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瀬戸音信

                                  元倉の板碑と「七頭子宮」の謎
                                    人・物・情報の交差する島々の物語
                                        上五島の歴史と文化・風土



 



 金毘羅神社


  

 義稙の供養塔


  

若松神社
元倉の板碑と「七頭子宮」の謎

(『辺境の地の神々』より抜粋)

 

一 足利義稙の伝説と「板碑」

 

 『若松町誌』第六章史話 第一節に「本(元)倉の板碑と将軍足利義稙の終末」と題し十八項目にわたって事跡考証が行われている。

 板碑の銘文は「奉為神叟本通也」とあり、これは天文十五年(一五四六)八月二十八日に、志者により建立された一周忌供養塔である。『若松町誌』は、この碑に刻まれた、種子・銘号・細字について、多方面から分析し、これが義稙ゆかりの供養塔と断定している。

 この板碑の主は、安政五年、金毘羅神社に祭られている。「神に鎮めてくれよ」との夢告げに基づくとされる。その際の「神社記」に、次のような記録が残されている。

 

「彼所ヲ往テ相改メ候処旧塚二十斗リ御座候中チ七塚ノ儀顕然タリ其中高八尺斗リノ塚在リ年数幾年ナル哉何国出産ノ人ナルヤ否ヤノ所分明ナラズトイエドモ子孫ノ者是レ在候テ開忌仕候哉天文十五丙ハ右者ト在リ姓名実名ノ儀分明ナリ是ニ因リテ御竃ヲ以テ何ノ神ニ祭リ奉リ哉(以下略)(第二九八頁 上欄)

 

 この板碑に刻まれた細字は、後年追刻したものと『若松町誌』の筆者は考証している。

 ここで注目すべきは、「旧塚二十斗(ばか)リ御座候中チ七塚ノ儀顕然タリ」の部分であり、特に、「チ七塚」が何を意味するのかという点である。前後の文脈から、「チ」は「七塚」にかかるとみられるが、この「チ」が何を指すのか。漢字を当てるとすればそれは何か。この「神社記」を再読して、この部分に「七頭子宮」の謎を解く鍵が隠されていると直観した。

 尚、本倉(元倉またの名は本浦)は、若松瀬戸を隔てて若松島の対岸に位置する中通島の荒川郷域に在り、この地には古祠山王時代から奥之院祭祀の寺屋敷があった。その跡地には今でも、五輪塔や宝篋印塔が残されている。

 

二 茅七塚と足利七頭

 

 「チ」は「茅」(ち、ちがや)が当たる。道教の本山は、中国の「茅山」(ぼうざん)という山の頂上にあり、京都祇園祭の時に配るといわれる「チマキ」(茅巻き)の「チ」は茅山の「茅」が由来という(福永光司著「道教と古代日本」人文書院 第一九一頁)

 チマキ信仰の源流は、病気は悪鬼が持ってくるという中国古来の信仰があり、この悪鬼退治に茅(ちがや)という植物が用いられたことによるとされる。(同前)

 このチガヤの呪術信仰が後に日本に入ってきて、はら(祓)の宗教行事に取り込まれてきたことは間違いない。従って、「チ七塚」は、「茅七塚」を意味する。悪霊を祓い、主上(この場合は板碑の主・義稙)を守るための七塚ということになる。「神社記」の筆者は祠官藤原石見正信とあるから、茅七塚は筆者本人にとっては自明のこと。であるから漢字でなく簡単に「チ」と書いたのであろう(当時の信者も何を意味するかは理解していたものと推察さる)

 では「七塚」の主は誰か。板碑の主が義稙であるなら当然足利七頭(山名・一色・土岐・赤松・京極・上杉・伊勢)ゆかりの者共ということになる。殉死したかは不明。たぶん「茅塚」(ちがやづか)として擬葬したのではないか。

「七頭子宮」の謎が解けると直観したのは以上の連想に基づく推理からである。即ち、この七頭ゆかりの子孫「七頭子」が時節を見計らって、七つ首の伝説を流布し、隠遁生活から姿を変えて表舞台へ台頭してきたのではないか。元将軍を擁立し、いずれは再び上洛して中央政権掌握を夢見ていた一族が、主を亡くし、中央では室町幕府が信長に滅ぼされるに及んで夢破れ、隱棲の地に土着せざるを得なかったのではないか、と推理が動いた。あるいは、秀吉が天正十五年(一五八七)九州平定の際、松浦党とともに足利残党も捜し出されて惨殺されてしまったのかも知れない。いずれにしても「七頭子」は足利ゆかりの者共であったと推理される。

 ところで、なぜ足利ゆかりの者共が僻地五島若松の元倉という地に隱棲できたのか、また、その者達の信仰した神々が何であったか、さらに「七頭子宮」(後の若松神社、ほか)の御祭神が天之御中主神を中心とする「造化三神」であるのか、等々の謎が残されている。これらの点について、以下、『若松町誌』(「町誌」)の記録を中心に推理を進める。

