HP PF 参照 記事

瀬戸音信

                                   松浦党白浜一族の南蛮貿易とモエン様
                                    人・物・情報の交差する島々の物語
                                        上五島の歴史と文化・風土
                                     〔原典:上五島歴史と文化の会発行『五島・若松瀬戸物語』〕
                   (オンブック発行『甦れ!僻島の事跡と風景』に改訂版掲載)
                      http://www.onbook.jp/bookd.html?bid=0131




図1
間伏光石海岸石塔群





図2
岩陰遺跡




図3 鰐口



図4
三界萬具寺石塔


    松浦党白浜一族の南蛮貿易とモエン様


あらまし

 安南国(ヴェトナム)阮潢(げんこう)公から家康宛に国書が届けられた。そこには白浜顕貴(あきたか)の消息が綴(つづ)られていた。祖先は壱岐安国寺高麗版大般若経を齎(もたら)した白浜氏。五島・若松郷神部には「モエン様」の遺跡があり、同町間伏・光石海岸に一族の墓や石塔が建っている。


一.点と線

 船による交易は、点を線、いわゆる「海上の道」で結ぶことによって行われる。点は、島であり大陸沿岸の港であった。この渡航方法は、今も昔もかわらない。

 中世から近世期、東西南北にわたって、東シナ海や南シナ海を多くの人・物・情報を満載した交易船が行き交った。交易者の一族は、いくつかの「点」に居住地を拓き交易のための拠点を築いた。船を作り操船・航海術を身につけた人たち、それらを支援する人たち、武装商人たちとさまざまであった。船は、風や潮流を巧みに利用して航行できるようにさまざまな機能を取り付けた構造船が用いられた。交易地域は、東南アジアからさらにルソン島にかけての広い範囲に及んでいた。

 誰がどこの島々を「点」として活動していたか。いくつかの拠点をたどって、残されたいくつかの事跡を結んでいくと、ある特定一族の活動の実態が浮かび上がってくる。

 松浦党の白浜一族は、そのひとつであった。室町、戦国、近世と激動する世界で南蛮貿易を活発に行なったこの一族は、壱岐・五島若松島(狩俣島)・宮古島・安南(ヴェトナム)などを拠点として活動していた。その実態と当地(長崎県南松浦郡新上五島町若松郷神部)に秘められた謎に迫る。


二.安南国書状と関連事跡

【家康宛国書】

 関ヶ原の戦いの翌年、安南国総兵都元帥瑞国公阮潢(げんこう)から徳川家康宛に国書が送られてきた。その日付は、安南の弘定二年(慶長六・一六〇一)五月と記されていた。

 国書の内容は、相互に国交を厚くし貿易を興そうと申し出たものである。

安南國都元帥瑞國公上書

「安南國天下統兵都元帥瑞國公、茲屡蒙家康公貴意、前差白濱顕貴、發船往販、通商結好、又蒙賜文翰、乃前任都堂往復、今我新任都統元帥、欲依前事両國交通不幸、至舊年四月間、顕貴船泊在順化處海門、被風蕩、船破無所依恃、順化大都堂官、不識顕貴良商、與船衆争気、不意都堂官誤身、故諸将帥興兵報怨、且日日要殺死顕貴、我在東京聞此消息、愛惜難勝、於上年我奉命天朝、復臨巨鎮見顕貴、尚在我國、我本欲發船許囘、奈天時未順、延至今日、幸見貴國商船復到、顕貴晴曉事由、我無不悦、爰謹具菲儀、聊表微意、庶容少納、外専書一封、煩為傳上位、示下予顕貴返國、以結兄弟之邦、以交天地之儀、誠如是則助以軍器、曰〔生盬漆並器械〕以充國用、我感徳無涯、異日容報至祝、茲書。 弘定弐年五月初五日」(『近藤正斎全集第一』)

 国書は、「安南国天下統兵都元帥瑞国公、しばしば家康公のご意向を受け賜っている」との書き出しではじまり、「白浜顕貴(あきたか)、船を発して往反(おうへん)し、通商の好(よしみ)を結ぶ。去年四月、顕貴の船海門の順化(そんは=現、フエ)に在泊中、風蕩(うご)き、船破れてたよるところなし。(中略)。さいわい貴国の商船復到す。晴れて顕貴を国に返すに及び、我悦ばざるなし。ここに薄謝(奇南香・伽羅など)を謹上し、いささかの思いを表す。顕貴に手紙を託す。兄弟国の好を結び、国交しましょう。」という内容が認(したた)められている。

 この書状を日本まで携えてきたのは、「白浜顕貴」本人であろう。これは、白浜顕貴個人の消息を伝えるものであったが、本当のねらいは、その事実を伝えるということに事寄せて日本との正式な通交(武器の提供)を要請してきたものであった。

