HP PF 参照 記事

瀬戸音信

                                        日中往来と五島列島
                                    人・物・情報の交差する島々の物語
                                        上五島の歴史と文化・風土
                                        〔原典:「しまの活性化プラン推進会議」提出資料〕
                  (上五島歴史と文化の会発行『五島・若松瀬戸物語』に改訂版掲載)
                   (オンブック発行『甦れ!僻島の事跡と風景』にも改訂版掲載)
                     http://www.onbook.jp/bookd.html?bid=0131






老松神社




岩陰遺跡





山王宮二ノ宮





八陵湖州鏡



                     日中往来と五島列島

         
                            若松町文化財保護審議会委員  新木涵人

1.はじめに

若松町神部地区の北側の位置に連なる丘陵地帯の山裾の道を北の方に登りつめると、「老松神社」と呼ばれている神社がある。この神社の拝殿の奥に、屏風状に岩壁が並列して自然に出来た洞窟があり、かつて、岩屋観音が祭祀され、いまは「岩陰遺跡」として保存されている。

この遺跡から、賽銭が出土し、その中に1009年に鋳造された「祥符元宝」と1068年に鋳造された「煕寧元宝」という北宋銭が混じっていた。

また、荒川郷「山王宮二の宮」岩窟から報賽鏡が17面出土しており、これらの中に中国からの渡来品とみられる「八稜湖州鏡」(直径15.8cm:平安時代後期頃の渡来と推定)と「一獣一龍鏡」(8.5cm:平安時代後期から鎌倉時代の間に渡来したと推定)の2面があった。

いったい、誰が何の目的でもたらしたかと興味を抱き色々と調べていくと、この地区を含む五島列島が、古代から中世にかけて海外交通・交易の拠点として重要な役割を担っていたという事実が判明した。日本文化の基盤となる文物(知的情報や技術など)は、中国から海を渡ってもたらされたが、五島列島は、それらの文物を導入するための最先端基地であったのである。

古代の例を挙げれば、「磐井の反乱」(『日本書紀』巻第十七「継体天皇」21年<527>の条)として知られている筑紫国造磐井の勢力が、中国との交易のため有明海から「血鹿(ちか:五島列島の古称)」、耽羅(済州島)を経て任那の木浦に入り、ここから中国に渡ったといわれている(安倍龍太郎著『血の日本史』17頁)。また、『日本書紀』巻第二十「敏達天皇」12年(583)の条に、「(百済へ行くために)血鹿に向けて発進した」という記載がある。

ここでは、遣唐使船時代に遡りいわゆる「南路」を経由した時代から遣明船の時代に至るまでの間、日本と中国間の往来で五島列島を経由した事跡をとりあげ、その実態を明らかにする。

2.「南路」経由の往来状況

下表に、各種史料より収集した結果を往来回数と人数にまとめて示した。

     表:時代区分ごとの往来状況

時代

期間(年数)

回・人

年/回,人

備考

遣唐使

702838年(137

24

5.7

発遣8回;帰朝回数を含む

唐後期

839907年( 69

36

1.9

入唐僧、唐商船に便乗して渡唐

呉越期

908978年( 71

18

3.9

日本人の渡航禁止と来航制限

北宋期

9791126年(147

104

1.4

大宰府・博多における住蕃貿易

南宋初期

11271166年( 40

4

10.0

宋朝の銅銭輸出禁止

南宋滅亡迄

11671279年(113

113

1.0

入宋僧往路の人数;殆ど単身

元朝期

12771364年( 88

64

1.4

日・元の商船通交回数

同上

12961370年( 75

222

0.3

入元僧往路の人数;同時複数有り

明朝期

13681557年(190

124

1.5

入明僧往路の人数;同時複数有り


 3.入唐僧・唐商人往来と五島列島

(1)「南路」と入唐僧往来

大宝2(702)年、第8次遣唐使船は、五島列島を中継拠点として東シナ海を一気に横断し中国に渡航した。それ以降、この航路、いわゆる「南路」が利用されるようになった。

18次(804年)の遣唐使船で入唐した最澄や空海もこの「南路」を利用して渡唐しており、その事跡が当地の至る所に伝えられている。その代表的な事跡は、最澄が「日吉山王」を勧請して創祀したといわれている「荒川山王権現」縁起であり、空海が遣唐使帰国の途次参籠して真言密教を説き「西の高野山」といわれるようになった「大宝寺」縁起などである。

遣唐使の発遣は、第19次(838年:常暁・円行・円仁・円載らが乗船:南路)を最後に、894年に中止されるが、その間(839年〜894年)にも、渡唐した僧侶達は大勢いた。

例えば、恵萼(841年入唐)、仁好(841年入唐)、順昌(841年入唐)、恵運(842年入唐)、性海(846入唐)、円珍とその弟子6人(853年入唐)、宗叡(862年入唐)、高岳(たかおか)親王(真如ともいう:862年入唐)、三慧(882年入唐)らである。また、記録から帰国のみ明らかな僧に、賢真(863年帰国)、忠全(863年帰国)、智聰(877年帰国)らがいる。

彼らのうち、入唐八家と呼ばれている、最澄・空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡、の事跡は「入唐記」として伝えられており、また、恵運・真如・宗叡らの伝記については「入唐五家伝」という史料集にも「安祥寺恵運伝」「真如親王入唐略記」(宗叡は真如と同行)として収録されている。

(2)唐商船の来航と五島列島

唐商船の日本への来航は、819(弘仁10)年、出羽国に漂着したのが最初で、これ以降、博多に頻繁にやってくるようになったという(『船−ものと人間の文化史1−』58頁)。アラビア商人に刺激された唐商人が、東南アジアの産物(香料など)や絹・陶磁器など唐の特産品の新たな市場を日本に求めてやって来たのだそうである(同前)。

上述した恵運・真如・宗叡やそのほかの僧侶たちは、これらの唐商人の船を利用していた。記録によると、恵萼は李隣徳の船で帰国、性海は李隣徳の船で入唐、恵運は李処人の船で入唐し張支信の船で帰国、真如・宗叡は張支信の船で入唐、円珍は欽良暉の船で入唐し李延孝の船で帰国、賢真・忠全は張支信の船で帰国、三慧は李達の船で入唐となっている。

上述の僧侶達が利用した唐商船を含め、唐商人たちが博多に来着すると、大宰府は、そのいきさつを逐一朝廷に報告し処置を請わねばならなかった。それらの事跡は、勅撰国史『続日本後紀』『日本三代実録』や『智証大師伝(円珍伝)』『入唐五家伝』などに記録として残されている。主なものを列挙すると次のようである。

◎ 嘉祥2(849)年8月:唐商53人来航。(『続日本後紀』)

◎ 仁寿2(852)年閏8月:唐商欽良暉来航。(『智証大師伝』)

◎ 貞観4(862)年7月23日:大唐商人李延孝等43人来航。(『日本三代実録』)

◎ 貞観7(865)年7月27日:大唐商人李延孝等63人来着。(『日本三代実録』)