 元倉の寺屋敷は、古祠山王祭祀基地として第二次的に鎌倉時代に起こったと推測されている(「町誌」第三〇〇頁、十一項)。山王権現と天台寺院とは密接な関係があることは知られているから、この地に「神宮寺」があったことは間違いない(同前)

 古祠山王神社は別名雄岳日枝神社といわれ、弘仁五年(八一四)、最澄によって勧請された(「町誌」第二三八頁、八項 雄岳日枝神社参照)。そして鎌倉、室町、江戸初期にかけて制作された「和鏡」十数面が出土している。又、吉野朝正平二年(一三四七)に祭祀基地荒川元倉の田地五俵の寄進があった(「町誌」第三〇六頁)。更に、室町初期応永二十二年(一四一五)十二月三日銘の「鰐口」(ワニグチ)が出土している(同前)

 又、「七ツ山」(七つ首を埋めたことからこのように呼ばれるようになった)のある神部には「老松神社」と呼ばれる神社がある。元は「岩陰遺跡」であったといわれ、次のような事跡考証がなされている。

 

「神部背後の連峰を上天源、下天源と字名し、その麓に、岩屋観音を祀る巨岩洞窟がある。洞窟は、上天源の裾に位置し、その周囲にびょうぶのような岩壁が並列している。この地には、古くから山岳巨岩崇拝のならわしがあり、昔から巨岩を観音とたたえ、住民唯一の信仰の崇神としてまつられてきた。あるとき、洞窟付近が山崩れをおこし、観音の祠(ほこら)や、巨岩の洞窟付近は、自然の造形をとどめないが、その跡地から、永正七年(一五一〇)武運長久祈願と経文らしい文字を彫した宝物の鰐口と、和鏡片、古銭等が出土した。年代は、およそ、室町時代第十代足利義稙将軍の頃(約四八〇年以前)と推定される。かかる時代に、この地方にいかなる集団がたむろしたかは、さだかではないが、戦勝祈願のためと推定される。

     町指定文化財 平成二年七月 若松町教育委員会」

 

 歴史年表によると、「永正八年(一五一一)義稙、細川政賢を山城船岡山に破る。」とある。

 これだけの亊跡から、足利ゆかりの者共と関係があったとすることは早計すぎるが、この地方が古来御厨とされ朝廷への供物を送っていたことを考え併せると、中央との交通は頻繁に行われていたことは間違いない事実であるから、何らかの密接な関係があったことは確かであろう。前記した義稙伝説もこの辺の事情を踏まえての考証と考えられる。

 

三 足利一族の奉じた神々

 

 足利一族の信仰した神々が何であったかを知る手掛かりとして、福永光司著の『道教と古代日本』の次の一節が、まず始めに参考になるだろう。

 

「・・・わが国で一部の戦国大名の間に行われていた南方火徳星君信仰もまた、仏教の星信仰と道教のそれとの習合されたものと見ることができます。たとえば山口県に現存する大内氏や毛利氏の菩提寺ですね。菩提寺ですから基本的には仏教であり、位牌などもちゃんと仏教式のものになっておりますけれども、位牌の両側一メートルから一メートル半ぐらいの高さの木柱を立て、その二本の木柱の表面を平らかに削って黒く塗り、向かって右の木柱の上に金文字で『南方火徳星君云々』と記し、左の木柱の上に供養する祖先の殿様の名前が書かれています。富山県高岡市にある前田家の菩提寺でもこれと同じものを見ましたが、南方火徳星君というのは五行の南方に配当される火の神さまであり、これは生命の蘇り、もしくはあの世での生活の安全を保証するという、そういう天上世界の星を神格化した道教の神さまです。」(第二一四〜二一五頁)

 

 そして、この南方火徳星君の信仰を更に古い形で日本に持ちこんだのは、天武・持統のカップル天皇だという。

 古来日本の支配者層は、大陸から陰陽道、道教、仏教を導入し、その宗教行事を通じて政治基盤の強化を図ってきた。『日本書紀』には、陰陽道の伝来についても多くの事跡が記録されている。例えば、最も古い記録として、継体天皇七年(五一三)七月、百済から五経博士段楊爾(だんようじ)が学者人材として献上されたとある。又、陰陽道は学問・技術より宗教色の強いものとして、呪術的宗教になじみの深い日本人に受け入れられ、崇仏排仏の政治的対立に利用される形で生き残り、崇仏派勝利後、新しい政治体制の権威づけや理論づけに積極的役割を果たすようになる。聖徳太子は仏教の理解者であるとともに、陰陽道の精通者でもあり、冠位十二階、憲法十七条の制定、国史編纂を通して陰陽五行説、讖緯(しんい)説をその政治理念として導入したという(村上修一著『日本陰陽道史話』朝日カルチャーブックス−71 大阪書籍発行 第十四頁「陰陽道の日本伝来と聖徳太子の政治的受容」の節参照)

 

 尚、『日本陰陽道史話』第三頁には、陰陽道の発生とその内容について、次のように述べている。

 