 白浜顕貴は、慶長(一五九六〜一六一五年)・元和(一六一五〜一六二四年)の頃、長崎に進出して将軍家康から朱印を賜り、安南船を出していたといわれており、その事実は、この安南国瑞国公阮潢から家康あてに送られてきた書状によって明らかである。

【返書】

 安南国瑞国公に対する家康の返翰(かん)は、同年十月復書の形式で記されている。

神君復賜安南國大都統瑞國公御書

「日本國 源家康 復章安南國統兵元帥瑞國公、信書落手、巻舒再三、自本邦長崎所發之商船、於其地逆風破舟、凶徒殺人者、國人宜教誡之、足下至撫育舟人者、茲恵深也、貴國異産如目録収之、夫物以遠至罕見為珍、今也我邦四邊無事、羣國昇平也、商人往返、滄海陸地、不可有逆政、可安心矣、本邦之舟、異日到其地、以此書之印可為證據、無印之舟者不可許之、敝邦兵器、聊投贈之、實千里鵝毛也、維時孟冬、保嗇珍重。 慶長六年辛丑(十月)小春日 御印」(『近藤正斎全集第一』)

 書簡の前半部で、「自本邦長崎所發之商船」(本邦長崎より発した商船)とあるのは、「白浜顕貴」の商船のことと推察される(『近藤正斎全集第一』)。

 書簡の後半部分には、「今や我邦、四辺無事、都国昇平なり。・・・。本邦の船、異日其地に到らん、この書之印を以て証拠となすべし。印無き船は之を許すべからず。」とあり、家康の朱印状を持参する者に限って貿易を認めてほしいと述べている(『倭寇史考』/『県史42 長崎県の歴史』/『朱印船時代の日本人』)。

 慶長九年(一六〇四)に交付された御朱印は総計二十九通といわれ(『倭寇史考』)、船本弥七郎(顕定(あきさだ))、島津陸奥守、末次平蔵、細屋喜斎などの名が見える(『異国日記』)。

 船本弥七郎(顕定)は、長崎に住み、一六〇四〜二〇(慶長九〜元和六)に十一回の朱印船の派遣が確認される人物。安南国瑞国公阮潢(げんこう)は、顕定を養子のように遇し、渡航日本人の取り締まりに当たらせようと幕府に要請している(『日本史広辞典』/『近藤正斎全集第一』)。

 弘定十九年(一六一八)付け阮潢(げんこう)の書状に「船本弥七郎顕定、自就我邦已二十餘年、我視之猶子、始終無間、・・・」(「外蕃通書第十三冊」)とある。二十余年来の交流だとすると、前掲の家康あて国書にある「白浜顕貴」が活躍していた時期と重なり、名前に「顕」の字を冠していることから、両者は、同族で兄弟か親子の関係であったと判断される。

【白浜氏】

 壱岐の安国寺(芦辺町深江触)に高麗初雕(ちょう)本二一九帖(じょう)と写本三七二帖からなる「高麗版大般若経」が現存する。一九七五年「国指定重要文化財」となる(『東アジア往還』)。この大般若経を朝鮮の西伯寺からもたらしたのが白浜若狭守源政という人物とされている。応永三十年(一四二三)、肥前川棚の長浜大明神に寄進され、文明十八年(一四八六)、志佐氏の代官真弓豊後守源納が壱岐の安国寺に施入替したという(『松浦市史』)。

 白浜氏は、もとは松浦党の巨酋志佐氏の分族で、白浜に住みこの地名を名字(みょうじ)とした。「世宗実録」(一四一九~一四四三年)には、壱岐守護代白浜伯耆守沙弥光秀(ほうきのかみしゃみこうしゅう)の名があり、白浜若狭守源政はその子孫にあたる(『松浦市史』)。

 志佐氏(義)が明徳三年(一三九二)に壱岐国守護に任じられ、白浜氏は、その守護代として壱岐の都城を拠点に海外交易の活動を行なっていた。また、白浜氏は、すでに十四世紀中ごろから、五島の「西島」(またの名は、狩俣島。現、若松島)の「間伏」地区を拠点に、代々、志佐氏の代官として活動していたという(『浜木綿』)。

 一四七二年、壱岐守護代の白浜氏は、波多泰の軍勢に攻められて敗れ、一族の一部が五島の「西島」(間伏地区)に逃れて来て、ここを拠点に再び活動を行なっている(図1)。

 なお、「永徳の規約」と呼ばれる「松浦党一揆契諾状」(永徳四年・一三八四)に名を連ねている署名者に「志佐白浜後家代弘」という人物がいるが、子孫については詳(つまび)らかでない。

