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瀬戸音信

                          「日ノ島」石塔群考―海に生きた武士達の祈りが聞えてくる―
                       人・物・情報の交差する島々の物語
                         上五島の歴史と文化・風土
                                     〔原典:上五島歴史と文化の会発行『五島・若松瀬戸物語』〕
                   (オンブック発行『甦れ!僻島の事跡と風景』に改訂版掲載)
                      http://www.onbook.jp/bookd.html?bid=0131


 
 


曲崎宝篋印塔


 

五輪板碑



釜崎宝篋印塔


              「日ノ島」石塔群考

              ―海に生きた武士達の祈りが聞えてくる― 

 

はじめに

なぜ今、中世墓に興味を持つのか?

この問に、国立歴史民俗博物館館長を務めた石井 進氏は「墓地とは、その時代、その社会で、生死(しょうじ)した人々の死生観、信仰、宗教はもちろん、社会の姿を見事に写しだす鏡」と答えている(石井 進・萩原三雄編『中世社会と墳墓』名著出版、一八五〜一八六頁)

「日ノ島」石塔群も、このような観点に立って研究することにより、その造立目的や存在理由についての歴史的意義を明らかにすることができる。

ここで取り上げる「石塔群」とは、「日ノ島」曲地区の海に向かって延びる礫丘(れききゅう)部分全域に林立する石塔群(図1、2)。この地域だけで六十七基の石塔が確認されている。

この「石塔群」は、旧若松町文化財保護審議会委員長を務めた近藤 章氏が、独力でおよそ八年の歳月をかけて事前調査した上、関係機関に働きかけて本格的な調査と発掘・復元事業を実現に導き、その並々ならぬ努力が結実して、約六百年の眠りから目覚め蘇(よみがえ)ったものである。それらは、忽然(こつぜん)と礫丘上にその姿を現(あらわ)し、現代に生きる我々に秘められた歴史が何であったかを語りかけ、解明を迫(せま)っている。

本格的な調査整備事業は、長崎県教育庁文化課が中心となって、平成五年(一九九三)度から平成六年度および平成十年度にかけて行われた。調査結果は、旧若松町教育委員会編『若松町文化財調査報告書第一集 曲古墓群―五島列島若松町日島所在の中世墓群―』(以下『曲古墓群調査報告書』という)としてまとめられている。

この「石塔群」は、平成十二年(二〇〇〇)二月二十二日に、釜崎の岬の上に峻立(しゅんりつ)する「宝篋印塔」(図3 ほうきょういんとう=正平廿弐年十一月二十日と紀年銘の入った二メートルを越える石塔)とともに、長崎県史跡文化財に指定された。次のURLアドレスでインターネトから情報を取得できる。http://www.pref.nagasaki.jp/bunkaDB/bunkazai/pdf/00471.pdf

近い将来、国指定の史跡文化財になるものと考えられる。

以下に、その特徴や造立目的・存在理由・「日ノ島」の役割などについて解明を試みる。

 

一.史跡の特徴

1.概要

この史跡について、「長崎県の文化財」(長崎県のホームページ)では、次のように説明している。

〔若松島の北西に位置する日島・曲(まがり)地区の、海に向かって延びる礫丘部分全域にわたって、中世以来の石塔類が約七〇基分林立している。また、曲地区から1q程離れた同じ日島の釜崎地区の丘の上に、紀年銘を刻んだ高さ約2mの大型の宝篋印塔が1基、海を見下ろすように存在し、基礎の左側に正平二十二年(南朝暦・一三六七年)の銘が刻まれている。曲地区の主な石塔や釜崎地区の宝篋印塔は,その石材や高度な彫出技術等から,石造文化が進んだ関西・北陸地方で一三〇〇年代から一四〇〇年代にかけて製作され、日本海ルートで日島へ搬入されたと推測される。現在の一離島に、全国的に見ても大規模な石塔群が集中していることは、当時、日島が重要な貿易拠点であり裕福であったことや活発な海上交易が行われていたことを示し、学術的にも非常に価値が高い。指定面積は一九九〇・一五u。〕

これら石塔の特質について、『曲古墓群調査報告書』ならびに大石一久著『石が語る中世の社会―長崎県の中世・石造美術』(ろうきんブックレット9、一九九九年)を参考に概観すると以下のとおり。

2.石塔の特質

 @種類

五輪塔、宝篋印塔、宝塔が主。これらは、製作地および石材によって、A.「中央形式塔」とB.「地方製作塔」に分類されている。これらのほかに、自然石板碑が多数林立している。