「陰陽道とは、太古に発生した中国の民間信仰でありまして、天体の運行、宇宙の動きと人間社会の移り変わりが互いに併行し、関係し合うものであるとする、いわゆる天人相関の思想に立ち、万事に吉凶を天文の変化から予知し、これによってどう対処してゆくかをきめるもので、そこに宗教哲学的な面と技術的な面の両面がみられます。前者では万物に陰陽の二元的原理を立て、また五行と称する五つの元素的概念を組み合わせてすべての存在、すべての現象を解釈し、その意味を考えるので、これを陰陽五行説といい、後者は天体を観測し、暦を作り、時をはかり、また各種の器具を考案して占いをします。」

 

 この引用部分から明らかなように、陰陽道が、ひいてはこれを加味して起こった道教が政治支配者層に好都合な強力なバックボーンたりうるものであることが分かる。従って、室町時代、将軍家や戦国大名が大いに活用したのは当然であろう。

 

 また、『日本陰陽道史話』第十章「宮廷陰陽道の没落と民間陰陽道の発展」という表題の中の「室町初頭の陰陽師の活動」という節(第二二七頁)に次のような記載がある。

 

「室町時代は幕府が京都にあり、武家が完全に公家を支配する体制にありましたため、宮廷陰陽道も直接、足利将軍に左右され、皇室や公家の経済的逼迫から御用が急激に減って、陰陽道官僚の生活も次第に困窮を加えてきました。・・・」

 

 さらに、同書第二十二頁には、

 

「そもそも日本人は星の信仰が稀薄であるといわれていますが、奈良時代には北辰信仰が都鄙に流行しました。北辰すなわち北極星は中国では天の中枢にあって動かず、他の諸星を統御する貴い星で天下の興亡を司り、あらゆる不祥邪気をしりぞけ、長生を保たせる力があるとする讖緯思想の流れをひき、陰陽道にとり入れられました。仏教では尊勝王とも妙見菩薩としても知られています。」との記載もある。

 

 これらを綜合して推察すると、足利一族は、陰陽道に通じ、道教・北辰信仰に厚かったということができる。因みに、道教とは、黄帝・老子を教祖と仰ぐ多神的宗教であって、無為・自然を旨とする老荘哲学の流れを汲み、これに陰陽五行説や神仙思想を加味して、不老長生の術を求め符呪・祈祷などを行う、と広辞苑にある。

 

【追記】(インターネット検索)2012年6月)

 

☆妙見神社☆ (鳴門市 撫養町林崎字北殿町147) 

 

 旧村社。主祭神は、天御中主神・事代主命。

 室町幕府十代将軍足利義稙が周防の大内氏に身を寄せていたとき妙見信仰の影響を受け、1521年(大永元年)撫養(ムヤ)に移り住んだときの創建という。

(http://www.d1.dion.ne.jp/~ykume/CCP005.html)

 

☆天之御中主神☆(あめのみなかぬしのかみ)

 

 『古事記』に天之御中主神とされ、天地初発のときに高天原に生じた神と記され、天之御中主の名には、天の中心の神とい
う意味がこめられています。天之御中主神について、「訓じて高下、天、阿麻」とあり、一般に「アメノミナカヌシ」と呼ばれますが、本来は「アマノミナカヌシ」といったようです。天之御中主神は天地の発生とともに生じ、その出現のあと、「ムスビ」の力
をあらわす高御産巣日神(タカミムスヒノカミ)、神産巣日神(カンムスヒノカミ)があらわれ、これらの神々はすぐに隠れてしまったので、独神(ひとりがみ)とし、宇宙生成の神であるところから、造化三神とされています。
 この宇宙生成神は『日本書記』の本文には記されず、そこでは葦(あし)の芽のような国常立尊(クニトコタチノミコト)が最初にあらわれ、次に大空にむくむく生じる雲の神、豊斟淳尊(トヨクムノミコト)があらわれたとしているのです。けれども、『日本
記』の第4の一書では天御中主尊(アメノミナカヌシ)が記されています。これによれば、高天原に天常立尊(アメノトコタチノミコト)、次に天狭槌尊(アメノザヅチノミコト)があらわれ、さらに高天原には天御中主尊(アメノミナカヌシノミコト)がいるとし、かならずしも、天御中主が最初に出現した神とは明記されていないのです。

 『先代旧事本紀』の「神代系紀」では天御中主神は語られず、宇宙にはじめて出現した天祖を天譲日天狭霧国禪日国狭霧尊(アマユズルヒアマサギリクニユズルヒノサギリノミコト)とします。その宇宙塵ともいうべき狭霧(さぎり)の中に天上界が出現し、天御中主尊(天常立尊と同体とする)可美葦牙彦舅尊(ウマシアシカビヒコジノミコト)が生まれたとイメージしているのです。
 いずれにしても日本神話には天之御中主神の具体的な活動は記されず、古代にはほとんど信仰の対象にはならなかったようです。しかし中世に仏教や道教の宇宙論が普及してくると、仏教の北極星や北斗七星の功徳を象徴する妙見菩薩(みょうけんぼさつ)や道教の宇宙生成神、天始元尊や天皇大帝などと同一視されてきます。あるいは水こそが宇宙や生命の始原と考えたことから、水天宮の主神ともされるようになっていきます。
(http://vajira.jp/vajira/1/1/)