【安南国との交易】

 安南国(ヴェトナム)へ発展した白浜氏の事跡は、壱岐守護代であった都城時代にさかのぼることができる。このことは、都城跡(長崎県壱岐郡芦辺町)の調査で十四〜十五世紀の遺構・遺物が確認され、ヴェトナム産陶磁器がまとまって出土したという事実(『都市と宗教中世地誌研究4』)、さらに、壱岐の埋蔵金の中に「大和通宝」(一四四三年)「光順通宝」(一四六〇年)「洪徳通宝」(一四七〇)「洪順通宝」(一五〇九年)という安南国の銭貨が混じっていた事実(『郷ノ浦町の文化財』)が明証してくれる。

【航路】

 日本からアユタヤ(タイ)までの航路の記録が『天竺徳兵衛物語』(播州加古郡の徳兵衛という人が、アユタヤに二度渡航したときの思い出の記録・一七〇七年)に残されている。それによると、「日本から東南アジアに向かう船は、五島列島から南へ台湾に行き、さらに中国の沿岸を経て、インドシナのダナン(ヴェトナムの地名)を目指した。ダナン近郊には大きな山がみえ、これが目印となっていた。そこから南へ進み、カンボジア、あるいは沖合の島々をたどり、アユタヤに入る。長崎から三八〇〇里だった」と書いてあるという(『朱印船時代の日本人』)。


三.倭寇の南方進出

【南北朝合一後の倭寇の動向】

 中世、五島の「日ノ島」を含め「西島」と呼ばれた地域は、南北朝動乱期、征西将軍府の水軍が朝鮮半島や中国に対する軍事活動を遂行するための最前線基地であった(瀬音05:渡唐船と倭寇の拠点―五島・日ノ島―)。南北朝合一後、これらの地域は、室町幕府勢力の支配下に置かれ、また、室町幕府の海賊行為に対する取締りが一方的に強化されたことによって、征西将軍府の支配下にあったかつての水軍は、ここ「西島」をその活動拠点とすることができなくなった。彼らは、このような事態に直面して、別の新たな活動の拠点を目指し「西島」から撤退して行かざるをえなくなったが、一体、どこへ行ってしまったのか。

 倭寇たちの中には室町幕府の体制に組み込まれ歳遣船や遣明船の経営に加担していった者たちがいたが、それらはごく限られた海の領主達であり、南北朝動乱期、室町幕府に抵抗し続けた多くの倭寇は、南北朝合一後もその枠組の外で依然として反体制的活動をとり続けた。一方、室町幕府の枠組みの中に組み込まれた海の領主と主従関係で結ばれていた一族の中からも、室町幕府の体制から何らかの理由(幕府の弾圧)で離脱を余儀なくされ、本貫地を離れていかざるをえなかったもの達が多くいたに違いない。

【義満の海賊虐待】

 応永八年(一四〇一)以降、足利義満は、中国・明との間に正式な外交関係を結び、いわゆる「勘合貿易」と呼ばれた朝貢貿易のための「遣明船」を発遣するようになるが、『明史』日本伝は、永楽二年(一四〇四)十一月の条に、「義満は対馬・壱岐の倭寇の首魁二〇人を捕らえて明に贈った」と記しているという。義満は、数度にわたって倭寇を捕らえて明廷に献上したとされ、そして、彼らは、日本人の手によって甑(こしき=蒸し器)に入れられて蒸殺(釜ゆで)されたのである(『中世対外関係史』/『倭寇』/『倭寇史考』)。

 こうした室町幕府の対外政策に反発し、禁圧すればするほどその弾圧に屈することなく、ますます活発に活動し続けた多くの海賊・倭寇たちがいたことは確かである。彼らは、このような幕府権力の過酷な弾圧に抵抗して、自由な天地を求め、東シナ海を南のほうへ移動していったものと思われる。

【琉球・先島諸島の遺跡】

 国立歴史民俗博物館の調査(一九九三年度から一九九五年度)によれば、琉球・先島諸島には、十四世紀後半から十五世紀末頃にかけて忽然(こつぜん)として現れ消滅していった遺跡が至る所にあり、多くの陶磁器が採集されるという(『村が語る沖縄の歴史』)。

 また、稲村賢敷著『琉球諸島における倭寇史跡の研究』によれば、「宮古島」や「八重山」には、中世期の史跡が多く残されており、それらの史跡は倭寇の活動と深く関わっていること、そして、その痕跡は、「御嶽」(うたき)の伝承の中にあり、また、代々書き継がれ語り継がれてきた「卜占書双紙」に記された「神名」「神歌」や「祝詞」(のりと)の中に見出されるという。たとえば「東(あがる)なるかに」がそれであり、これは「日本国王良懐」を意味するということ、また、「卜占書双紙」の内容は、「簠簋(ほき)内伝金烏玉兎集」(日時・方角の吉凶などを集大成した雑書の一つ)とその内容において類似点が多いこと等をとりあげて検証し、次のように総括している。