 A石塔の材質・産地

Aの「中央形式塔」に分類される石塔は、「安山岩質凝灰岩」「花崗岩」を用い、高度な彫出技術によって、関西方面(中央)で製作されたものとされている。主な製作地は、一九九六年十月、大石一久氏が福井県高浜町日引であることを突き止められた。

Bに分類される「地方製作塔」は「凝灰岩」「緑泥片岩」を用い主に九州本土(熊本)で製作されたものと推定されている。

 B石塔の分類別基数

      A.「中央形式塔」     宝篋印塔(安山岩質凝灰岩製)

                        曲崎=九基、釜崎=一基

                                            五輪塔 (花崗岩製)

                     曲崎=十三基

       B.「地方製作塔」      宝篋印塔(緑泥片岩製)

                     曲崎=一基

                                               五輪塔(凝灰岩製)

                   曲崎=十三基

                                               宝塔(凝灰岩製)

                                     曲崎=七基

 

二.造立目的

石塔造立目的は、現代では遺骨埋葬(まいそう)・供養のためというのが一般的認識である。しかし、「日ノ島」石塔群の場合は、そのような認識ではその目的を理解することができない。石塔群の多様性とその規模・構造において、異質な様相を呈しているからである。

もう一つの問題は、海洋上での死者は水葬に付され、遺体を墓地まで運んで茶毘(だび)に付すということをしないのが海民の習わしであり、従って、石塔造立の目的は遺骨埋葬のためだけではなかったと認識をあらためなければ理解できない、という点にある。

中世社会においては、遺体(骨)埋葬という目的のほか、納経・戦勝祈願・敵者追善・逆修(ぎゃくしゅ)という目的で石塔が造立されたといわれている(国立歴史民俗博物館助教授 水藤 真(すいとうまこと)著『中世の葬送・墓制―石塔を造立すること―』吉川弘文館、五六〜七一頁参照)

このような観点からすると、「日ノ島」石塔群の場合も、その石塔造立目的は同じ意識・死生観に基づいてなされたと考えられ、そのように認識することによってその実相をより深く理解することができる。

『曲古墓群調査報告書』の中で、石造美術研究家の大石一久氏は「逆修」と陰刻された石塔基礎があるという事実を指摘し、「鹿児島県坊津町の一乗院跡で確認される基礎(日ノ島塔などと同じ安山岩質凝灰岩製、蓮弁式塔)には『逆修』と陰刻されており、逆修行為(自らの死後の冥福などを願うために生前予め善根供養を行うこと)のために建塔していることがわかる」と記している。

このように海を舞台に活躍した武士達は、海上活動を開始するに当って、予め自らの菩提(ぼだい)を供養するための石塔を造立していた。彼らの活動は、死を覚悟しなければ実行できなかったからである。海民達の活動は、いつどこで死ぬか判らない、常に死と背中合わせであり、「板子一枚下は地獄の底」という情況だった。

海外軍事活動の出陣に当って、自らの菩提を自ら弔(とぶら)って石塔を造立し死後に備えるという行為は意味のあることであった。それは、すなわち、戦勝祈願のほか、水藤 真氏が考察しているように「死後の葬送儀礼を簡略にする役割を果たしていた」のである。

ちなみに、中世期、石塔はどのくらいの値段だったか。水藤 真氏の調査(一三四五〜一五〇九年の石塔を対象)によると、葬送費用が五十〜百貫文であるのに対して、石塔代は二〜五貫文であったという(『中世の葬送・墓制―石塔を造立すること―』、一五九〜一七二頁参照)。現在の米一キログラム当たりの価格を五百六十円として換算すると、一貫文(米一石・百升・約百八十キログラム)は、約十万円になるから、二〜五貫文は、約二十万円〜五十万円に相当する額ということになる。当時、米一石を一人当たりの年間消費量とすると、石塔を造立するためには、二人ないし五人を養う分量の米が必要だったようである。

