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 瀬戸音信

                                        渡唐船と倭寇の拠点―五島・日ノ島
                                       人・物・情報の交差する島々の物語
                                              上五島の歴史と文化・風土
                                 〔原典:上五島歴史と文化の会発行『五島・若松瀬戸物語』〕
                  
(オンブック発行『甦れ!僻島の事跡と風景』に改訂版掲載)
                     
http://www.onbook.jp/bookd.html?bid=0131 





図2日ノ島神社




図3日ノ島影




図4十一面観音




図5曲古墓群



                 渡唐船と倭寇の拠点―五島・日ノ島―


 あらまし  五島・日ノ島は、中国と結ぶ「海上の道」の最終発進基地。永仁六年、鎌倉浄智寺など北条氏一門の御物(ごぶつ)を積んだ貿易唐船が難破。ここには県指定の石塔群史跡があり、倭寇が拠点としていた。平成十三年、学術調査団が来島。事跡研究の深化がみられる。

 一.渡唐船の最終発進基地


 1 中国大陸と結ぶ海上の道


 古代から中世にかけて、日本各地を基点に中国大陸へ向けて渡航する「海上の道」が開かれていた。その主なものの一つが、鎌倉から太平洋沿いに紀伊半島を巡り、博多あるいは坊ノ津経由で五島列島に到り、ここから東シナ海を一気に横断する航路であった。

 鎌倉幕府第三代将軍源実朝は、中国僧陳和卿(ちんなけい)のすすめで巨大な船を鎌倉「由比浦」に建造したが「船おろし」に失敗、渡宋の夢は船もろとも朽(く)ち果ててしまった(注1)

 実朝が渡宋を企(くわだ)てたのは「前世で長老であった医王山に行ってみようと一念発起」したためとされているが、本当は平清盛が行なった中国貿易を自らの手で実施しようとしたのではなかったか。実朝の夢は、後に北条氏や足利氏によって果たされることになる。

 十二世紀、太平洋沿岸をめぐる「海上の道」は、伊勢や熊野の海上勢力によって開発されたという。紀伊熊野の海上勢力は東海地方で伊勢の勢力と激しく競合しつつ神領を広げ、陸奥国へと進出。事実、奥州藤原氏が平泉内に「今熊野社」を勧請(かんじょう)している(注2)

 源平争乱期、この勢力(湛増・弁慶父子等)は、源義経と結びつき、義経の瀬戸内海での軍事的成功に貢献。下って鎌倉後期、幕府統治に反抗して一斉蜂起し、南北朝内乱期には南朝勢力に加担、中国・四国地方から九州沿海域にまで出没して交戦を繰り返した。

 五島列島「日ノ島」(長崎県南松浦郡若松町日島郷)(図1)には、大宝元年(七〇一)に遠江国周智郡(とうとうみのくにすちぐん)横須賀村(現静岡県小笠郡大須賀町横須賀郷。今も、文武天皇の勅命で大宝元年に熊野神社を勧請したという神社がある)から勧請したという「日ノ島神社」(図2)が鎮座している。この神社は、かつては「横須賀熊野神社」「高松宮」などと呼ばれた。熊野の海上勢力は、ここ日ノ島にまで及んでいた。

 彼らはなぜこのような最果(さいは)ての地にまで勢力を伸ばしていたのか。

 烽火・遣唐使・神社勧請事情

 『肥前国風土記』に「値嘉(ちか=五島列島の古称)の郷(ごう)、郡(こおり)の西南の海の中にある。烽家(とぶひのやけ)は三所あり。」と記されている(注3)

 大宝元年に施行された大宝律令の令義解には烽火の規定があり、ここ日ノ島にも、この規定に従って遠江国周智郡横須賀村から派遣され、住み着いた人達がいた。日ノ島の祇園山の頂上には烽火(のろし)台があったという。江戸時代、ここは「番屋の峠」と呼ばれ、異国船を見張る番所があった。また、大宝二年に遣唐使船が五島列島から直接東シナ海を横断して中国に渡っており、その遣唐使を支援した人達も派遣され居住していたと思われる。これらの人達が郷里から彼等の氏神を勧請して祭ったものであろう。ここ日ノ島は、奈良時代から近世にかけて「光通信」と「海外渡航」の最先端基地だった。