「南北朝の合一に依って、国内情勢が大きく変動すると共に、室町幕府は日明貿易方針をとり勘合符貿易が行はれたので、幕府方の大内、細川、島津氏等の海上勢力が伸びるようになり、その反面、征西府側の菊池、松浦の勢力は衰えた。又、倭寇も幕府の取締りが厳重であった為に国内に潜伏する事が困難となり、遠く琉球諸島に隠棲するようになり、其の勢力も分散したので前期のような大規模の倭寇は見られなくなり、小人数で支那官憲の隙を窺って暴威を恣(ほしいまま)にするゲリラ戦に変っていった。(中略)。又、一方には勘合符貿易に与(あずか)る事の出来ない人々に依って、漳州泉州福州沿岸に於ける密貿易の途も開拓されるようになった。こうした支那に於ける倭寇の変化や密貿易の開拓といふ事と日本に於ける国内情勢の変動といふ事の間には歴史的相関性の存する事は否定出来ない。そしてこの関係を解決する物が琉球諸島間に点在している倭寇遺跡であり伝説であり又土俗として行事として残っているのである。殊に、宮古島砂川(うるか)部落に伝わっている卜占書双紙と是に関する信仰に依って、吾々は当時日本から亡命した多くの人々がその子孫を南島に残している事を確認することが出来る。」

 中世、村が忽然として現れ、忽然として消えていったという琉球・先島諸島の島々、八重山や宮古島は、まさしく、南北朝合一後、反体制的活動を執り続けた倭寇たちの逃竄(とうざん=逃げて、人知れぬ所へもぐりこむ)の地だったのである。


四.宮古島の遺跡・伝承と倭寇

【狩俣】

 前述の国立歴史民俗博物館調査によると、八重山や宮古島には、石垣で囲まれた中世の村やグスクの伝承をもつ中世の遺跡があり、ここからも陶磁器が多数採集されたという。そして、宮古島の平良(ひら)市の狩俣(かりまた)には、中世だけでなく近年まで続いた「石垣で囲まれた村」を確認できるといい、そこは島の一番東側の丘陵が海に面した断崖の上にあり、平石を上に渡した三つの石門によって外の世界に開かれていたという(『村が語る沖縄の歴史』)。

 この「狩俣」という地名が、当地「若松島」の中世の呼び名「狩俣島」を想起させる。地名の呼び名が同じということが、何か特別な出来事、例えば、南蛮貿易の拠点作りに白浜氏が移住したのではないかとの空想を誘(いざな)い、限りなき好奇心を掻き立ててやまない。

【狩俣の祖神祭】

 狩俣部落の祖神祭(おやがみさい)は、毎年旧暦の十月から十二月まで五回行われ、神女(つかさ)たちは、そのつど山ごもりをする。谷川健一氏は、その様子を、『孤島文化論』の中で、概略、次のように描写している。

〔青い木の葉で編んだ冠を被った神女たちが、白い衣をつけ、杖をつき裸足で、大神女(うぶつかさ)を中心に円陣を作って神フサとよばれる神歌をうたう。その広場の北側には大森(うふもり)があり、ここに御嶽(うたき)が設けられている。この大森は、原生林で、神女以外は足を踏み入れない。海の彼方から訪れる神は、狩俣の突き出した岬の尾根をたどって、この大森に降り、さらに狩俣に降りてくる。神女たちは、その神の降臨を実演しているのである。〕

【創建譚】

 狩俣の「大城御嶽」では、「豊見赤星天太なふら真主」(とよみあかぼすてだなふらまぬす)という女神が祀られている。谷川健一氏は、祖神祭で神女たちが山ごもりする経緯を、前掲書の中で『琉球国由来記』に基づき次のように解説している。

「豊見赤星てだなふらという女が狩俣村の御嶽である大城山(大森)にただひとり住んでいて、あるとき若者がしのびこんだという夢をみた。そして一男一女を生んだ。男子は狩俣の氏神となった。女子は山のふせらい青しばの真主(まぬす)と呼ばれた。この娘は十五、六歳の頃に、髪をふりみだし、白い神衣を着て、こうつと呼ばれる葛(つた)かずらを帯にして、青しばというかずらを、八巻の下地の形に巻いて、高こばの筋を杖にして右につき、青しば葛を左手に持ち、神綾語(かみあやご)をうたい、自分は世のために神になったといって、大城山にとびあがり、ゆくえ知れずになった。そこで狩俣の女たちは年に一度ずつ、大城山にあつまって、ふせらいの祭礼をおこなう。それがしだいに島中にひろがり、世直し神あそびといって、村々の女たちが毎年十月から十二月まで、月に五回ずつ精進潔斎をし、神綾語をうたい、世果報を願って神遊びをする。」

 ここに出てくる「山のふせらい青しばの真主」は、大蛇神と考えられている。そのわけは、この子を産んだ「赤星てだなふら」(てだ=太陽、な=の、ふら・ふわ=子、の意)という女性が、最初に出会った者を父としようとして、父親を探しに出かけ、初めて行きあったのが大岩に這いかかっていた大蛇であったからという。