三.存在理由―石塔群が真実を語り始めた

現在、石塔は墓石として菩提寺境内の墓地に建立するのが一般的である。しかし、中世社会では寺院はそう多くは存在しなかったという。

浄土宗の僧侶・竹田聴洲氏は『蓮門精舎旧詞』の記録を分析した結果、全国の非著名寺院のうちの浄土宗の約六〇〇〇ヵ寺の中で、九〇%以上が戦国時代から江戸時代の初めに開創または中興されたという。この分析結果を踏まえて、斎宮歴史博物館主幹兼学芸課長の伊藤久嗣氏は「これが意味するところは、古代から中世前半に全国を、遊行・勧進をしていった聖が、戦国時代の後半から江戸時代にかけて全国津々浦々に定着していった。お寺を構えていった。また、葬式を担当する担当者として定着していった。〈聖の定着化〉という流れがあった。」と述べている(『中世社会と墳墓』五八頁)

寺院を構えることが一般的でなかった中世期に、墓地は一体どのような場所に造られたか。石井 進氏は、都市(人やモノや情報の地域的ネットワークの中心となるところ)の内に墓地がないのが古代都市の本来の姿という(同前、一八四〜一八五頁)

また「共同墓地」について、藤澤典彦氏は「墓地景観の変遷とその背景―石組墓を中心として―」と題する論文(一九九〇年発行『日本史研究』三三〇号所収)で「一般に中世の共同墓地というものは経塚が設定される、その結果、そこが墓地としていわば聖地化される、それによって墓が集まってくる」としている(同前、一四九頁)

いつの時代でもそうだが、特に中世動乱期に生きた武士達には安住の地はなく、明日はいずこの星空の下というような生活を送り、それが武士として当たり前の日常であった。「人間至る所青山あり」という人生観は武士であるがゆえの宿命であった。

石塔を「逆修」として生前に造立するという行為もそうした人生観・宗教観に基づいていた。建立する場所は望めるものならば出身地にしたかったであろうが、それは望んでも果たせるものではなかった。では何処に石塔を建てるか、生きては帰ってこられないという覚悟で軍事活動を開始する最後の地、それが武士達の「青山」だったのである。

石塔の林立する「曲地区」は、上述した歴史的事実から判断すると、正にそういう場所、聖地化された「共同墓地」であったといえる。そして、その多様性や整然と区画された構造からみて、一地方の豪族、たとえば宇久氏(後の五島藩)や青方氏等が単独で支配した墓地ではなく、より上級の権力が関与した「共同墓地」であったということができる。

釜崎の岬の上に日ノ島湾を見渡すように峻立する「宝篋印塔」(正平二十二年十一月二〇日と紀年銘陰刻)は、正にそのことを象徴していると考える。

四.「日ノ島」の役割―征西将軍府水軍の活動拠点

「日ノ島」は、古来、使節船・貿易船が中国へ向けて出帆する最終発進基地であった。

一二九八年(永仁六)、北条氏一門の貿易品「御物」(ごぶつ)を積んだ「唐船」(とうせん)が「海俣島」(現、若松島―榊ノ浦)を出帆して約一時間前後、航行距離にして一里内外の「有福島」付近(宮ノ瀬戸と推定)で破損し、「樋島」(現、日ノ島)沖で難破している(瀬野精一郎校訂 続群書類従完成会発行、史料纂集古文書編『青方文書』七三号参照)

この事跡は、「日ノ島」が「最終発進基地であった」ことを教えてくれる。鎌倉末期から南北朝前期に数多くの「寺社造営料唐船」(称名寺・建長寺・天龍寺などの造営資金調達のために幕府が仕立てた貿易船)が発遣されている。また、南北朝後期になると、征西将軍府と中国・明との間で使節船の往来があった。これらのほとんどが「日ノ島」を最終発進基地としたものと推定される。特に注目すべきことは、征西将軍府が「日ノ島」を海外軍事活動の拠点としていたとみられる事実のあることである。それは次のような事跡を解明することによって得られる。

観応元年(一三五〇)以降、朝鮮半島に対する「倭寇」の活動が急激に活発化し、南北朝後期になると、その活動は益々激しくなる。高麗は倭寇の鎮圧を求めて室町幕府に使節を送ってきたが、幕府は天授元年(一三七五)、来朝した使節・羅興儒に対して、永和二年(一三七六)天龍寺の僧侶「徳叟周佐」(一三二四―一四〇〇、夢窓の法嗣で春屋には弟弟子)の私信で回答する(村井章介『アジアの中の中世日本』(歴史科学叢書、校倉書房、一九八八年、三〇五、三一九頁)。『高麗史』(巻第百三十三、列伝第四十六、辛禑三年六月乙卯条)には、その回答内容の一部がつぎのように記録されている。

「此寇因我西海一路九州乱臣割拠西島、頑然作寇、実非我所為、未敢即許禁約」(傍線筆者)