 ●遣唐使船と呼称由来

 言い伝えによると、もともとこの島は「火ノ島」と呼ばれていた。しかし、上記神社を勧請したころから「日ノ島」と呼ぶようになったという。何故そのように島の呼び名を変えたのか。この時期に何か歴史的に重要な事件との関わりがあったからか。そこで、大宝元年に起こった事件を調べてみると、遣唐使の任命があり、その一行が翌年渡唐したとき、中国にはじめて「日本」という国号を用いたという事実があった。

 この大宝遣唐使のなかに「万葉歌人」として有名な山上憶良(おくら)がいた。憶良は使者の役目を果たして帰国の途につくことになったときの宴席で、次のような短歌を詠(よ)んだ。

「去来子等 早日本辺 大伴乃 御津乃浜松 待恋奴良武」(巻一の六三)

(いざ子ども 早く日本へ 大伴の 三津の浜松 待ち恋ぬらむ)

 訓読文では「日本」を「やまと」(大和)と詠み下すのが通例となっている。

 『日本の誕生』(岩波新書)の著者・吉田孝氏は、「それでは憶良がかわいそうだ」として「早く日本へ」と原文通り引用し、「日本」という国号の問題を論じている(注4)

 このときの遣唐使船は、日本と新羅(しらぎ)の関係が悪化したので、従来の航路(壱岐・対馬・朝鮮半島〜中国)をとらず、新しく開発されたいわゆる「南路」を始めて利用した。

 この航路は、博多を出て松浦郡平戸に寄港し、西海岸を五島列島沿いに南下して、直接東シナ海を横断、揚子江付近に上陸するというものであった。

 南下しながら寄泊する五島列島の津々浦々は、外洋航路に不可欠の熟練した船乗り達をはじめ、食料や飲料水などの物資を調達するための重要な港で、「日ノ島」もこれら港のひとつであった。そして、中国からの帰途、東シナ海を北東に遡上(そじょう)して初めて目にする「日本」の島は、五島列島の島々であり、烽火の上がる「火ノ島」であった。

 先に述べたように、この島には古くから遣唐使船を支援する人々、たとえば「日ノ島神社」を遠江国から勧請した人達が移住していた。憶良の短歌の冒頭に出てくる「いざ子ども」(舟子)の中にも、この島から乗り込んでいった人たちが大勢いたに違いない。長い航海の後、やっとの思いでたどり着き帰ってきてはじめて目にする「日本」の島、これが夢にまで見た自分たちの島だ、と感慨一入(ひとしお)であった。そこで、渡唐最大の目的を果たした記念として、自分たちの「火ノ島」に憶良が短歌に詠み込んだ「日本」の「日」を「火」に当てて呼び名を変えた。こうして「日本の島」「日ノ島」(図3)が誕生した。

 ちなみに「火」を「日」と呼び変えた例は、この「日ノ島」のほかに、たとえば、豊後水道の足摺宇和海国立公園にある「日振島」(ひぶりじま:藤原純友の根拠地)がある。これも「火の邑」(火ノフレ)が転訛(てんか)したものだといわれている


 2 日元貿易船


 
唐船難破

 伊勢や熊野の海上勢力によって開発された「海上の道」、鎌倉から太平洋沿岸をめぐり中国大陸へとつながる航路は、称名寺の建立や金沢文庫の創設に尽力し、武蔵国六浦荘を支配していた北条氏一族・金沢氏によって活用された(注6)

 永仁六年(一二九八)、北条氏一門の御物(ごぶつ)や浄智寺などの様々な貿易積載品を満載した唐船が「有福島」付近の宮ノ瀬戸で破損し、「日ノ島」沖で難破した。若松島の榊ノ浦(さかきのうら)を出帆して一里内外、約一時間前後航行した時の出来事である。この時、「日ノ島」周辺の住民や「船党」と呼ばれた家船(えふね)を操る海民たちは、寄船慣行(よりぶねかんこう=難破船はその土地の百姓や領主のものとする古くからの慣わし)に基づいて、「難破船」から「御物」や「積載品」を収得した。幕府は、使者を鎌倉から「日ノ島」に派遣(はけん)して調査させている(注7)。この調査報告を受けた鎮西探題(ちんぜいたんだい)・金沢実政(かねざわさねまさ)は「御物を御使い方へ引渡せ」という命令を下すが、なかなか思うようにはいかなかった。これらの事跡が『青方文書』に残されている(注8)。その積載品を書き上げた「注進状案」によると、砂金・円金・細絹・水銀・鎧・太刀・珠・銀剣などが積まれていた(注9)