【宮古島と倭寇】

 『古琉球』の著者、伊波普猷(いはふゆう)氏は、「宮古島の歴史を見ると按司(あじ)の時代とか殿の時代とかいうのがあるが、殿の時代は恐らく倭寇の連中が一時宮古島を占領していた時代であろう。殿の名に日本流の名のあるのを見てもわかる」と述べている。

 また『古琉球』の校訂者、外間守善(ほかましゅぜん)氏は、『日本の中世 十一』「月報6」で、中世日本と沖縄の関わりについて、次のように述べている。

〔あの折口信夫は、南北朝の乱に敗れた武士たちが九州の西海岸に拠りながら、南の島々に定住の地を求めていった足跡を追い、その中の名和(なわ)一族の南走を「琉球国王の出自」に見立てて、中世日本と沖縄の史実として認めようとしたほどである。・・・、乱世に敗れた武士たちが、南の島々を伝って動くごとに、「果の島」「果ての浜」「果ての所」(果たら・鳩間・波照間)などと名付けて漂泊の地に感慨無量の思いを託したことは、島々に「たいら(平・平良)」といった地名を刻み、名前に平家の人たちが好んだ「清盛」「有盛」のような「〜盛」の字を残していったことなども、動乱の中世日本の残映である。〕

 ここで、「名和一族」を「白浜一族」に、「平良」を「狩俣」に読み替えると、この抜粋部分の記述は、「壱岐」や五島の「狩俣島」(若松島の中世の呼称)を拠点に活動していた「白浜一族」の南進にそっくりそのまま当てはまる。また、「豊見赤星てだなふら」と契りを結んだ「若者」「海の彼方から訪れる神」は、南北朝の乱に敗れ南走してきた武士たちの中の一人であった、と想像をたくましくすることも可能である。


五.秘められた謎

【神部の「モエン様」】

 五島列島若松島の東岸、若松瀬戸の中央部に、「神部」(こうべ)という地区がある。ここの入江は、北・西・南と連なる丘陵が形作る谷間に抱かれ、かつては、西の方と北西の方に左右二股に分れて奥深く切れ込んでいた。

 この神部地区の北側に連なる丘陵地帯の山裾の道を北の方に登りつめると、老松神社(地区の氏神)にたどり着く。この神社の拝殿の奥に、屏風状に岩壁が並列して出来た洞窟があり、山岳信仰に基づく岩屋観音が祭祀されていた。地元ではここを「岩陰遺跡」と呼んでいる(図2)。ここから、賽銭(さいせん)(祥符元宝、煕寧元宝などの北宋銭)や「永正七年(一五一〇)庚午霜月吉辰」と紀年銘や武運長久祈願が刻印された鰐口(図3および下注参照)が出土した。

(注)

外周右廻り 「進奉寄鰐口之事右之意趣者天長地久御領圓満庄内安全故」

   左廻り 「殊者信心檀那壽命長遠子孫繁昌武運長久」

中周右廻り 「家眷旡患中時八節集慶千秋万歳奇和楽者」

   左廻り 「永正七年庚午霜月吉辰之日誌旃」

内周 上部「老」、下部「敬白」、左「御寶前」、右「大明神」

 この「岩陰遺跡」の約五〇メートル下方の丘に、墓地跡があり、五輪塔や宝篋印塔のほかに梵字と「三界萬具寺」の文字が彫られた石塔が残っている(図4)。この「墓地跡」を、この地区の人たちは「モエン様」と呼んでいる。「モエン」は「無縁・むえん」が訛ったものであろう。「無縁仏」となった墓石があるという意味であろうか。

【「モエン様」は「無縁所」】

 言い伝えによると、昔、ここには「老松寺」と呼ばれた寺院があったという。すでに触れたように、この地域の「岩陰遺跡」から鰐口(寺院正面の軒先につるされた銅製の具)が出土し、そこには前述した紀年銘のほかに「老大明神敬白」と祭神の名前が刻まれている。この事実は、寺院としての建物が実際にこの地域に建っていたことを意味する。とすれば、「三界萬具寺」の石塔は、「三界」(前世・現世・来世)のものを「萬」「具」えた「寺」、網野善彦氏の論説にいう「無縁所」(信仰と金融・商品取引の市場)と呼ばれた寺院(『岩波講座 日本通史 第九卷 中世三』)の存在を示す標識であり、そこが当時の重要な金融機関としての役割を果たした「無縁所」であった。この土地の人々は、この「老松寺」を畏敬の念と親しみを込めて「モエン様」と愛称した。

 この地域の「海民」達は、漁労に携わったほか「海運」にも従事し、各地と様々な「海外交易」を行っていたから、その活動資金として、「米」や「銭」を当時の金融機関であった「老松寺」、すなわち「モエン様」から借り受けて調達していたと推察される。