(高麗を襲った倭寇は西海一路の九州の南朝方の乱臣たちが「西島」に割拠(かっきょ)して行っているもので、我々が行っているのではない、直ちには禁止することを約束できない)

「周佐」の私信に書かれている「西島」がどこを指すかが問題であるが、当時、「西島」は、「日ノ島」「若松島」を含む地域の広い範囲を指す呼び名として用いられており、前述したように、朝廷や幕府において、これらの地域は、使節船・貿易船が中国へ向けて出帆する際の最終発進基地として認識されていたから、「周佐」はこれらの地域が「西島」であるということを十分承知した上で私信を書いた、と考えて間違いない。

このことは、当時の「日ノ島」や「若松島」が征西将軍府水軍の活動拠点であったことを意味する。「曲地区」に石塔群が林立し、釜崎の岬の上に宝篋印塔が立っているのも、このことと深い関係があると考えられる。

そして、中国に向け東シナ海に船出するに当り、使節に任命された武士達が、前述したように「逆修」の目的で石塔を建立していったものと考えられる。

五.石塔群造立武士についての考察

石塔をもたらした武士達がどのような一族か、それは、前節で見たように、「日ノ島」や「若松島」を活動拠点とした「征西将軍府」に属する水軍、すなわち、菊池水軍や名和水軍であった。

名和水軍とその類族がもたらしたのは、前述したAの「中央形式塔」に分類される石塔、すなわち「安山岩質凝灰岩・花崗岩製石塔群」である。その理由は、これらの石塔が高度な彫出技術によって、関西方面(中央)で製作されたものとされており、主な製作地が福井県高浜町日引であることによる。「日引」は若狭内浦湾に面した位置にあり、かつて名和氏の活動範囲内であった。

一方、菊池水軍とその類族がもたらしたのは、前述したBの「地方製作塔」に分類される石塔、すなわち「凝灰岩製石塔群」である。その理由は、これらが主に九州本土(熊本)で製作されたものと推定されているからである。以下、このような推論に至った経緯について考察する。

先ず、九州本土の武士達(菊池・名和氏等)が五島列島をどのように認識していたかを見ておくことにしよう。それは海外交易の拠点、すなわち交易品の流通・保管の場としての役割であった。このことを裏付ける事跡が残されている。

鎌倉後期の嘉元三年(一三〇五)、五島の浦部島(現、中通島)の青方に住む宗次郎という人物の住宅と塩屋二棟が放火され、銭貨やそのほかの財物が奪われるという事件が起きた(『青方文書』一〇五号)。このとき、たまたま「売買のため宗次郎の許に寄宿」していた重教(肥後国宇土庄住人、執権北条師時の「梶取」で富裕な海運業者)も被害にあった(『青方文書』一一四号)

この事件は、五島・青方と肥後・宇土地方との交易の実態を今に伝える史料として貴重なものである。この時代、頻繁に船の行き来があった。「青方」「日ノ島」を含む地域は、「日本と大陸を結ぶ海上の道の最前線」に位置し、商人たちの交易活動の拠点と位置づけられる、と考えられている(藤本頼人「中世前期の梶取と地域間の交流」『日本歴史』(吉川弘文館、二〇〇四年、六七八号、三〇頁)、村井章介「鎌倉時代松浦党の一族結合」鎌倉遺文研究会編『鎌倉時代の社会と文化』(東京出版、一九九九年))

征西将軍府を支えた菊池水軍・名和水軍等は、有明海から五島列島を経由して朝鮮半島や中国に渡る航路を、これら重教のような貿易商やかつての中国渡航僧(例えば、道元、絶海中津ら)の往来の事跡によって、熟知していた(『肥後川尻町史』、『県史43 熊本県の歴史』参照)

なお、名和氏は、この時期、八代を拠点として活動し、征西将軍府を支えていた。名和氏は、鎌倉時代の後期、正規の武士である御家人たちが土地経営に頼って窮乏化していくのに対し、海運など商業経済に通じて富を築き、そして、一族を伯耆一帯に分立させ、長年は有力名主として地域住民の信望を集める存在であった、という(インターネット「武家家伝」参照)

