喜気不可勝言」(満船の喜気、あげて言うべからず)と策彦は記しているが、この記事の中に、四百数十人の帰りを急ぐ人々の喜びが察せられる。

 二十一日、晴、マハエ。昼夜航行距離、七〇里。「予以微酔懈怠」とあり、少々船酔い。

 二十二日、晴、ヲキハエ。昼夜航行距離、六五里。夜に入って強風。

 二十三日、快晴、ヲキハエ、ヲキ西(南西の風)。燕が船を掠めて飛び去り、日本の地が近いことを窺わせる。船中では懺法・連句の会などが催され、矢田備前守増重が、「ワタノ原月ノヤドリカ雲ノ峯」と発句を詠む。昼夜航行距離、四〇里。昼、風弱く、夜、風少し強。

 二十四日、晴、ヲキ西(申方)、蜻蜒飛来。昼夜航行距離、二八里。

 二十五日、晴、ヲキハエ(未方)、千鳥飛来。昼夜航行距離、三五里。

 二十六日、姫島を遠望。日ノ島に到着し、繋泊。

 二十七日、金烏山圓通寺で懺法三十三座。十一面観音菩薩のことや嵯峨門派のこと。

 二十八日、日ノ島を出港。奈摩・矢堅目に寄泊。

 二十九日、晴、北風のため船出せず、奈摩停泊。

 七月一日、晴れ、ヲキ西。しかし、凪(なぎ)のため船出せず。小舟の二号船は、開帆。

 二日、快晴、マハエ。奈摩出帆。「鹿本渡」(小値賀島か)を経由して「息盡」(生月=いきつき)泊。

 三日、生月を出船し「斑島」(馬渡島=まだらじま)に至って停泊。博多の船が出迎えにきている。大内氏の命令で博多からの警護船も一隻到着、尼子・毛利の合戦の模様を聞いている。

 この後、七月四日に呼子に達し、風の都合で九日までここに滞留。ついで藍島(相島=あいのしま)を経て、七月十日赤間関の宮浦に着岸し、矢田備前守の息子である阿弥陀寺の主などの出迎えを受ける。五島から先行した二号船の船頭池永新兵衛・盛田新左衛門なども帰国祝賀のため来船。十一日巳の刻には赤間関に着岸し、ここに三年に亘る舟旅は全く終了、正使以下役者はことごとく上陸、矢田備前守の隠居所で入浴し祝宴に列席。この夜、策彦は中澤與四郎から京都、嵯峨の状況を聞いているが、この時、妙智院を出た日(天文六年末)から数えて、実に四年の歳月が流れていたのである。


四.乗組員数・水夫の出身地・船の構造

 この日記から、大勢の人達が訪れたことがわかる。この時の乗組員は、一号船が官員十五名、商人百十二人、水夫五十八人であり、二号船が官員五名、商人九十五人、水夫四十人であったという(牧田諦亮著『策彦入明記の研究 下』法蔵館、一九五九年、三一頁)。

 ちなみに、水夫の出身地がどこかも調べてみた。宝徳度遣明船(一四五三年入明)の帰国記事の中の享徳三年(一四五四)六月二十七日の条に、「至作所見山下水夫曰吾肥前五島也・・・」とあり(『(新訂増補)史籍集覧』三三冊、続編(一)、「允澎入唐記」、一九六七年、四三六頁)、この記事から水夫の出身地が「五島」ということ、そして、渡唐船に乗り組む水夫たちの供給源が昔からこの地域にあったことを確認することができた。

 さて、このように大勢の人達を乗せる船の大きさはどれくらいのものであったか。天文十六年の時の一号船は、長さが二十三尋(約三十五メートル)、柱の長さが十三尋(約二十三メートル)、荷物は五百駄(六万七千五百キログラム)以上であったという(藤田元春著『日支交通の研究』冨山房発行、一九三八年、一七三頁)。

五.十一面観音菩薩

 「策彦入明記・初渡集」「日ノ島寄泊」記事の中で注目すべきことは、当時、「日ノ島」には「臨済禅に属する金烏山圓通寺」(牧田諦亮著『策彦入明記の研究 上』仏教文化研究所、一九五五年、七三頁)という寺があり、本尊が「十一面観音菩薩」で、三十三年に一度の開帳であるということ、そして、この本尊の前で大法要が行われたという点である。

 現在、「日ノ島」の「源壽院」に祭られている「十一面観音菩薩」(図4)が当時のものであるならば、おおよそ四六〇年以前の昔から「日ノ島」にあったということが出来る。

この「十一面観音菩薩」は、一九九七年九月十七・十八日に三十三年目の御開帳を迎え盛大な法要が営まれた(図5)。大銀杏から枯葉が降り注ぎ、菩薩の慈悲を一身に浴びている思いがした。ともあれ、「日ノ島」を含め五島列島の津々浦々は、遠い昔から海上交通の要衝として大型の船が行き交い賑わった。

乗組員の一人「五島膳左衛門」の名前が暗示しているように、沿岸の住民は、梶取や水夫など何等かの仕事に関与し、その生活は豊かであった。


【付録】人物こぼれ話
(王直・楠葉西忍)

【王直(おうちょく)】「王直は、天文二十(嘉靖三十)年に中峰明本の墨跡を大内義隆のところにもたらしているが、日本国内の大名とは頻繁な往来があったようである。中峰明本(中国禅僧)の墨跡に副えた策彦周良の文には王直を「大明人五峰先生」とよんでおり、文之玄昌の『鉄砲記』は王直を「大明儒生」と称しているが、王直は日本の一流の知識人から尊敬の念を持って遇せられていたようである。」(田中健夫著『中世対外関係史』東京大学出版会、一九九四年、三二〇頁から抜粋)