◎ 貞観8(866)年10月3日:大唐商人張言等41人来着。(『日本三代実録』)

◎ 貞観16874)年7月18日:大唐商人崔岌等36人、肥前国松浦郡着岸。(『日本三代実録』)

◎ 貞観18876)年8月3日:大唐商人楊清等31人、荒津著岸。(『日本三代実録』)

◎ 元慶元(877)年7月22日:大唐商人崔鐸等63人、管筑前来着。(『日本三代実録』)

◎ 仁和元(885)年1020日:大唐商人、大宰府着。(『日本三代実録』)

◎ 寛平5(893)年7月:唐商周汾ら60人博多に来航。(『入唐五家伝』)

ここで特筆すべきは、唐商人たちのなかには、彼らの船を五島列島で調達していたという事実である。これらの事跡は「安祥寺恵運伝」「真如親王入唐略記」に記載されているという。

恵運の乗った船は、李処人が肥前値賀島(五島列島の古称)の奈留島浦郷で三ヵ月を費やして建造したものであり、また、真如法親王が入唐の際乗った船も、唐人張支信が肥前松浦郡柏島で建造したものであった(『船−ものと人間の文化史1−』71頁)。

これらの記述から、当時、すでに五島列島のこれらの地区には、造船技術を持った中国の技術者、いわゆる船大工が居住していたといえる。

さらに注目されるのは、貞観16年の条に「肥前国松浦郡」と明記されている点である。唐商人が五島列島で船を調達したことや次に述べる事実から判断して、五島列島のいずれかの浦に来着したと考えられる。従って、他のケースも五島列島経由で往来したと推測して間違いない。

(3)「在原行平」の進言

貞観18年3月9日、時の参議大宰府権帥従三位在原行平(平城天皇の皇子・阿保親王の子)は、「肥前国松浦郡の庇羅(平戸)値嘉(五島列島)の両郷を合わせて、更ためて二郡を建て、上近下近と号する値嘉嶋とし、新たに嶋司郡領を置くこと」を進言している(『日本三代実録』371頁)。行平はこの建白書で、「来着する大唐・新羅人や本朝の入唐使らでこの嶋を経由しないものはなく、当国枢轄の地であること」、また、「唐人等は必ず先ずこの嶋に至って、多くの香薬を手に入れ貨物に加えていること」などを、その奏上理由として挙げている(同前)。

行平が、このように五島列島の重要性を認識していたのは、頻繁に大宰府を訪れる唐商人がもたらす情報によったであろうが、とりわけ高岳(真如)親王(行平の叔父)と共に入唐した宗叡が、866年に帰国し、その見聞を行平に伝え、より一層その認識が深まったものと考えられる。

4.唐滅亡後南宋滅亡迄の交易商人の往来

907年、唐は滅亡する。代わって朱全忠が後梁国を建て、五代時代が続き、960年、趙匡胤(ちょうきょういん)が宋を建国。以後、南宋を経て蒙古のフビライによって征服されるまでの約320年間、経済が発展し繁栄を続けた。唐滅亡後、日本に入貢を求めて来たのは呉越国。978年に呉越国が滅び、979年、宋が全国統一を成し遂げると、宋商人の日本への来航が活発になる。日宋間に正式の国交はなかったが貿易は盛んで、入宋僧も多かった。

唐が滅び南宋が蒙古に征服されるに至る期間を時代区分して見ると、次のようになる。

◎ 呉越時代                                  908978     (呉越期)

◎ 北宋全国統一から刀伊入寇までの時代        9791019    (北宋前期)

◎ 刀伊入寇から南宋成立までの時代            10201126   (北宋後期)

◎ 南宋成立から滅亡までの時代                11271279   (南宋期)

以下、この時代区分毎に、その時代の特徴や交易の状況を概観してみよう。

(1)呉越期(908978年)

呉越国は、中国五代の地方政権で、王は銭氏。五代銭弘俶が宋に国を献じて滅亡した。この呉越国は、貿易・仏教が盛んで、日本とも僧や商人の往来があった。

唐滅亡前後に来朝した大陸商人に、景球(903年)・飽置求(919年)らがおり、また、興福寺の僧寛建が、927年に大陸商人の船に便乗して渡航しているが、この時期、日中往来の記録は少ない。

呉越国が入貢を求めて初めて日本にやって来たのは、935年で、蒋承勲が羊3頭を献上した。

936年には、再び蒋承勲は李盈(りよう)らと共に来朝し、二代銭元瓘(げんかん)が天皇以下に信物を贈り、左大臣藤原忠平が返書を出している。蒋承勲は、947958年にも、藤原実頼(左大臣:忠平の長男)・師輔(右大臣:忠平の次男)らと交渉があったようで、実頼・師輔は蒋承勲に託して、呉越王に書や砂金を贈っている。

945年、大宰府は、呉越商人蒋袞(しょうこん)・兪仁秀・張文遇ら百人の来着を報告し、朝廷は彼らを安置するよう指示している。蒋袞は、947年にも来朝し、呉越王の書状と特産物を奉納している。

953年、延暦寺の僧日延は、中国の天台山から天台教籍の書写送付の要請をうけて、呉越商人の船で中国に渡り、957年に帰国しているが、その時、「符天暦」や銭弘俶の造らせた8万4千の宝篋印塔のうち一基を持ち帰っている。

954年、大宰府は、呉越船が「肥前国松浦郡柏島」への来着を報告している(『五島通史』)。

遣唐使廃止後、唐が滅亡し国家レベルでの交渉が絶えたこと、律令にもとづく日本人の渡航禁止と10世紀初めに定められた来航制限があったことなどのため、この時期の呉越国との交易は、朝廷首脳が関与しているものの、国交が結ばれていなかったので、正式な「朝貢貿易」という形で行われているわけではなかった。しかし、朝廷は、返書や砂金を贈るなどそれ相応の応接はしていたようである。

(2)北宋前期(9791019年)

960年、趙匡胤(ちょうきょういん)が宋を建国して、979年に全国統一を果たすと、宋商人や日本人僧侶の日中間往来は、にわかに活発化した。

逸早くやって来たのは、陳仁爽(980年)。次いで、周文徳(9869901016年)、鄭仁徳(986年)、朱仁聰(987988995年)、曾令文(9989991005年)、周世昌(1002年)、仁旺(1009年)、周文裔(1012年)らの来航が記録されている。しかし、「刀伊の入寇」事件(1019年)によって国際環境が悪化すると、しばらくのあいだ日中間往来は跡絶えてしまう。

この時期の宋商船は、福建や浙江(とくに明州の寧波)から大宰府に来着し、鴻臚館で貿易を行なっていた。宋商が来航すると、朝廷は「唐物使」(からもののつかい)を派遣して優先的に貿易を行い、残りを民間の交易に委ねたが、大宰府官人や荘園を通じての私貿易も展開された。