折口信夫氏は、名和氏について、「名和氏記事」に基づき次のように記している。

「(延元三年(一三三八)頃、)故名和長年の弟信濃法眼源盛の補佐によって、義高の養子顕長・顕興以下、親王に供奉して、八代に入る。手勢三百余人と言う。顕長の父義高、建武年中八代庄に地頭職として居った縁によるものである。正平十三年(一三五八)、源盛、八代で亡くなる。此間、伯耆の本貫なる名和氏の上にも、変化が多かった。正平七年(一三五二)の男山合戦には、長年の甥長氏戦死、長重―長生とも―内侍所を護持して賀名生に逃れた。十四年(一三五九)、菊池氏、懐良親王を奉じて、少弐頼尚と筑紫に戦うた。名和顕長・義氏又、長生之に力を協せた。十六年(一三六一)には、名和顕長、武光と共に大宰府を攻め、又大友氏時等を香椎・宗像に討つ。十七年(一三六二)、武光・顕長等、足利氏経、少弐・大友の軍と、筑前長者原に戦ふ。十九年(一三六四)、顕長・顕生・菊池・厚東等の軍、大内義弘を筑前に降伏させる。此後、顕長出家早世して、顕興家を嗣ぎ、義高依頼名和氏宗家の資格なる検非違使伯耆守となり、肥後八代郡麓(フモト)城に居る。(以下略)(『折口信夫全集』第十六巻・民俗学篇2、中央公論社、五五頁)

このように、名和氏は、菊池氏と協同して征西将軍府を奉じ、北朝に対抗したが、もともとは、山陰の若狭湾一帯を活動拠点として台頭してきた武士団であった。従って、福井県高浜町日引から西北九州・五島列島を経由して肥後八代に至る経路は熟知していたと考えて間違いない。

このことを裏付ける研究がある。新城常三著『中世水運史の研究』(塙書房、一九九四年)によると中世の中央と地方の水運について、次のように分析している。

山陰地方から中央へ「年貢鉄」が若狭小浜経由で海上輸送、貢納された(同書二八四頁)

室町時代、小浜着岸の「鉄船」の公事がみられる。南北朝以降、鉄は殆ど商品化し、その小浜入荷も相当の量に達したと看られる(同書二八七頁)

小浜は山陰を越えて遠く九州とくに北西九州などとも浅からぬ関わりを持つに至った(同書二八八頁)。山陰諸国は元来九州とくにその北西部・両筑・肥前・壱岐・対馬などの国々と関係深く、海上交通も相当活発であったろうから、これら九州北西部と京との連絡にこの山陰海路の利用も少なくなかったであろう(同書二八八頁)

名和氏一族は、海運業にも従事していたという事実から、ここに言う「年貢鉄」などの輸送に関わりを持っていたと考えて間違いない。「日引製安山岩質凝灰岩石塔」が彼らによって「日ノ島・曲崎」に搬入されたという所以である。

一方、九州地方から中央へは、「鎮西米」(九州荘園、たとえば人吉荘の年貢物の東大寺における呼称)の搬送や、唐物の輸送が行なわれたという(『中世水運史の研究』三〇二〜三〇九頁)

輸送手段は船で、「これはその後の商品や旅人等の輸送をも規定することとなり、九州・中央間の往還に人々の大半が海路を採っているのは、九州荘園の年貢米船往還の盛行と関連」するという(同書三一二頁)。梶取の輸送業者への発展も、このような状況が反映した結果と分析している(同書三一二〜三一三頁)。先に挙げた肥後宇土庄住人右衛門三郎重教の事跡などはこの典型的な事例のひとつと見られている(同書三二〇頁)

このような状況に鑑みて、菊池水軍がこの海路を利用して「九州本土製凝灰岩製石塔」を「日ノ島・曲崎」へ搬入した、と言うことが出来る。

以下、参考のため、明への使節派遣関連事跡を付記し、「むすび」とする。

【付記1】征西将軍府の初期の明への使節派遣

応安元・正平二三年(一三六八)、明は日本に対して建国を告げる使者を派遣している(『皇子たちの南北朝』一八六頁)。しかし、この使節は、「五島」付近(筆者注=征西将軍府の最前線基地「日島」であったと推定)で倭寇に殺されたという(岩波講座『日本通史』第9卷、四四頁)。明に対する倭寇の活動回数を見ると、一三六九年八回、一三七〇年三回、一三七一年三回、一三七二年三回となっている。

懐良親王の明への使節派遣は、建徳二年(一三七一)が最初で、以後、十年間に五度に及んでいる(『皇子たちの南北朝』一八七頁)