(注)中峰明本(ちゅうほうみょうほん)の墨跡は、策彦周良が入明の際、その墨跡に魅せられて求めようとしたが、交易することができずに心を残して帰国したという因縁のものであった(田中健夫著『倭寇』教育社、一九八二年、一三五〜一三六頁参照)。

【楠葉西忍(くすばさいにん)】「『大乗院寺社雑事記』に伝える、楠葉西忍の言をきこう。西忍は、永享六年と、宝徳三年の遣明船に大乗院から派遣されて乗り込んで二度も渡航した混血の商人である。彼がいうには、銀一〇匁が北京では銭一貫、南京では銭二貫、明州では銭三貫の相場である。北京で銀を仕入れ、明州で銭に換え、その銭で生糸を買って日本に帰ると、相当の利益になるといっている。また、西国における備前・備中銅の代価は、一駄が一〇貫文であるが、それを唐土にもっていき、明州・雲州糸と交易すると四、五〇貫になる。また、金一〇両は日本では三〇貫文であるが、唐土で糸に代えると一二〇貫、一五〇貫文になるといっている。銅・金を輸出し、生糸を輸入すれば、大体、四、五倍以上の利益になった。」(脇田晴子著『室町時代』中央公論社、一九八五年、六〇頁から抜粋)


                 表 策彦周良の入明往反経路

(往路) 天文八年(一五三九)

月日

経路(発着地・航行距離ほか)

天候・風向

特記事項

3/5

3/17

3/22

3/24

3/30

4/19

4/21

4/22

4/23

4/24

4/25

4/26

4/27

4/29

5/1

5/2

5/5

5/6

5/7

5/8

博多開帆→志賀島(10数日滞在)

志賀島→小豆島(泊、舟行35里)

小豆島→平戸(上岸、岸交3里)

平戸→河内浦(上岸、舟行3里)

河内浦→五島奈留(上岸、風待ち)

奈留発船開洋(東シナ海)

東シナ海(海上、舟行60里)

東シナ海(海上、中国沿岸接近)

東シナ海(海上、中国沿岸接近)

中国沿岸海域(水深98尋)

中国沿岸海域(水深80尋)

中国沿岸海域

中国沿岸海域

中国沿岸海域(水深63尋)

島嶼列観望(水深4337尋)

大瞿山島付近着(水深16尋、海水濁)

温州界出帆→台州界一島停泊

開帆出島し北上(島の傍らで停泊)

卯刻、発船→昌国の南島に停泊

辰刻、開帆→定海港着(舟行3里)

晴、北東風

快晴

(潮時発進)

順風

雨、順風

雨、順風

(北風?)

(北風?)

(北風?)

(北風?)

(北風?)

(北風?)

正南風

正南風→不順

正南風

正南風

航海安全祈祷

船中祈祷

七郎権現詣

船中祈祷

鳴神社祈祷

男女群島 10

白鷺飛来

燕飛来

雀・青鷺飛来

烏賊殻など浮遊

白鷺・千鳥飛来

千鳥飛来

満船喜気如春

浙江省温州府沖

及夜半而仮寝

馬頭山を望む

寧波府定海縣内

北風急著温州

         出典:牧田諦亮著『策彦入明記の研究 上・下』


               表 策彦周良の入明往反経路

(帰路)天文十年(一五四一)

月日

経路(発着地・航行距離ほか)

天候・風向

特記事項

5/29

5/30

6/1

6/20

6/216/22

6/23

6/246/25

6/26

6/276/286/29

7/1

7/2

7/3

7/4

7/9

7/10

7/11

沈家門(28日到着し停泊中)

沈家門→烏沙門(唐路18里)

烏沙門停泊中(〜19日まで風待ち)

烏沙門出帆(舟行、昼15、夜30里)

東シナ海(舟行、昼40里、夜35里)

東シナ海(舟行、昼35里、夜30里)

東シナ海(舟行、昼10里、夜30里)

東シナ海(舟行、昼8里、夜20里)

東シナ海(舟行、昼15里、夜20里)

五島姫島を望み、申刻日島に至り停泊

日島停泊(円通寺で懺法三十三座)

日島奈摩・矢堅目にて繋泊

奈摩停泊(風待ち)

奈摩停泊(ナギのため、船出せず)

奈摩→鹿本渡(7里)→息盡(3里)泊

息盡→斑島(舟行15里余)

斑島→呼子(舟行5里)

呼子→藍島(舟行21里)

藍島→赤間関宮浦着(舟行22里)

宮浦→赤間関着(舟行3里)

天気陰々

天気陰、順風

晴、マハエ

晴、マハエ

晴、ヲキハエ

快晴、ヲキ西

晴、ヲキ西

晴、ヲキハエ

マハエ

晴、北気

快晴、ハエ

晴陰、北

晴、ヲキ西・凪

快晴、マハエ

雨、やがて止

午時、雨

晴、マハエ

晴、マ西

兵器類受領

帰路航行開始

予以微酔懈怠

燕飛来日本近

蜻蜒飛来

千鳥飛来

志賀島人来訪

住職、由来語る

佳境可愛

侍僧博多へ

2号船開帆

喫麦酒

博多警固船着

9日まで風待

旅程終了、上岸

       (注)ヲキ西=申方 ヲキハエ=未

           出典:牧田諦亮著『策彦入明記の研究 上・下』