一方、この時期に入宋した僧侶に、「然(ちょうねん)、嘉因(かいん)、寂照(じゃくしょう)らがいる。

983年、東大寺の僧 「然は宋商人陳仁爽の船で宋に渡り皇帝に拝謁している。

986年、「然は、宋商人鄭仁徳の船に便乗し、自ら模刻した釈迦立像を持って帰国した。

988年には、「然の弟子、嘉因らが宋商人鄭仁徳の船で宋に派遣されている。

1003年、天台宗僧寂照が入宋したが、三司使の丁謂(ていい)の要請で蘇州呉門寺にとどまり、帰国することはなかった。

このように、この時期、多くの宋商人達が交易を行ない、また、入宋僧達との交流があったが、そのなかの一人に朱仁總(しゅじんそう)という人物がいる。この人物については、上述したように、987988995年と数度にわたって来航した事実が確認されている。そして、995年には若狭に来着し、この年から西暦1000年まで長期滞在した可能性もあり、この間、日本の役人との間に暴行・代金不払いなどの騒動が起こり、朝廷でも問題とされたが、その一方で源信と出会い、彼の著作『往生要集』を贈られるなど文化的交流も行っていたという。この源信は、寂照に天台教学を教えた師であり、おそらく寂照は、源信の計らいで朱仁總を紹介され、朱仁總の調達した船で中国へ渡ったと考えられる。

なお長期滞在の例として、『東シナ海を囲む中世世界』(網野善彦・石井進編:新人物往来社発行)に、「長和三年(1014)には、宋の医師恵清が博多に在り、大宰府権帥藤原隆家・大納言藤原実資が薬を求めている」(24頁)とあり、この時期、宋人の博多滞在は常態化していたようである。とすると、日中間往来航路の中継拠点・五島列島の津々浦々にも交易を支援する宋人が長期滞在し居住していたということができる。

(3)北宋後期(10201126年)

「刀伊の入寇」事件から7年後、1026年になって、宋商人周文裔・良史や陳文祐の帰国の記事がみえはじめる。1027年4月には、陳文祐が肥前値嘉島・松浦郡柏島を経由して来航し、同年6月には、周文徳が、1016年以来11年ぶりに来航した。この周文徳は、周文裔の父親または兄弟の関係にあり、周良史は、周文裔と日本女性との間に生まれた子供という(岩波講座『日本通史』第6巻、119121頁参照)。

このころから博多には、上述した周文裔などの宋人が多数居住し、いわゆる「住藩(じゅうばん)貿易」と呼ばれる活動が行なわれていた(岩波講座『日本通史』第6巻、121頁;『東シナ海を囲む中世世界』24頁)。

1026年、大宰大弐藤原惟憲(道長の家司)は、宋商周良史と結託し、彼に「大宰府進貢使」という肩書きを与えて、宋政府との「朝貢貿易」から莫大な利益を得ようと画策した事件が起きている(李領著『倭寇と日麗関係史』58頁)。また、1045年、清原守武(筑前の人)は、政府の許可なく入宋し私貿易を行ったとして罪を問われ、1047年に佐渡へ流されたという事件も起きている(『五島通史』ほか)。

これらの事件が意味するところは、この時期、宋との間で「朝貢貿易」というかたちでの貿易はなされていなかったが、実質的には、朝廷が関与し、来航制限を規定(二年以上について一度という来航年紀を規定)するなど、政府による管理貿易が行われていたこと、しかし、宋船来航制限規定にゆるみが出てきて、貿易管理者の立場にある大宰府の首長(権帥や大弐)が職権を乱用し私利を謀る事態が生じてきたということであろう。

ところで、1026年以降、1070年、宋商潘懐清(はんかいせい)が来着して仏像を大宰府に献上するに至る約45年間に、宋商人が「漂着」「来着」した回数を調べてみると、文献史料上分かっているだけでも22回にまで達している。ちなみに、北宋前期(9791019年)の来着は約40年間で18回であった。一見、上記の来航制限年紀規定に準じた回数のようにみられるが、実態は更に多く、この2ないし3倍はあったのではないだろうか。

ここで記録に「来着」と区別して「漂着」と記載されるケースが増えているのが注目される。この使い分けは、来朝の外国人が身分を明らかにする証明書(公憑:こうひょう)を持参していないため、政府が正式に交易を認めたものでないことを表現するために用いられたものであろう。

田中健夫氏は、その著書『中世対外関係史』のなかで「遣唐使の廃止後、日宋の関係は私的関係であるというのが通説であり、一面ではそれが真実なのであるが、形式的にはやはり表文の有無が問題にされていた。このことは、東アジア国際関係の基本形が、なんら変改されることのなかった事実を明らかに示しているといえよう。ちなみに、当時日本人の海外渡航は禁止されていたので入宋の僧たちは渡航にさきだって必ず勅許を得なければならなかったのであるが、その事実もこのような視点から考え直してみる必要があろう」(2324頁)と述べており「来着」と「漂着」の使い分けはこのような事情に基づいてなされたものと理解することができる。

潘懐清は、1072年にも「来着」し、仏像・書籍を献上している。この年、「参天台五台山記」を残した大雲寺僧成尋(じょうじん:関白頼通の護持僧を勤めた)が弟子7人(頼縁・快宗・聖秀・惟観・心賢・善久・長明)を従えて宋商孫忠の船(鋼首:曽聚)に便乗し入宋している。この日記には、3月15日に「肥前国松浦郡壁島」で宋商船に乗船し中国に渡ったことが記されているという(『日本史広辞典』、『中世対外関係史』24頁)。

これ以降、日宋間でその応接の仕方に変化が見られる。神宗に返書や信物が贈られ(10761077年)、また、来着する宋商人孫忠らが、宋皇帝の献物と牒状(国書)を携えてくるようになる(1078年)。

なお、日宋交易の場の中心は、11世紀後半から12世紀初めにかけて、鴻臚館から博多浜に移動しており、このことが、「鴻臚館遺跡」・「博多遺跡群」出土の陶磁器の分析によって推定されるという(岩波講座『日本通史』第6卷、130132頁)。

(4)南宋期(11271279年)

1127年、高宗、南京応天府で即位し、南宋が始まる。

この時期になると、日本人の渡航(1145年、日本商人男女19人が乗り組み、硫黄を積載した船で、温州平陽県に漂着する)も盛んになり、平氏による大宰府の掌握や大輪田泊の修築(1180年、平清盛の事業;この年、宋商船がこの泊に来着)などの積極策によって貿易が活発化したといわれている。しかし、1166年までの南宋初期の40年間の通交回数は、記録上わずかに4回が認められるような状態であった。この時期に打ち出された宋朝の銅銭輸出禁止政策が通交に歯止めをかけたものとみられる。

1133年、周新という宋商人の船が、院領肥前神崎荘に来着し、大宰府の役人が令法にしたがって手続きをとろうとしたところ、同荘預所の平忠盛は、自ら「神崎荘は院の御領だから大宰府の介入は受けない」旨の下文を作り、院宣と称して交易権を主張し、大宰府の役人と争うという事件が起きている(『中世日本の内と外』42頁)。