明の使節「祖闡(そせん)」と「克勤(こくごん)」が、大統暦と文綺沙羅を持って来朝したのは、応安五年(一三七二)であった。二人は、五月二十日に明州を発ち、三日で「五島」に至り、更に五日かけて博多に到着した(『中世対外関係史』五六頁)

懐良親王が今川了俊に攻められ大宰府から筑後の高良山へ撤退したのは、応安五・文中元年(一三七二)八月である(『皇子たちの南北朝』一八七頁)。懐良親王が、筑後の高良山に立てこもった以後、『太祖実録』によれば、一三七六・一三七九・一三八〇・一三八一・一三八六年の五度、遣使している。

【付記2】征西将軍府「御在所」の変遷

征西将軍宮・懐良親王(かねよししんのう)は、一三六一年(康安元・正平十六)から一三七二年(応安五・文中元)の約十二年間、大宰府を掌握し、ここを拠点として九州全域の経営と中国および朝鮮への対外活動を行っていた。この時期は、いわば征西将軍府の全盛を極めた絶頂期であった。また、征西将軍府が「日ノ島」を海外軍事活動の拠点としていた。

征西将軍府は、一三七一年十月、まだ大宰府(だざいふ)にあって、「日本国王良懐」という名目で、中国・明へ、はじめての使節を派遣した。ところが、一三七二年八月、今川了俊(いまがわりょうしゅん)の率いる幕府軍勢の進攻によって、征西将軍府は大宰府からの撤退(てったい)を余儀なくされ、御在所を筑後高良山(こうらさん)に移した。以後、次のような変遷をたどる。

一三七三年九月、再び幕府軍勢の進攻を受けて、筑後高良山から一旦本拠地の肥後菊池に退き、翌年、懐良親王は、征西将軍職を良成親王(後征西将軍宮)に移譲した。

一三七五年九月、後征西将軍宮軍勢は勢力を盛り返して、肥前佐賀郡国府にその陣営を置いたが、今川仲秋(いまがわなかあき)ら幕府軍勢による周辺豪族の切り崩し工作を防ぐことができず、約一年半後の一三七七年一月、再び本拠地の肥後菊池に戻り、御在所を染土城(そめつちじょう)に定めた。この間、一三七六年四月に、征西将軍府は二度目の中国・明への使節派遣を行っている。その後、中国・明への使節派遣は、三度目が一三七九年閏五月、四度目が一三八〇年五月に実施された。この時期、御在所は依然として肥後菊池の染土城にあったと思われる。

一三八一年六月、今川了俊の率いる幕府軍勢は、ようやく肥後菊池の本拠地に迫り、御在所の染土城は陥落した。征西将軍府は、やむなく本拠地の菊池より南の肥後宇土郡宇土に撤退し、ここを御在所と定める。この年、一三八一年七月、征西将軍府は、五度目の中国・明への使節派遣を行っている。

一三八三年三月二十七日、懐良親王は筑後矢部で薨去(こうきょ)したとされているが、中国・明への使節派遣は、一三八六年十一月依然として「日本国王良懐」の名目で実施された。

一三九〇年七月、「宇土」に本拠を置いてから約十年続いた征西将軍府も、ついに幕府軍の進攻に抗し切れず、宇土城・河尻城が陥落した。

その後、肥後八代郡八代に退き八丁嶽城を拠点に征西将軍府の維持に努めたが、ここも翌一三九一年九月に陥落(かんらく)し、ついに筑後上妻郡矢部へ御在所を移転、ここで南北朝合体の講和を迎える事態に至る。(『征西将軍懐良親王の生涯』ほか)

【付記3】征西将軍宮の使者として入明した僧侶ほか

・一三七一年(建徳二・応安四)  祖来

・一三七三年(文中二・応安六)  聞渓宣(玄理の中巌円月宛詩文を携えて天授元年帰朝)

・一三七六年(天授二・永和二)  廷用文珪(南禅の大林善育の法嗣)

・一三八二年(弘和二・永徳二)  廷用文珪 再入明

・一三七九年(天授五・康暦元)  劉宗秩(その臣とあり僧侶でない。木宮氏の表に記載無し)

・一三八〇年(天授六・康暦二)  慶有僧(その臣とあり僧侶でない。木宮氏の表に記載無し)

・一三八一年(弘和元・永徳元)  如瑤(同年再入明。胡惟庸(こいよう)事件に関与)

・一三八六年(元中三・至徳三)  宗嗣亮(木宮氏の表に記載無し)