 この貿易唐船遭難の事跡は、「日ノ島」が中国大陸へ渡る重要な拠点(きょてん)として鎌倉と緊密(きんみつに)に繋(つな)がっていたことを物語る象徴的出来事ということができる。

 唐船発遣

 趙匡胤(ちょうきょういん)が宋を建国し、九七九年に中国統一を果たすと、宋商人や日本人僧侶の日中間往来は、にわかに活発になった。この日宋貿易は、南宋が元(モンゴル)によって滅ぼされた後も、その延長として日元貿易に引き継がれる。さきに挙げた「日ノ島沖難破船」はその一環として捉えられるが、一三〇〇年代に入ると、大寺社がその造営資金獲得のため貿易船を派遣するようになる。いわゆる「寺社造営料唐船」である(注6)

 徳治元年(一三〇六)には、「称名寺造営料唐船」が発遣(はっけん)されており、この唐船帰朝の第一報が鎮西探題の金沢政顕(かねざわまさあき)から、称名寺(しょうみょうじ)のある金沢の地(現、横浜市金沢区)に届けられている。このほかに「新安(朝鮮半島南西部の地名)沈没船」(東福寺再建のための唐船と推定されている)「建長寺造営料唐船」「関東大仏造営料唐船」「造住吉社唐船」「天龍寺造営料唐船」などがある。

 一三六八年(正平二三)、中国大陸から建国を告げる「明」の使節が派遣されるが、彼らは倭寇によって五島付近(日ノ島と推定)で殺害され、目的を果たすことが出来なかった(注10

 明使節は再度来朝し、一三七一年(建徳二・応安四)、征西将軍府は明への使節をはじめて派遣する。これが後に室町幕府の「遣明船」へと繋(つな)がっていく。後述するが、天龍寺の僧「策彦周良」(さくげんしゅうりょう)が遣明使として中国に渡ったその帰途、ここ「日ノ島」に寄泊した(注11)

 ●最終発進基地

 このように、中世期、「日ノ島」は、中国大陸へ渡る「海上の道」の重要な最終発進基地として認識され、それらの船が「日ノ島」湾を含め、若松瀬戸内の「宿ノ浦」やその周辺の浦々に頻繁(ひんぱん)に往来し「白魚千軒」と言われたほどの賑わいをみせた。

 荒川地区の山王山二ノ宮の岩陰遺跡から、北宋時代の「八稜湖州鏡」が出土しており、また、神部(こうべ)地区の岩陰遺跡からは、「祥符元宝」「天聖元宝」「皇宋通宝」「嘉祐元宝」「煕寧元宝」などの北宋銭が出土している。これらの遺物は、交易船が日中間を頻繁に往来していた事実を裏付ける確かな証拠ということが出来る。

 ちなみに、十六世紀中頃、中国で編纂(へんさん)された『籌海図編(ちゅうかいずへん=明末に、倭寇に対処するという目的で地理学者の鄭若曾(ていじゃくそ)によって編纂された書)の五島列島を描いた地図に、「宿ノ浦」の地名が「週記」(スキ→シュク→宿)として記載され、「此港泊船」と注記されている。

 なお「漁生浦」に「御物浦」(ごぶつうら)「御物納屋」(ごぶつなや)という地名があり、これらは「唐船発遣」の事跡と密接な関係があると考えられる。


 3 朝貢貿易船


 
歳遣船と藤原朝臣盛

 高麗王朝が中国の紅巾賊や倭寇の侵入などで疲弊して倒れ、替わって明徳三年(一三九二)に「李氏朝鮮」が興る。紅巾賊の侵入を防ぎ、倭寇の平定に尽力した高麗の武人李成桂が建国した王朝である。李成桂は、仏教を廃止し儒教を国学として導入する。また、倭寇を懐柔するために、中国・明に習って「朝貢貿易」政策を打ち出す。室町幕府もこれに同調して対策を立て、倭寇といわれた海の領主たちの活動を李氏朝鮮との公貿易に転換させるよう働きかける。この政策に呼応して、かつて海賊といわれた「武装海商集団」が競って公貿易に参加する。