 さて、この「 老松寺」 を勧請したのは誰かが謎であるが、すでに述べた白浜一族の事跡や「岩陰遺跡」から出土した武運長久祈願の鰐口に刻印された紀年銘などから判断して、この時代、壱岐から移住してきた白浜一族、「高麗版大般若経」をもたらした「白浜若狭守源政」の子孫であったと推察される。そして、この一族が南方へ進出し、安南国との間で貿易を行なっていたと考えられる。このことを裏付けるかのように、この若松島の間伏・光石海岸に一族の墓や供養塔があり、さらに、この地域に住み着き活動したことを裏付ける事跡の記録(「日ノ島代官日記」)が残されていた。

【白浜一族の事跡・系譜】

 寛永五年(一六二八)、旧若松町(現、新上五島町)間伏郷の神護寺境内に「六角地蔵」(図5)を奉納した「白浜甚右衛門尉」という人物がいる。この人の子孫が後述する「日ノ島代官日記」に記載されている「白浜甚右衛門」であると考えられる。

 また、同町間伏郷の光石海岸に「白浜甚右衛門」が延宝二年(一六七四)に供養した「椿齢妙秋信女」の碑(図6)がある。

 さらに、神護寺過去帳に「義憲院須達正・・・永禄七年(一五六四)二月没 白浜家御先祖」とあり、一八四八年(嘉永元)に白浜一族の人が供養したという記録が残されている。供養された人物(図7)は、おそらく「老松寺」に鰐口を奉納した一族の子孫であろう。

 これらの事跡を含め「白浜一族」に関する系譜をまとめてみると次のようになる。

●十四世紀中頃、志佐氏の代官として「間伏」地区を拠点に活動した白浜一族

●一三八四年、「志佐白浜後家代弘」(「松浦党一揆契諾状」(永徳四年・一三八四)の署名者)

●一四一九〜四三年、「壱岐守護代白浜伯耆守沙弥光秀」(世宗実録に記載のある人物)

●一四二三年、「白浜若狭守源政」(高麗版大般若経を朝鮮の西伯寺からもたらした人物)

●一四七二年、五島に移住した白浜一族(「老松寺」を壱岐から勧請し鰐口を奉納)

●一五六四年、「義憲院須達正・・・」(神護寺過去帳に記載の人物)

●一六〇一年、「白浜顕貴」(安南国瑞国公阮潢の国書に記載の人物)

●一六一八年、「船本顕定」(安南国瑞国公阮潢の国書に記載の人物)

●一六二八年、神護寺境内に「六角地蔵」を奉納した「白浜甚右衛門尉」

●一六七四年、「椿齢妙秋信女」の供養碑施主の「白浜甚右衛門」

●一七四三年頃、「日ノ島代官日記」に記載された「白浜甚右衛門」

●一八四八年、「義憲院」を供養した白浜一族

【入江家過去帳】

 五島藩の日ノ島代官を勤めた入江家に一六〇〇年初頭から四百年の間書き継がれてきた過去帳がある。この過去帳に明和八年(一七七一)四月三日七〇歳で没した「入江弥三右衛門保房」(第六代代官)の事跡(図8)すなわち「境目木図」(図9)(寛保三年・一七四三)を作らせて献上した功績によって滝河原の田地を拝領したこと、が記されている。

 また、この代官が活躍したころの「日ノ島代官日記」の一部が『若松町誌』の資料編に掲載されている。天明二年(一七八二)に書写された吉村半七覚書である。この覚書の中に「弐方領并四ヶ壱山伐木御運上定」という項目がある。この中に次のような記載がある。

「・・・山口太左衛門、白浜甚右衛門、入江弥三右衛門、入江源之丞、宿之浦へ罷出、小値賀役人衆江参会仕、五島平戸之百姓共四分一領弐方領江掛家職仕候儀吟味いたし、相談相極り申候節は、山口太左衛門被申候は兎角弐方領は・・・」

 これは、平戸松浦藩と五島藩の領有地の境界について、五島藩の責任者たちが検分した結果を平戸藩の役人(小値賀役人)に説明しているくだりである。入江弥三右衛門は、この結果に基づいて「境目木図」を作らせ、その功績によって田地を拝領したと考えられる。

 ここで注目すべきは、入江弥三右衛門らとともに検分に加わった「白浜甚右衛門」である。この人物は、壱岐から移住し「老松寺」を勧請した白浜一族の後裔(こうえい)と考えられる。

 さて、白浜一族は、宮古島狩俣部落へ実際に進出したのだろうか。この課題は、これから解明すべき大きな謎であるが、それを開く鍵は、「白浜顕貴」「船本顕定」の事跡の中に隠されていると信ずる。中継拠点なしで安南国との交易は不可能であったからである。