(出典 木宮泰彦著『日華文化交流史』冨山房 第六〇二〜六一四頁、森茂曉著『皇子たちの南北朝』中公新書 一八八〜一八九頁)

【付記4】〔胡惟庸(こいよう)

?〜一三八〇  中国明代の政治家。安徽(あんき)省定遠生れ。

一三七三〜八〇年丞相を勤め、大権を専横。八〇年陳寧らと結んで謀反を企てたとして逮捕・処刑された。連坐して財産を没収、あるいは処刑された者は一万五〇〇〇人に及んだ。これを胡惟庸の獄という。この謀反に加担した林賢は、日本に渡って軍兵援助を要請し、八一年僧如瑤(じょよう)らが入貢の際、日本兵四〇〇余人と火薬・刀剣を伴い帰国した。八六年これが発覚し、明の太祖洪武帝は日本との通交を断絶、海禁政策を強めたという。(『日本史広辞典』より)

【付記5】〔林賢の事件〕

丞相胡惟庸が帝位を奪取しようと計画。日本の援助を受けようとして、寧波衛指揮林賢と結び、偽って賢の罪を奏して日本に流し、賢をして日本の君臣と通じさせた。ついで胡惟庸は賢の職をもとに復することを奏し、使者を派してこれを召し返し、内密に書を日本の王に送って軍兵の援助を要請。林賢はさきに明に帰り、日本国王は僧如瑤に四百余人の兵を授け偽って入貢させ、巨燭を献じさせそのなかに火薬・刀剣をかくしておいた。

如瑤が明に到着した時はすでに胡惟庸は敗退した後で、密計は不発。胡惟庸が誅殺されたのは一三八〇年。これより六年後、一三八六年、林賢・日本国王の関与が発覚、林賢一族は処刑された。(田中健夫著『倭寇』教育社歴史新書 六四頁、他より)

この事件に関して、檀上寛氏(京都女子大学教授)は、「胡惟庸と林賢 日明関係を途絶させた男たち」という表題の下に『中国人物列伝』(恒星出版、二〇〇五年一月十五日初版発行)の中で、〔林賢事件は起こらなかったのである。いや、起こらなかったといえば語弊がある。林賢事件は間違いなく起こった。だが、林賢の日本通謀事件(注 前記入貢事件)は起こらなかったのだ〕とのべて、事件の真相(その虚構性)を分析して上で、〔今なおこの虚構を信じる人がいる。虚構が虚構を呼んで、最後は雲南の日本人僧の悲話まで作られる。胡惟庸の謀反というひとつの虚構(注 皇帝の権力を強化するために、朱元璋が捏造したというのが定説という)が、新たな虚構を生み出したわけだ。時間と空間を超えて、虚構の連鎖は限りなく続く。なるほど、歴史の恐ろしさとは、そんなところにあるのかもしれない〕と結んでいる。

【付記6】〔懐良親王の親書〕

(一三八〇年十二月にもたらされた明・太祖の「日本国王詔諭」に対する返書)

「臣聞く三皇極を立て、五帝宗をゆずると、おもうに中華にして主あり、豈夷狄にして君なからんや。乾坤は浩蕩たり。一主の独権にあらず。宇宙は寛洪たり。諸邦を作りて分守す。蓋し天下はすなわち天下の天下にして一人の天下に非ず。臣は遠弱の倭、偏小の国に居て、城池六十に満たず、封彊三千に足らざるもなお知足の心をなす。陛下は中華の主にして万乗の君たり。城池数千、封彊数百里、なお不足の心あり、常に滅絶の意をおこす。それ天の殺機を発するや星を移し宿を換ゆ。地の殺機を発するや竜蛇陸に走り、人の殺機を発するや天地反覆す。昔尭舜徳あり、四海来賓し、湯武仁をほどこし、八方貢を奉ず。臣聞く、天朝興戦の策ありと、小邦もまた禦敵の図りあり、文を論ずれば孔孟徳の文章あり、武を論ずれば孫呉韜略の兵法あり。また聞く、陛下股肱の将を選び、精鋭の師を起し、来って臣が境を侵さんとすと。水沢の地、山海の州、自ら其の備あり、豈途にひざまずいて之を奉ぜんや。之に順うも未だ必ずしも生きじ。之に逆らうも未だ必ずしも死せじ、貿蘭山前に相逢うていささか以て博戯せん。臣何のおそれんや。もし君勝って臣負けなばしばらく上国の意を満たさんも、もし臣勝って君負けなばかえって小邦の辱めをなさん。古より和を講ずるを上とし、戦をやむるを強となす。生霊の塗炭を去り、黎庶の艱辛をやめよ。まさに使臣を遣わし、敬いて丹陛を叩す。おもうに上国之を図れ。」