 この公貿易が、後に制度化され「歳遣船」と呼ばれるようになる。申叔舟著『海東諸国紀』の歳遣者目録の中に「五島日島太守藤原朝臣盛」の名が載っている。

「己丑年遣使来朝書称五島日島太守藤原朝臣盛以宗貞国請接待居五島源勝管下微者」

と記されている。「己丑(つちのとうし)年」は、文明元年(一四六九)である。

 ここに書かれている「源勝」は、宇久氏十三代当主「勝」である。「勝」は、当主を承統した享徳元年(一四五二)の翌年から永正元年(一五〇四)の間に歳遣船を七十九度にわたって派遣した(12)。康正元年(一四五五)には、十度に及んでいる。また、「勝」は、寛正六年(一四六五)に室町幕府から第十二次遣明船の警固を命ぜられていた。そのためか、「勝」は、翌年の一四六六年から一四六八年までの三年間、歳遣船を派遣していない。遣明船の警固に勢力を割かざるをえなかったからだろうか。この遣明船は、応仁二戊子年(一四六八)に入明を果たし、「戊子入明記」として記録が残されている。

 「藤原盛」が歳遣船を派遣したのは、文明元年だけのようである。このように単発的な派遣だったとすれば、恐らく「勝」となんらかの取引、例えば、遣明船の警固に協力する代償として歳遣船の権利を一部譲与し名目上「勝」の「微者」(臣下)として派遣するという取り決めがなされたのではないか(13)。「藤原盛」に関しては、この歳遣船の事跡以外は不明だが、「藤原盛」が遣明使と会談したとの言い伝えがある。

 荒川地区の「藤原與五郎」氏先祖の墓碑に「文正元戌(一四六六)月日没、荒川浦住人藤原久左衛門」とあり、この頃すでに「藤原姓」を名乗る一族が住んでいた。この一族は「山王権現」祭祀に関係があり、また、朝廷との結びつきが深く、「宇久勝」とは対等の関係にあった一族と考えられる。「藤原盛」はこの一族に繋がる人物であった。

 遣明船と秘仏十一面観音

 室町時代の末期、第十八次遣明船の副使「策彦周良」が、中国からの帰路、この日ノ島に寄港し、三日間滞在した。天文十年(一五四一)六月二十六から二十八日のことであった(11)。その時、ここ日ノ島には、「金烏山円通寺」という嵯峨門派の寺があり、住職からここの本尊は十一面観音菩薩で、三十三年に一度の開帳であると聞いたという。その記録が「策彦周良」の「入明記初渡集」に残されている。ちなみに「策彦周良」は、京都の天龍寺の僧侶で、天文十六年(一五四七)には、第十九次遣明船の正使として、再渡航している。

 現在、日ノ島の金堂崎に、源寿院という寺がある。ここの本尊は阿弥陀如来だが、このほか、木造の十一面観音菩薩(図4)が祀られている。この観音菩薩は、三十三年に一度開帳するという秘仏で、大唐から流れてきたといわれている。この秘仏は、平安時代の作といわれ、眉目秀麗のなかなかの菩薩である。平成九年(一九九七)九月十七日ご開帳を迎え、多くの信者が拝観した。法要の最中、大銀杏から枯葉が降り注ぎ、菩薩の慈悲を一身に浴びている思いがした。このような菩薩が最果ての地「日ノ島」にあること自体が不思議と多くの人がいう。しかし、この島は、歳遣船や遣明船そして古くは遣唐使船の発進基地であったことを考え合わせると、その謎は氷解するのではないだろうか。


 二.倭寇の拠点

 1 石塔群史跡と倭寇

 石塔群史跡

 「日ノ島」の曲崎(砂礫が堆積してできた砂嘴)に、宝篋印塔や五輪塔、さらに様々な形をした自然石製の板碑が林立している。平成五年(一九九三)から平成六年(一九九四)にかけて発掘・復元された中世墓群(図5)である。「曲古墓群」と呼ばれている(14)

 平成十二年(二〇〇〇)二月二十二日、釜崎の岬に峻立する宝篋印塔(正平二十二年十一月二十日の紀年銘が陰刻されている)(図6)を含め、曲崎地区の古墓群一帯が長崎県の史跡文化財に指定された。