西海道〜九州全体を統轄する大宰府は、平清盛が最も注目したところであり、弟の頼盛が1166年に大宰大弐になると、より一層、平氏の九州支配は本格化して行き、頼盛は自ら九州に赴いて支配の拠点作りに力を入れ始めた。そして、平氏の九州掌握の最大の狙いは、「日宋貿易」の掌握にあったという(李領著『倭寇と日麗関係史』59頁)。

平氏が滅び鎌倉時代に入ると、北条氏は「日宋貿易」掌握のため九州に進出して貿易統制を図り、民間貿易は益々盛んになった。主な輸出品は砂金・水銀・硫黄・真珠や扇・刀剣などの美術工芸品で、輸入品は陶磁器・漢籍・経典や綾錦などの高級衣料、文具・絵画のほか、南海産の沈香・麝(じゃ)香・などの香料や薬品、蘇芳(すおう)をはじめとする染料などであった。

南宋の中葉以後(11671279年)は、日宋商船の往来はより一層頻繁になった。これらの商船に便乗して入宋を果たした僧侶(殆ど単身)の数は、109人に達している。これらの中に、東大寺再建に尽力した重源、博多聖福寺・鎌倉壽福寺・京都建仁寺を建立し臨済禅の始祖とされる栄西、永平寺を開き曹洞宗の始祖となった道元らがいる。彼らの大部分は、南宋において爛熟した禅宗を伝え、それとともに特色のある宋の新文化をもたらし、文化導入の観点から最も重要な時期であったという(木宮泰彦著『日華文化交流史』334頁、入宋僧一覧表参照)。

5.元朝期(12711368年)

(1)入元僧

木宮泰彦氏は、「元は弘安元年(1278)宋を滅ぼして中国を統一し、やがて我が国との間に弘安の役があった。それ以来数十年間日元両国は互いに戦備を整え、すこぶる険悪な情勢にあったから、当時を回想するものは、誰しもこの間に平和的な通交が行われようとは想像も及ばないであろう。けれどもこの時代の禅僧の語録・詩文集・伝記等を調査すると、随所にこれに関する史料が含まれている。これらを詳しく検討すると、日元間の通交が意外に頻繁であったことに驚かざるをえない。」と、述べている(『日華文化交流史』410頁参照)。

そして、「日元商舶来往一覧表」「入元僧一覧表」を作成して往来状況を分析している。その詳細は省略するが、記録上明らかなもので、商舶通交回数は88年間に64回、入元僧の数はなんと222人に上っている。これは正に驚くべき数といわざるをえない。

また、元代に入ってから中国に赴く日本商船は年々歳々殆ど絶えることがなく、これに伴って日本の僧侶の渡海が年をおって盛んとなり、殊に正安元年(1299)元僧一山一寧が帰化してからはこれに刺激されて入元する僧侶が年と共に増加し、時には同時に数十人が大挙して渡海することもあったという(木宮泰彦著『日華文化交流史』444頁参照)。

(2)幕府の「唐船」発遣

この時期、私的交易商船のほか、幕府の保護の下に、一定の条件を果たすために発遣された公的商船があった。それらを網野善彦著『海と列島の中世』(日本エディタースクール出版部)ほかから抜粋列挙すると以下の通りである。

◎ 五島列島沖「難破船」  1298年(永仁六)、北条氏一門の「御物」、関東の人々の様々な貿易品積載唐船が、海俣島沖で難破。船頭:藤太郎入道忍恵。鎮西探題「北条実政」の御教書(御物を御使方へ引渡せという命令)を伝達する「対馬守某・武藤盛資連署施行状」が「青方高家宛」に下された。⇒引用文献(網野善彦氏、以下同じ):『青方文書』第75号(史料纂集)

◎ 称名寺造営料唐船  1306年(徳治元)、伽藍再造営資金調達のため発遣。勧進上人:俊如坊という律僧。唐船帰朝の第一報が鎮西探題の政顕から、称名寺、金沢の地に報ぜられた事実があり、この事実によって、金沢氏、称名寺が九州から大陸に至る海の道と結びついていたことは明らかであると言ってよい。⇒引用文献:前田元重著「金沢文庫古文書に見える日元交通資料」(『金沢文庫研究』249250合併号)

◎ 延慶二年「唐船」  1309年(延慶二)帰朝の唐船が、「異族」−元が再び襲ってくるとの噂を伝え、鎮西探題・幕府が異国降伏の祈祷をした。

◎ 新安沈没船  1323年(元享三)、東福寺再建の費用を得るなどの目的で、中国元の慶元(現、浙江省寧波)から日本に向かった寺社造営料唐船とみられている。韓国の全羅南道新安郡沖で1976年に発見された沈没船。元代初期の陶磁器・銅銭・紫檀材など莫大な積荷があり、東アジア貿易の一端が知られる。乗組員は、中国人・日本人・朝鮮人の混成とされる。(『日本史広辞典』<新安沈船>の項、参照)

「いや二郎」「とう二郎」「衛門次郎」「勧進聖教仙」「秀忍」「道阿弥」「釣寂庵」(博多の承天寺塔頭)「東福寺公物」「公用」等の文字が書かれた木簡も出てきた。

⇒引用文献:西谷正著「新安海底発見の木簡について」(『九州文化史研究所紀要』30号、1985年);村井章介著「中世における東アジア諸地域との交通」(「日本の社会史」第1卷『列島内外の交通と国家』岩波書店、1987年)

◎ 建長寺造営料唐船  1325年(正中二)、建長寺・勝長寿院の造営料獲得のために幕府が派遣。1326年(嘉暦元)に帰朝。警固を沿岸の御家人に命じた。(『日本史広辞典』<建長寺造営料唐船>の項、参照)

◎ 関東大仏造営料唐船  1330年(元徳二)、鎌倉大仏を木造から金銅像にするための造営料を得るために幕府が発遣。鎌倉名越(なごえ)善光寺長老が大勧進。(『日本史広辞典』<関東大仏造営料唐船>の項、参照)

⇒引用文献:百瀬今朝雄著『金沢文庫研究』274号、1985年:「元徳元年の<中宮御懐妊>」

◎ 造住吉社唐船  1332年(元弘二)頃と推定、33年帰国。摂津国住吉神社造営料獲得のために幕府が発遣。(『日本史広辞典』<住吉神社船>の項、参照)

後醍醐天皇が発遣したという説もある。⇒引用文献:百瀬今朝雄著『金沢文庫研究』274号、1985年:「元徳元年の<中宮御懐妊>」

◎ 天龍寺造営料唐船  1342年(康永元・興国三)派遣の幕府公許の貿易船。足利尊氏が、夢窓疎石(むそうそせき)の提案に従い、後醍醐天皇の冥福を祈るため、天龍寺の造営を発起。夢窓疎石の推挙により足利直義が、有力商人至本(しほん)を鋼司(ごうし)に命じ、至本は、帰国の日に現銭5000貫文を天龍寺造営費として納める請文を提出して出発。幕府は船の警固の責任を負担し、海賊などから貿易船を保護した。(『日本史広辞典』<天龍寺船>の項、参照)