【参考文献】

『近藤正斎全集第一』「外蕃通書第十一冊、十三冊」国書刊行会、一九〇五年、七二〜七三、八五頁

『倭寇史考』呼子丈太郎著、新人物往来社、一九七一年、五八、二五三、三三二〜三三三頁

『県史42 長崎県の歴史』瀬野精一郎・新川登亀男・佐伯弘次・五野井隆史・小宮木代良著、山川出版社、一九九八年、一四八頁

『朱印船時代の日本人』小倉貞男著、中公新書、一九八九年、二二、一七四頁

『影印本 異国日記金地院崇伝外交文書集成』東京美術、一九八九年、一九〇頁

『日本史広辞典』日本史広辞典編集委員会編、山川出版社、一九九七年

『東アジア往還』村井章介著、朝日新聞社、一九九五年、二六七頁

『松浦市史』松浦市史編纂委員会、一九七五年、三〇三〜三〇五頁

『浜木綿 第七十一号』比留木忠治著「ある偶然(その五)紅梅の家白浜家五代の事跡」、五島文化協会、二〇〇一年、三十頁

『都市と宗教中世地誌研究4』中世都市研究会編、新人物往来社、一九九七年、三〇二頁

『郷ノ浦町の文化財』壱岐郷土館、二〇〇二年、四一〜四二頁

『歴史研究 五〇四号』新木涵人著「渡唐船と倭寇の拠点五島・日島」歴研、二〇〇三年、五〇〜五九頁

『中世対外関係史』田中健夫著、東京大学出版会、一九七五年、六八〜六九頁

『倭寇 日本歴史叢書新装版』石原道博著、吉川弘文館、一九九六年、一九八頁

『村が語る沖縄の歴史』国立歴史民俗博物館編、新人物往来社、一九九九年、四三〜四五頁

『琉球諸島における倭寇史跡の研究』稲村賢敷著、吉川弘文館、一九五七年、三五頁

『孤島文化論』谷川健一著、潮出版、一九七二年、六五〜六六頁

『古琉球』伊波普猷著・外間守善校訂、岩波文庫、二〇〇〇年、一五五、三九六頁

『日本の中世 十一』「月報6」外間守善著、中央公論新社、第十一巻付録、二〇〇二年九月発行

『岩波講座 日本通史9卷』網野善彦著「貨幣と資本 五、寺院・僧侶と金融・商業」、岩波書店、一九九四年

『若松町誌』若松町教育委員会編、若松町役場、一九八〇年、三五六頁

初出 『歴史研究』第五一一号、歴研、二〇〇三年十二月号


《関連事跡》

【上比屋御嶽の神歌と双紙】

1.先島諸島の遺跡と倭寇

 本文「琉球・先島諸島の遺跡」の項でみたように、先島諸島には、十四世紀後半から十五世紀末頃にかけて忽然として現れ消滅していった遺跡が至る所にあるという。

 また、稲村賢敷氏の『琉球諸島における倭寇史跡の研究』(以下、稲村倭寇研究書という)によると、宮古島や八重山の先島諸島には、中世期の倭寇の活動と深く関係した史跡が多く残されており、その痕跡は、「御嶽」(うたき)の伝承として、また、代々書き継がれ語り継がれてきた「卜占書双紙」に記された「神名」「神歌」や「祝詞」(のりと)の中に見出されるという。たとえば「東(あがり)なるかに」は「日本国王良懐」を意味するということなどである。中世、村が忽然として現れ忽然として消えていったという八重山や宮古島の島々は、まさに南北朝合一後、反体制的活動を執り続けた「海賊」達の逃竄(とうざん=逃げて人知れぬ所へもぐりこむ)の地だったのである。

2.上比屋山の遺跡と伝説

 稲村賢敷氏は、まず「上比屋山(ういびややま)遺跡」を取り上げて、これらの事跡を検証している(稲村倭寇研究書、五一〜五六頁参照)。

 この遺跡は、宮古島の東南海岸の丘陵の上にある。通称「やまとがふ」(「やまと人の屋敷」=「がふ」は「かふつ」の詰まった言葉で宅地という意味)と呼ばれているところで、言い伝えによると、その昔、ここに「やまと」人が居住していたという。遺跡全体を見わたすと、日本中世期における野武士の山寨(さんざい=とりで)を彷彿(ほうふつ)とさせ、中央高地に城廊があり、これを囲いめぐらすようにして妻子の邸宅や家臣の住居が設けられ、遠見台や船着場があり、山間谿谷の間を縫って立派な道路が通じているという。

 伝説は、上比屋山居住者が「やまと」人であったということだけを伝える。しかし、「これ等の屋敷跡には、現在、御嶽と称する拝所が建てられて、それぞれ其の土地に由緒のある神々を祭っているし、又、双紙と称する祭祀や卜占の時に使用する写本が伝わっていて、これにその神名を記し、部落の人々で或系統の人はこの御嶽を双紙元と称して毎年祭祀を施行している」という。