(呼子丈太朗著『倭寇史考』新人物往来社、五十六頁より抜粋)

【付記7】〔青方文書〕

(瀬野精一郎校訂 続群書類従完成会発行、史料纂集古文書編『青方文書』より抜粋)

一〇六 峯貞注進状案〔青方覚念(高家)等の放火狼藉の下手人及び損物を注進す〕

「損物 一.塩陸拾石 肥後国宇土庄住人右衛門三郎重教所持物、

                          彼重教者相模守(北条師時)殿御梶取

          嘉元三年(西暦一三〇五)六月日                                                          

一一四 青方覚念陳状案〔峯貞の濫訴は不実なりと陳ず〕

「・・・、同謀訴云、覚念子息八郎(高継)以下之輩、寄来宗次郎住宅、致放火狼藉、令捜取銭貨以下財宝之事者、相模守(北条師時)殿御梶取肥後国宇土庄住人右衛門三郎重教為売買、令寄宿于宗次郎許之間、令見知之、且又守護御代官左近太郎同十一日加検見、所記持狼藉之次第也云々、」

一二一 峯貞申状案〔青方覚念を放火狼藉地頭敵対の重科に行われんことを訴ふ〕

「・・・、所詮、覚念子息八郎(高継)以下の輩、寄来宗次郎住宅、致放火狼藉、令捜取銭貨以下財宝之事者、相模守(北条師時)殿御梶取肥後国宇土庄住人右衛門三郎重教為売買、令寄宿于宗次郎許之間、令見知之、且又守護御代官左近太郎同十一日加検見、所記持狼藉之次第也、・・・

          延慶二(西暦一三〇九)三月日

参考文献

『中世社会と墳墓』石井 進・萩原三雄編、名著出版、一九九三年、一八五〜一八六頁

『曲古墓群調査報告書』=『若松町文化財調査報告書第一集 曲古墓群―五島列島若松町日島所在の中世墓群―』旧若松町教育委員会編、一九九六年

『石が語る中世の社会―長崎県の中世・石造美術』大石一久著、ろうきんブックレット9、一九九九年

『中世の葬送・墓制―石塔を造立すること―』国立歴史民俗博物館助教授 水藤 真著、吉川弘文館、一九九一年、五六〜七一頁

『青方文書』史料纂集古文書編、瀬野精一郎校訂、続群書類従完成会発行、一九八六年、文書番号七三、一〇五、一一四号

『アジアの中の中世日本』村井章介著、歴史科学叢書、校倉書房、一九八八年、三〇五、三一九頁

『高麗史』第3巻、国書刊行会、一九〇九年(巻第百三十三、列伝第四十六、辛禑三年六月乙卯条)

「中世前期の梶取と地域間の交流」藤本頼人著『日本歴史』吉川弘文館、二〇〇四年、六七八号、三〇頁

「鎌倉時代松浦党の一族結合」村井章介著『鎌倉時代の社会と文化』鎌倉遺文研究会編、東京出版、一九九九年

『肥後川尻町史』川尻町役場発行、青潮社、一九八〇年復刊

『県史43 熊本県の歴史』工藤敬一ほか、山川出版社、一九九九年

『折口信夫全集』第十六巻・民俗学篇2、中央公論社、一九八七年、五五頁

『中世水運史の研究』新城常三著、塙書房、一九九四年、二八四、二八七、二八八、三〇二〜三〇九、三一二〜三一三、三二〇頁

岩波講座『日本通史』第9卷、一九九四年、四四頁

『皇子たちの南北朝』森茂曉著、中公新書 、一九九五年、一八七〜一八九頁

『中世対外関係史』田中健夫、東京大学出版会、一九九四年、五六頁

『征西将軍懐良親王の生涯』坂井藤雄著、葦書房、一九八一年

『日華文化交流史』木宮泰彦著、冨山房、第六〇二〜六一四頁

『倭寇』田中健夫著、教育社歴史新書、一九八二年、六四頁

『中国人物列伝』檀上寛・木田知生編、恒星出版、二〇〇五年

『倭寇史考』呼子丈太朗著、新人物往来社、一九七一年、五十六頁