◎ 療病院唐船  1367年(正平二十二)、医師但馬入道道仙が療病院造営料唐船の建造費として、棟別銭十文徴収の許可を幕府に申請。(田中健夫著『中世対外関係史』44頁;石原道博編訳『新訂旧唐書倭国日本伝・宋史日本伝・元史日本伝』岩波文庫、年表末尾、参照)

6.明朝期(13681644年)

(1)明と「征西将軍府」の通交

応安元・正平二十三年(1368)、明は日本に対して建国を告げる使者を派遣している(『皇子たちの南北朝』186頁)。建国初期、明に対する倭寇の活動回数を見ると、1369年八回、1370年三回、1371年三回、1372年三回となっている。

「征西将軍府」(懐良親王)の明への使節派遣は、建徳二年(1371)が最初で、以後、10年間に五度に及んだ(『皇子たちの南北朝』187頁)。

明の使節「祖闡(そせん)」と「克勤(こくごん)」が、大統暦と文綺沙羅を持って来朝したのは応安5年(1372)であった。二人は、五月二十日に明州を発ち、三日で「五島」に至り、更に五日かけて博多に到着したという(『中世対外関係史』56頁)。

懐良親王が、今川了俊に攻められ大宰府から筑後の高良山へ撤退したのは、応安五・文中元年(1372)八月であるから(『皇子たちの南北朝』187頁)、上記明の使節は懐良親王に接する機会はあった。しかし、両使節は、翌応安六年五月頃まで博多に留置され(『中世対外関係史』56頁)、懐良親王との引見は実現していない。

懐良親王が、筑後の高良山に立てこもった以後、『太祖実録』によれば、上述したように、13761379138013811386年と五度の遣使が記録されている。この時期、博多や大宰府はすでに今川了俊の掌中にあった。従って、懐良親王は「高良山・肥後菊池」を拠点に使節派遣を行わざるをえなかったと考えられるが、問題は使節派遣の中継拠点を何処に置いたかという点である。この問題は、「日島」を征西将軍府の直轄領と考えると解決する。

(2)遣明船

この時代の勘合貿易は、幕府自らが経営した第一期(14011410年;義満;六回総船数37艘)と大名船や寺社船が経営した第二期(14321547年;義教→義晴;十一回50艘)に分けられるという(木宮泰彦著『日華文化交流史』533535頁参照)。その根拠は、次の三点。

  1)第一期と第二期との間に条約の相違があること。

第一期は、義満が応永十一年(1404)に明と締結した「永楽条約」(十年一貢、人は二百人、船は二艘)、第二期は、義教が永享四年(1432)対明外交復活の際締結した「宣徳条約」(十年一貢、人は二百人、船は三艘)により通交することになっていた。実際は両条約とも規定通りには実行されなかったという。

  2)通交に対する日明両国の態度に相違があること。

貿易を許容する代わりに自ら海寇を取り締まるという条件の基本は変わっていないが、第一期は、日本側がこの条件をある程度忠実に実行し、明側も相応の対応を示したのに対して、第二期は、日本側は貿易の利益を追求することにのみ熱心で海寇の取り締りには消極的であり、明側も使節派遣に消極的な対応を示した。

  3)勘合船の内容が異なること。

第一期は幕府主体の経営船であったのに対し、第二期はその殆どが大名・寺社船であった。

(3)航路・時期

第一期:兵庫から瀬戸内海を通り博多に寄港し、五島を経て寧波(宋代の明州、元代の慶州)に直航した。兵庫を二・三月あるいは七・八月に出発し、博多から五島を経て東シナ海を横断するのは、おおむね秋の「小汛」(東北季節風)で、十・十一月の頃に北京に着き、ここで越年し、翌年初夏の西南季節風を待って帰航するというものであった。(木宮泰彦著『日華文化交流史』544頁参照)

第二期:初めは第一期と同じく兵庫を起帆地としたが、第三次以降は博多から船を発するようになった。博多から肥前の五島付近に至り、春汛・秋汛(ともに東北季節風)を待って外洋に出て東シナ海を横断して一路寧波に向かうという径路は、第一期と同じであった。ただ、春と秋で東北季節風の風向きがやや異なるため、春は南方の五島奈留浦から、秋は北方の肥前大島小豆浦(今の的湾)から外洋に出たようである。帰航は五月以後西南季節風に変わってから寧波を発したという。なお、西南季節風を当時の航海者は「ませ」といい、時にはこの風が「左まわり」といって辰巳(南東)になることがあり、その場合には朝鮮の耽羅(済州島)を経て帰朝したという(木宮泰彦著『日華文化交流史』576頁参照)。

(4)入明僧ほかの記録にみる「五島」

1453年、「笑雲和尚入明記」(允澎入唐記):享徳2年3月19日条「諸船早発大島、走四十里、日未晩至五島奈留浦」

1468年、「戊子入明記」:応仁2年「床木事、奈留海安寺門前在之、大サ廿一丈アリ」

1485年、「蔭凉軒日録」:文明171224日の条「帰朝した船が肥前奈留浦に停泊」

1539年、「策彦入明記」:天文8年4月2日「奈留明神社で祈祷し明へ向けて出帆」

1541年、「策彦入明記」:天文10年6月2628日「帰朝時、三日間、日ノ島に寄泊」

1547年、「大明譜」:「山口を出航した渡明船が、五島に至り、奈留に滞在」

7.船の構造

斯波義信著「唐船の世界」(『日本通史』月報9、第9卷・2000年5月、4頁より抜粋)

【明州では847年までに造船所が整い、・・・日本・朝鮮に渡る、2550積載トン(DWTdead weight tonnage)、4060人乗りの船を造った。肥前に来た明州商船の指南で、直航型の日本船が造られたのもこの前後である。・・・

1124年刊の『高麗図経』、1973年に泉州より出土の沈船などから、「交通革命」期の唐船の姿が分る。2〜3本のマスト、矩形ですだれ状の布帆・蓆帆、約三対一の長さと幅の船体、楠・杉・松の厚い船板、ヨコに船を補強する十数枚の隔壁板(バークヘッズ)、鉄釘による縫合、尖底部を走る竜骨、桐油による外板の塗装、浅海のための櫓の併設。・・・。長さ30メートル余、幅10メートル余、深さ未詳の泉州沈船は3600石、約200トンである。『高麗図経』が語る2000石の福州商船は110トン、同じく「使船」5000石は275トン、この級の船は500600人を乗せた。南宋では江南デルタの商船が米10002000石を積み(約50100トン)、福建・広東・南海で売り、土産を集めて帰った。そのころ、毎年日本からは100人ほどを乗せる船4050隻が、木材・硫黄などを運んで浙江に来て、銅銭を積み帰っていたし、元の半ばの明州仕出しの船は、銅銭28トン、陶磁3万点を積んで朝鮮半島の木浦(モクポ)沖で沈んだ。】

8.五島列島経由を明証する事跡(まとめ)