これらの多くは、南北朝期の動乱で活躍した武士達の供養塔ではないかと考えられている。それらは、九州本土・熊本地方から、また当時の若狭国、現在の福井県高浜町日引から、遠路はるばる船で運ばれてきたという。石塔造立の目的は、逆修行為(自らの死後の冥福を願い生前あらかじめ善根供養しておく行為)であったと考えられる。

 石塔復元当時、供養の施主や祀られた武士が誰かは謎とされた。中世期、この地方には、松浦党一族の志佐・宇久・青方・白魚の各氏が蟠踞していたから、これら氏族に所縁の武士達が関与したものと推察された。しかし、研究が進むにつれ、新たな事実の発見があり、また、この曲崎地区の石塔群がその多様性と規模・構造において、他所では見られない異質な様相を呈していることなどから、一地方の豪族が単独で支配したのではなく、より上級の権力、たとえば「征西将軍府」が関与した「共同墓地」であった可能性が高いと考えられるようになってきた。このことを裏付ける事実が『高麗史』に記録されている(15)

 倭寇の活動拠点

 観応元年(一三五〇)、朝鮮半島に対する「倭寇」の活動が急激に活発化する。高麗は倭寇の鎮圧を求めて室町幕府に使節を送ってきた。幕府は天授元年(一三七五)に渡来した使節に対して「周佐」という僧侶の私信で回答する。

 『高麗史』には、

「此寇因我西海一路九州乱臣割拠西島、頑然作寇、実非我所為、未敢即許禁約」

(高麗を襲った倭寇は西海一路の九州の南朝方の乱臣たちが「西島」に割拠しておこなっているもので、直ちには禁止することができない)

と、その回答内容の一部が記録されている(巻第百三十三、列伝第四十六、辛禑三年六月乙卯条)。

 九州の南朝方の乱臣たち、すなわち、征西将軍宮を奉戴した菊池氏らの南朝方勢力が「西島」に割拠し活動しているというのである。当時、「西島」は、「日ノ島」「若松島」を含む地域を指す呼び名として用いられ(16)、幕府も同じ認識をもっていたから、「周佐」はこの「西島」を念頭において私信を書いたと考えて間違いない。この事実は、当時の「日ノ島」や「若松島」が征西将軍府(南朝方)水軍の活動拠点であったことを意味する。「曲地区」に石塔群が林立し、釜崎の岬の上に約二メートルを超える宝篋印塔が建っているのも、このことと密接な関係がある。


 2 学術調査団の来島と交流


 平成十三(二〇〇一)年三月十六日、学術調査団(村井章介東京大学教授を代表とする日本学術振興会、科学研究補助金共同研究班)の一行(加藤榮一、五野井隆史、小宮木代良、李領、藤田明良、米谷均、伊藤幸司、橋本雄、伊川健二の各氏)が若松町(南松浦郡若松町)を訪れた。

目的は、基盤研究「八〜十七世紀の東アジア地域における人・物・情報の交流」の中のひとつのテーマ「倭寇ネットワークとキリシタン」を調査するというものであった。

 日ノ島の「曲古墓群」遺跡などを見聞して役場に帰る道すがら、調査団の中の「中世対外関係史」が専門の特別研究員・橋本 雄氏から、「永仁六年の日ノ島沖難破船」(注参照)に関して、「於有□破損巳初」の文字欠落個所(□の個所)に「福」の字を当てるのは妥当か否か(質問A)、「於海俣放洋辰末」の文に関し放洋した起点は海俣島(若松島の古称)のどこか(質問B)、という質問を受けた。


(注)『青方文書』七三号「関東使者義首座注進状案」

「唐船破損間事、

一、唐船四月廿四日於海俣放洋辰末、於有□破損巳初、放洋破損時分一里之内外候歟、以□所即樋嶋地内、仍樋嶋在津人百姓等以船七艘運取御物以下金帛或二度或一度、於海俣悉見知了、

一、嶋々浦々船党等同時相交運取同前、(以下略)」


 筆者は、質問Aに対して、日ノ島に隣接する島が「有福島」だから「福」を当てるのは妥当と答え、質問Bに対しては曖昧に応対した。ところが、当地若松町の「歴史研究会」の会合で、このことが話題になったとき、「有福島」と呼ばれるようになったのは、江戸時代からで、中世期にはそのような地名はなかったという。