3.上比屋御嶽の神歌

 「上比屋御嶽」の祭典で歌われる「神歌」は、近隣地域の砂川・友利の諸嶽に祭られている諸神の神名を唱えて、その祭典の趣旨を明らかにし、「双紙」と諸嶽との関係を述べている(稲村倭寇研究書七七〜八五頁参照)。神歌の一部を抜粋すると、たとえば、「天かにば願まい(天かには「なるかに」の対句)/おそす世ば願まい(おそす世は天かにの治世の意味、おそすは襲す・治める意味)/なるかにば願まい(なるかには「あがりなりかに」の事)/(以下略)」などである。

 稲村氏は、この神歌に「双紙」のことが種々と歌われていることは、次の諸点、とくに「大和神」との関係で注目すべきであるという。

(1)「双紙」は、上比屋山諸嶽の祭典と密接な関係にあること。

(2)「神歌」は、「狩俣部落」の祖神(うやがむ)祭の神歌と同じように、部落開基の神がみに祈願を捧げるものであり、それは、祭司(さす)と称する神女達の口を通して現在まで歌い伝えてきたもので、口誦の叙事詩として、また、祝詞(のりと)として、伝承の正確さはむしろ記録に劣らないものがあること。

(3)神歌の中の「大殿」「金殿」「初丸」等の神名は、和名であり、「うまてだ」「あさてだ」「よんなら」「あがりなりかね」等は宮古語であるが大和神であること。

4.上比屋御嶽の双紙

 「双紙」(図一〇)は、「簠簋(ほき)内伝金烏玉兎集」(「金烏玉兎集」と略称)そのものであり、「日月図」(図十一)「天漢図」(図十二)「神殿・神の座」(図十三)の三つから成り立っているという(稲村倭寇研究書、一五一〜一六〇頁/左記注、参照)。

(注)

◎日月図 双紙の一頁に掲示。中央に朱の円を描いて日輪を現し、その上下に半月形に朱を塗って大陰を表示したもの。その他、日・月・天・地・初月・終月などの文字が書かれている。

◎天漢図 中央に天漢と記し、天河、子方七つ星(北斗七星)、午方五つ星(南十字星)などの星座を図示したもの。

◎神殿・神の座 諸嶽に奉祀された神名を書き並べたもの。神名の上に神殿が描かれているので、このように呼ばれている。神名は、「水の神がなし」「子の方母(んま)照すがなし」「午の主がなし」「東(あがり)なりかね百帳主」などで、双紙文字を混用して書かれている。

 稲村氏は、これらを色々と検証したうえで(稲村倭寇研究書、一八〇〜一八四頁、二〇〇〜二〇五頁参照)、上比屋山遺跡に関する研究結果をまとめている。要点を示すと次のようである。

a.上比屋山居住者は日本から渡来した人々であり、彼らが「双紙」を伝来した。

b.上比屋山居住者達の南島渡来の年代は、遺跡・伝説・発掘品・双紙を検証した結果、中世期の室町時代である。

c.上比屋山遺跡は、「倭寇」が大陸に渡る中継地として、また、日本本土の政変を避けるための隠棲(いんせい)地として、ここを生活の場として選び、倭寇の活動や密貿易の根拠地とした。これらについては、遺跡から拾得・発掘される「竜泉焼」の青磁や「南蛮焼」の破片などによって証拠づけることが出来る。

d.上比屋山に「金烏玉兎集」、すなわち、「双紙」が伝来している事実は、征西府麾下(きか)の武士団の亡命者が南島に渡来したことを有力に物語るものである。

e.「金烏玉兎集」は、日本陰陽道の秘書として、安倍晴明の子孫である土御門家に秘蔵されてきたものであるが、中世期の頃に失われて土御門家にはなくなっているという記録が「古事類苑」の「風俗見聞録」に記されている(稲村倭寇研究書、一八二頁)。

それがなぜ南島に伝来したのか。それは、征西将軍懐良親王が九州下向の際、土御門家の陰陽師を随伴し、征西府の活動上大いに裏面の働きをしたが、後征西府の没落に遭って、「金烏玉兎集」がその陰陽師と共に南島に伝来したものであると、推察。

f.「双紙」には、海上生活者としての日常を語る多くの記録とともに「まやまと時の主」という神名があり、「時」(とき)は「卜占」(とき)の意味をもっているから、これは「日本から渡来した卜占師」という意味である(稲村倭寇研究書、八八頁参照)。

最後に、稲村氏は「双紙」が日本から伝来した書であって、「金烏玉兎集」と密接に関係しているという事実、また、「神の座」の中にある「あがりなりかね」(日本国王良懐)という神名の記録は、「双紙」が上比屋山遺跡と征西府を結びつけ、上比屋山居住者達と征西府との深い関係を示す重要な史料であると考えられる、と締めくくっている。