この事跡を歴史的・時系列的推移の中で捉えてみようと試みた。そこで明らかになった事は、上述したように、702年の遣唐使船が五島列島を経由するいわゆる「南路」を利用して以来、日中間を往来するほとんどの船がこの「南路」をとっていたという事実である。

五島列島経由を明証している事跡の一例を挙げれば、次のようである。

(1)文献史料

702838年、遣唐使船の「南路」往来回数は、24回。

842年、恵運、李処人が肥前値賀島の奈留島浦郷で建造した船に便乗して入唐。

862年、真如親王、張支信が肥前松浦郡柏島で建造した船に便乗して入唐。

874年、大宰府、大唐商人崔岌等三十六人、肥前国松浦郡岸来着の報告。

954年、大宰府、肥前国松浦郡柏島に呉越船来着の報告。

1027年、陳文祐、肥前値嘉島・松浦郡柏島を経て来着。

1072年、成尋、肥前松浦郡壁島で宋商孫忠の船に便乗して入宋。

1298年、北条氏一門ほかの様々な貿易品積載唐船が、海俣島(現、若松島)沖で難破。

1372年、明の使節・祖闡と克勤、明州を発ち、「五島」に至り、博多に到着。

1453年、「笑雲和尚入明記」:「諸船早発大島、走四十里、日未晩至五島奈留浦」

1468年、「戊子入明記」:「床木事、奈留海安寺門前在之、大サ廿一丈アリ」

1485年、「蔭凉軒日録」:「帰朝した船が肥前奈留浦に停泊」

1539年、「策彦入明記」:「奈留明神社で祈祷し明へ向けて出帆」

1541年、「策彦入明記」:「帰朝時、三日間、日ノ島に寄泊」

1547年、「大明譜」:「山口を出航した渡明船が、五島に至り、奈留に滞在」

(2)出土遺物

◎ 「神部岩陰遺跡」出土の「北宋銭」:

1009年に鋳造された「祥符元宝」と1068年に鋳造された「煕寧元宝」

◎ 「荒川山王宮二の宮」岩窟から出土の「報賽鏡」:

17面出土。これらの中で中国からの渡来品とみられているのは、平安時代後期頃の渡来と推定されている「八稜湖州鏡」(直径15.8cm)と平安時代後期から鎌倉時代の間に渡来したと推定されている「一獣一龍鏡」(8.5cm)の2面である。

(注:【湖州鏡】中国浙江省湖州で宋時代に鋳造された鏡。鏡の背面に「湖州真石家青銅照子」というように、頭に湖州の銘を陽鋳しているところからこの名がついた。形状は円形・六花形・方形・猪目形など。平安後期には日本に盛んに輸入され、経塚を中心に各地から出土している。この鏡式や簡単な花鳥文は和鏡の創始に大きな影響を与えた。『日本史広辞典』)

<参考> 小値賀町「野崎島」北部山中に鎮座の「沖の神島(こうじま)神社」に「八葉形湖州鏡」「中国黒褐釉壺」「青磁大盤」などの大陸系の蔵品があるという(『角川日本地名大辞典 42 長崎県』<こうじまじんじゃ 神島神社>の項参照)。

◎ 「日ノ島曲遺跡」出土の陶磁器:

平成5年(1993)〜平成6年の調査・発掘時、1315世紀に建立されたと推定される五輪塔下から、中国産の白磁(高台付碗)・青磁(香炉破片、龍泉窯系碗底部)・同安窯系V類の碗破片・口禿の白磁\類−1の破片、などが出土(『曲古墓群−五島列島若松町日島所在の中世墓群−』若松町文化財調査報告第1集、1996年、29頁)。

◎ 宇久「山本館」出土の陶磁器:

後の「五島藩」となる宇久氏が、1187年(文治3)頃から居住した「宇久島」の「山本館」跡と目されているところから、中国・朝鮮産の陶磁器を集中して採取。また、宇久町飯良郷の遺跡からも12世紀から14世紀前半の時期のものを中心とする大量の貿易陶磁器が出土したという(『角川日本地名大辞典 42 長崎県』<うくじょう 宇久城>の項参照)。

これらの事実は、とりもなおさず五島列島が中国との交易中継拠点としての役割を担っていたことを如実に物語っている。

9.若松瀬戸海域の状況

(1)宿之浦・白魚千軒のことなど

若松瀬戸海域には、「宿ノ浦」と呼ばれている地区がある。その昔、船で行き交う商人達が停泊する宿があったために、このように呼ばれるようになったのであろう。

この地区の周辺には、いにしえの交易港としての繁栄を今に伝える地名や事跡が残されている。たとえば、横浜・本倉・蔵小島・宇治前・浜着・鎌ヶ倉・島ヶ倉・浜泊・船着・上宿・下宿・神ノ浦・神部などの地名がそれであり、事跡としては、荒川地区の「寺屋敷」「鍛冶屋」「山王権現」「報塞鏡・銭」、白魚地区の「白魚千軒」「千人塚」「板碑・五輪塔・宝篋印塔」「懸仏」などを挙げることができる。また、「屋敷」をめぐる豪族間の紛争の記録も残されている。

「神部」地区の「岩陰遺跡」から、鋳造年代が1009年の「祥符元宝」と1068年の「煕寧元宝」という「宋銭」が出土しており、また、荒川「山王宮」二の宮岩窟から中国の渡来品とみられる「八稜湖州鏡」と「一獣一龍鏡」が出土している。これらの事実は、この時代に、すでに中国との間に交易のあったことを物語っている。

中世期に栄えた港町、広島県の「草戸千軒」遺跡はつとに有名であるが、「何々千軒」という伝承は、日本の至る所にあり、「白魚千軒」もそれらの一つと推定される。

港のできる立地条件として、@ 船の出入りの容易さ、A 風波が避けられる地形、B 内陸とのアクセスの良否、C 深さ、の四つの条件があるといわれている。これらの中で、@とAは、原初的に重要な条件とされ、「入江」「浦」「洲」「河」「瀬戸」などがこの両方を満たす地形とされるが、中でも「瀬戸」に港が立地している場合が多いという。瀬戸は、潮流を利用すれば「船の出し入れが容易」であり、また、両側に陸が迫っているので「風波」の影響が少ないことがその理由となっている。Bの条件は、「島」には当てはまらないが、島に多くの港ができ、都市が出来ている。島は、四方から物が集まり積み替えられて、また、四方に散って行くというように、物資の積み替え・物流の結節点として機能するから、というのがその理由である(『津・泊・宿−中世都市研究3−』新人物往来社、5961頁参照)。

こうしてみていくと、当地の「宿ノ浦」とその周辺地域は、これらの条件を満たしており、この地域が、中世期に「海上交通」の要衝であり「停泊地」であったことは間違いない。

(2)「荒川山王権現」と「日吉神人」

若松地区荒川郷には「山王山」という山がある。この山は、雄嶽ともいい、御嶽ともいわれた。古くから信仰の山として知られ、「山王権現」が祀られている。明治以降は「雄嶽日枝神社」と呼ばれるようになった。遣唐使らは大陸への船旅が大変危険であったので、この神社に平安無事を祈願して出航し、帰路には一際目立つ山王山を目標に航海したという。