 そこで、筆者は、この誤った返答を訂正しておかなければならないと思い、別の推論(「礁」の字を当てるなど)をしたためた手紙を橋本氏へ出した。やがて電子メールで返事が届いた。そこには意外な真実を語る情報が込められていた。

 その内容は、「現物(長崎県立図書館所蔵)を見る限り、字体はあきらかに『福』で、しめすへんの下半分、田の下半分は消えているが、『福』と読むのが妥当と判断している」こと、「このことから有福島という地名が、鎌倉期から存在したことが証明できるのではないか」というものであった。

 後日、長崎県立図書館所蔵の原典影写本でこの点を確認した。最近の刊行本(佐伯弘次著『日本の中世9 モンゴル襲来の衝撃』中央公論新社、二〇〇三年一月、一九六頁)には、該当箇所が「有福島」と記載され(7)、関係者による事跡解読研究の深化が窺がえる。

 筆者は、早速、橋本氏へお礼の返信を出した。その際、次のような内容を付け加えた。

《「於有福破損巳初」の文について、破損を生じたのは「有福」のどの地域かが問題になります。日ノ島と有福島の間の「宮ノ瀬戸」ではないか、とのことでしたが、貴方の想定は妥当と思われます。永仁六年の貿易船の難破の原因が何であったかは、想像するしかありませんが、おそらく干満の潮の流れや風向きの予測を誤ったため、「宮ノ瀬戸」に差し掛かった頃、この地域の複雑に錯綜する強風に煽られて「有福島」側の暗礁に船底をぶつけてしまったのではないでしょうか。なお「放洋した起点は海俣島のどこか」という質問Bに関して、「榊ノ浦」から「宮ノ瀬戸」は、距離や時間的にも「放洋破損時分一里内外」に該当するので、船出の起点を「榊ノ浦」と推定することは可能と考えています。》


 むすび


 近世になると、日ノ島は、以上にみてきたような海外渡航上の要衝としての地位を失ってしまった。船の構造が発達し、ここ日ノ島を中継しなくとも長距離航行が可能になったことが原因の一つと考えられる。このほかに、わが国が江戸時代、鎖国政策をとったことも大きく影響しているのではないかと思われる。

 始めのほうで述べたように、昔、烽火をあげた祇園山の頂は、江戸時代、異国船を見張る番所がおかれ、別の役割を担うことになってしまっていたのである。

 【参考文献】


(注1) 小林秀雄『モオツアルト・無常という事〔実朝〕』、一九六一九二、新潮社

(注2) 大石直正『地域性と交通』、岩波講座日本通史、一九九三一三二〜一三三、岩波書店

(注3) 吉野 裕訳『肥前国風土記』、東洋文庫、一九六九一四五二五七、平凡社

(注4) 吉田 孝『日本の誕生』、一九九七二〜一〇、岩波新書

(注5) 佐藤和夫『海と水軍の日本史(上)』、一九九五一四八、原書房

(注6) 網野善彦『海と列島の中世』、一九九二一四五・一五二、日本エディタースクール出版部

(注7) 佐伯弘次『モンゴル襲来の衝撃』、日本の中世、二〇〇三一九六、中央公論新社

(注8) 瀬野精一郎校訂『青方文書(一)』史料纂集古文書編、一九八六六二〜六七、続群書類従完成会

(注9) 村井章介編著、伊藤喜良、 新井孝重、 海津一朗『南北朝の動乱』、日本の時代史、二〇〇三一〇二二九〜二三二、吉川弘文館

(注10) 今谷 明『十四〜十五世紀の日本―南北朝と室町幕府』、岩波講座日本通史、一九九四四四、岩波書店

(注11) 牧田諦亮『策彦入明記の研究(上)』、一九五五二〇〇、仏教文化研究所

(注12) 『角川日本地名大辞典 42長崎県〔うくじま 宇久島〕』、角川書店

(注13) 田中健夫『中世海外交渉史の研究』、一九五九二〇〇、東京大学出版会

(注14) 安楽 勉、 古門雅高、 大石一久、分部哲秋『曲古墓群―五島列島若松町日島所在の中世墓群―』、若松町文化財調査報告書、一九九六、長崎県若松町教育委員会

(注15) 李 領『倭寇と日麗関係史』、一九九九一六八〜一六九、東京大学出版会

(注16) 中島 功『五島編年史』、国書刊行会


初出 『歴史研究』第五〇四号、歴研、二〇〇三年五月号