この神社に古い棟札が保存されており、それには、「天和三(1683)年霜月  奉再興山王廿一社権現宝殿一宇  大壇越松浦肥前守源鎮信」と記されている。これ以前の棟札が現存していないので、確かな年代は分からないが、この神社は、弘仁十(819)年、「山王権現」という名称が用いられるようになった頃に勧請されたという伝承がある。しかし、勧請した人々がどういう人達であったかということの確証的な伝承はない。

この問題については、網野善彦著『海民と日本社会』<海の領主 安藤氏と十三湊>の次のような記載が一つのヒントを与えてくれる。

〔十二世紀の北陸には比叡山延暦寺、それと結びついた日吉神社の進出が非常に顕著になってきます。北九州、瀬戸内海から淀川、宇治川を経て、琵琶湖に入り、湖を経由して日本海の敦賀、若狭に出る、日本列島を横断する大動脈と言ってもよい河海の道がありますが、この大動脈の至るところに、恐らく金融業者でもあり、廻船人でもあったと推定される日吉神人(じにん)、日吉の神に直属する特権を持った人々が活躍していました。〕(5859頁)

この記載から、荒川郷に鎮座する「雄嶽日枝神社」(山王権現)は、上記引用文中の「日吉神社」と密接に関連していたものと考えられ、従って、当地の「山王権現」を勧請したのは、活動の場を求めて当地にもやってきた、この日吉の神に直属する特権を持った「日吉神人」たちであったと推断することができる。

また、当時の集落を構成していた「在家」というのは、供御人・神人などの非農業民を「在家」(貢租収取単位)として編成したものといわれているから、この観点からみても、「宿ノ浦」・「白魚千軒」を含む地域を拠点として活動していた「在家」の住人達は、「供御人」や上述の「日吉神人」を中心とした人達であったと考えて間違いない。このことは、この地域(荒川・宿ノ浦など)が「二方領」・「三方領」という「分割領有」の対象とされたこととも関連する。

(3)「神人」と「海民」

前掲書<海上交通の要衝 宗像>の記述は、さらに当地の「海民」たちを知る上で参考になる。

〔・・・一つ注意したいことは、神人といわれる神の直属民の集団が小勝浦、大島、吉田、峯、麻町、木下、内殿、許斐、村山田、浪折等々に分布していたことです。こういう神人たちは神事に奉仕しただけではなく、海上交通に関わるさまざまな職能を独自に展開していたに相違ありません。・・・、こういうところに根拠を持っている海人の内で有力な人々が、神人の身分を与えられており、宗像社がそういう海人の活動を組織していたことも明らかです〕という。そして、このような宗像社を押えることは、当時の中国大陸との交易の拠点を押えることにもなったので、当時のより高位の支配者にとって重要な意味を持っていた、という。

また、〔多くの場合、支配者たちは宗像社だけではなく、博多と関りがある大宰府を押え、さらに肥前の宇野御厨―古代末には広域的な海人の根拠地であり、中世に松浦党の根拠地になるとともに、有名な御厨牛の産地の牧でもある宇野御厨を支配する。また有明海に面し、最近の説では、博多と関りを持っている神崎荘などを総合的に押えることが、天皇家、摂関家、あるいは藤原氏の高位の人々、さらに平氏等々の勢力にとって、重要な意味を持っていたと考えられます〕、とも述べている(300301頁)。

さらに、「貿易に携わった人々の問題」として、新安沖沈没船に勧進聖が乗っていたこと、こういう律宗や禅宗の聖・上人といわれていた人々は資金をさまざまな方法による勧進を通じて蓄積し関所を建てて関料を取り棟別銭の賦課を公権力によって認められて勧進をするなどの方法で事業資金を調達したこと、それによって土木工事を行い「唐船」を建造して鋼首や水手を雇用し北条氏を初めとする武家や公家の積荷を積んで大陸に渡る場合が十四世紀になると多くなってきたこと、この「唐船」は筑紫で建造されたという実例があり日本列島でも造られたがその建造技術は中国から入ってきたこと、十四〜十五世紀にかけての貿易・商業はこういう僧侶あるいは僧形の人々によって担われていたということ、などを挙げている(303304頁)。

(4)ドラマを演じた主役は?

上記引用文中の「小勝浦・・・等々」を「元倉・荒川・宿ノ浦・白魚」に、「宗像社」を「日吉大社」に、「律宗や禅宗の聖・上人」を「宿浦東浦屋敷注文案」(青方文書)の「しようねん(浄念)・せんかく・おん(穏)阿ミた仏」に置き換えて読んでみると、それはまさに当地の事跡を解説した叙述そのものということができる。

このように対置してみて明らかなように、当地、中世の「元倉・荒川・宿ノ浦・白魚」は、宗像社の場合と同様に、「日吉大社」が在家の住人たちの活動を組織していた港津都市であった。そして、「海」を舞台に自由闊達なドラマを演じた「海民」たちは、「日吉神人」を中心とした人達であり、また、「荘主とよばれた現地派遣の禅僧、山臥、阿弥号を持つ時宗・浄土宗系の僧形の人、上人」たちであった。

10.むすび−「歴史の謎」解明の「鍵」と「課題」

「神部岩陰遺跡」出土の北宋銭や「荒川山王宮二の宮」出土の湖州鏡の存在に触発されて、日中間往来の事跡を、「南路」を経由した「遣唐使船」の時代から「遣明船」の時代にわたって行き来した僧侶や商人達の動静を中心に調査し、「五島列島」が日中間往来で果たしてきた役割を検証してみようと試みた。その結果、「五島列島」は、時の政府(朝廷・幕府)が中国への渡航発進拠点として殊のほか重視した「最先端基地」であり、多くの僧侶達が日本文化の基盤をなす文物(知的情報や技術など)を中国から導入する際に必ず停泊する「中継拠点」として重要な役割を担ってきたという事実を知ることができた。

さらに、中世の「若松瀬戸海域」について、「宿ノ浦」・「白魚千軒」の謎や「山王権現勧請」の由来を探ってみた結果、様々なことが明らかになった。解明されたこれらの事跡、特に「日吉神人」関係の事跡をさらに地域範囲をひろげて当地の様々な事跡に当てはめて考察してみると、これが「鍵」となって作動し、当地の各地に残されている様々な「埋もれた歴史の謎」が解き明かされ、「忘れ去られた事跡」が鮮明に蘇ってくるように思われる。

列挙すると以下のようである。

◎「神部」や「神ノ浦」に、なぜ「神」の字が付いているのかという謎:

・「神部」や「神ノ浦」地区は、「日吉神人」たちの領地であった。

・「神部」は、彼等が居住したので、はじめは「神人部(べ)」の浦といっていたが、短縮して「神部」と呼ぶようになった。

・「神ノ浦」は、「日吉神人」たちが祀ったと考えられる塩釜神社との関係から「神」が鎮座する「浦」としてこのような呼び名がつけられた。

◎「神部モエン様」の謎:

・中世各地に多く見られた「無縁所」と呼ばれた金融業を営んだ寺社であった。

◎「天源」という呼び名の謎:

・神部「老松神社」奥の「岩陰遺跡」は、北の方角に位置することから、山王神道の北斗七星信仰の霊場とされ、「天」の恵みの発する「源」がここであるという意味で名付けられた。「七頭子宮」の「七頭」も同様の信仰に基づいて名付けられた。

・「荒川山王宮二の宮」は、山王神道の北斗七星信仰の霊場として「老松神社」奥の「岩陰遺跡」と関連していた。古賽銭、鰐口、報賽鏡の分析結果が立証の鍵となろう。

◎「若松」極楽寺の銅造如来立像、「神部」海蔵寺の十一面観音、「日ノ島」円通寺の十一面観音、「宿ノ浦」薬師堂の懸仏、などの搬入由来の謎:

・「海上交通を中心とした交通網の発達を背景とする広域的な商人、金融業者、廻船人、交通業者」たち、「武力を持つ海や山などの交通路の領主」と「海賊」たち、「請負代官」(荘主とよばれた現地派遣の禅僧、山臥、阿弥号を持つ時宗・浄土宗系の僧形の人、上人など)・「刀禰」と呼ばれた人達、が搬入した。

◎「日ノ島曲碕・釜ヶ碕」の「塔」を誰が「日引」から搬入したかの謎ほか:

・「日吉神人」たちが請負搬入した。・「日ノ島曲崎」の墓地は「千人塚」と総称された。

・「日ノ島」は、時の中央政権(朝廷、幕府)が支配した直轄領であった。

以上、列挙した事項は、あくまでも直感的仮説であり、これらは今後の主要課題として、さらに掘り下げて検証していく必要がある。

ともあれ、「日吉神人」の事跡が、上述したように当地の「埋もれた歴史の謎」を解き明かす「鍵」となるということの発見は、思いがけない成果であり、今後の郷土史研究にそれが与える波及効果を考えるとき、その意義は測り知れないほど大きいものがあるといえる。

                               (2000年6月15日 記)

【追記】

蒙古襲来以後、異国警固番役を勤めた五島列島土着の豪族、青方氏・白魚氏・宇久氏らが海外との交易を盛んに行うのも上述したような長い間に培われた下地があったからであり、南北朝期の「倭寇」と呼ばれた海民活動も、その後の「歳遣船」や「遣明船」もその延長線上の社会現象であったということができる。

近年、五島列島は、「忘れ去られた島」となってしまったが、その直接的原因は、近世期に、船の構造や性能が著しく進歩し、航海術も発達して、五島列島を経由しなくとも、直接、平戸や長崎などの目的港に長距離航行が可能となり、その結果、五島列島の中継拠点としての重要性が薄れ、交易に関係していた人々が他の拠点に活動の場を求めて移動していったためではないかと考えられる。江戸時代、この地方は密貿易の拠点となるが、それは別の理由、すなわち「鎖国政策」がその要因として働いていたとみることができる。

現代、蛇頭の船が漂着する様になって再び注目を浴びるようになったが、中世期への逆戻り現象が起っているのではないかと錯覚を覚えるこの頃である。

不法入国について、昔は、大らかだったような気がする。国籍がそれほど厳格に問われない時代があった。このことを最も端的に示しているのが、松浦一族の「御厨直」(みくりやただす)の事跡で、彼は、平戸蘇(そ)船頭とよばれた宋人の後家を後妻としてめとり、一一八四年にその連れ子「連」(つらぬ)に「小値賀島」の権利を譲ったという事実を残している(瀬野精一郎校訂史料纂集古文書編『青方文書』付番十二号)。

この事跡を一つの典型例として採りあげ、村井章介氏は、『中世日本の内と外』(筑摩書房)の「国境をまたぐ地域」という項(五十五〜五十七頁)で、次のように述べている。

「なかでも注目したいのは、この地域で生きる武士たちが結ぶ関係のなかに、日本という枠組を突き破る要素があることです。

第一に是包(これかね)が高麗船を略奪したこと、第二に直が宋人の妻だった女性を後妻としたことです。高麗や中国が日常生活のなかに登場していて、特別なことと意識されている形跡がない。直が権利を譲った連れ子の連はおそらく混血児だったでしょう(直の後妻自身が宋人だった可能性もありますが。)

ふたつの民族の血が混じった人間は、このころの北九州ではめずらしくありません。宗像大社に所蔵される中国渡来の阿弥陀経石の銘文などによると、十三世紀の宗像大宮司家では、氏実(うじざね)が王氏をめとって氏国(うじくに)・氏忠(うじただ)をもうけ、氏忠が張氏をめとって氏重(うじしげ)・氏市(うじいち)・氏貞(うじさだ)をもうける、という具合に、二世代にわたって宋商の家と婚姻関係を結んでいます。

もうひとつ見逃せないのは、ここで争われている弁済使とか地頭職とかの具体的な中身です。じつは小値賀島地頭職なるもののおおう範囲はたいへん広く、現在の小値賀島のほかに、隣接するはるかに大きな中通島(当時の名前は浦部島)もふくんでいます。そんな茫漠とした空間のなかの何についての権利なのでしょうか。

この地域に水田はそうたくさんありません。むしろ漁業、製塩、交易といった活動の利益を対象とする権利だと思われます。だからこそ流動性がはげしく、かわるがわる知行するというような、通常の田地を中心とする地頭職では想像しにくい知行のあり方もありえたのです。

そして住人たちの船をあやつる活動は国の外にまで広がっており、高麗船の略奪という海賊行為もその一環だったと考えられます。こうした動きのなかで、平戸のような場所には宋人の居留地も生れていました。」

平戸を含め五島列島の島々は、以上にみてきたように、海外交易のダイナミックな動きの中で「国境をまたぐ地域」の重要な中継拠点として組み込まれていた。従って、神部地区を含む「若松瀬戸」周縁の津々浦々に、宋人の居留地があったと想像するのも、あながち荒唐無稽なことではないと考えている。

「神部」地区は、冒頭で述べたように、明治時代から昭和三十年代にかけて、イワシの巾着網の基地や巻網の中核的漁港として繁栄したが、これらの事実も、限りなく降り積もる新たな歴史的事象の堆積のなかに、今は昔の物語として埋没していったのである。

【参考文献】

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網野善彦著『海と列島の中世』(日本エディタースクール出版部)

網野善彦著『海民と日本社会』(新人物往来社)

中世都市研究会編『津・泊・宿―中世都市研究三―』(新人物往来社)

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斯波義信著「唐船の世界」(『日本通史』月報九、第九卷・二〇〇〇年五月、岩波書店)

南 茂暁著『皇子たちの南北朝』(中公新書)

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若松町文化財調査報告第一集『曲古墓群―五島列島若松町日島所在の中世墓群―』(一九九六年)

若松町教育委員会編『若松町誌』(若松町役場、昭和五十五年三月一日発行)