HP PF 参照 記事

瀬戸音信

                                 海外交易の要衝―「宿ノ浦」とその周辺地域
                       人・物・情報の交差する島々の物語
                         上五島の歴史と文化・風土
                                    
〔原典:上五島歴史と文化の会発行『五島・若松瀬戸物語』〕
                   (オンブック発行『甦れ!僻島の事跡と風景』に改訂版掲載)
                      
http://www.onbook.jp/bookd.html?bid=0131

 
 




宿ノ浦(東側) 




宿ノ浦神社




宿ノ浦(西側)


                  海外交易の要衝

               ―「宿ノ浦」とその周辺地域―

                                              目       

 はじめに海上交通と交易

 一.港町の条件を備えた浦  「若松瀬戸地域」の地名・事跡  地理的条件 ●「宋商人」渡来

 二.「若松瀬戸地域」領有の謎  複数豪族達による「在家」分割支配  「在家」の価値とは  中世貨幣経済と豪族の役割  在家の生業

 三.屋敷をめぐる紛争  『青方文書』に残された屋敷紛争の事実  屋敷争奪紛争の真相は?  「松熊丸」の出自  屋敷売買の事実

 四.「歳遣船」と「白魚千軒」のこと  「歳遣船」  「何々千軒」  「二方領境界地図」

 五.「山王権現」  「雄嶽日枝神社」  「日吉神人」  「神人」と「海民」  ドラマを演じた主役は?

 おわりに「日吉神人」の事跡は「埋もれた歴史の謎」を解き明かす鍵

 はじめに―海上交通と交易
 「海」、それは、かつて海に生きた人々「海民」たちにとって、様々なドラマを演じた舞台でした。命が生まれ育つ「海」、それは今でも魚介類を捕獲・採集する舞台であり、満天の星を戴く「海」、それは今でも船による海上交通の重要な舞台です。
 
航空機の発達した現在においてもその役割は変わっていません。中東産出の原油や南海諸島産出の液化天然ガスなどが大型タンカーによってはるばる海を渡り運ばれて来ます。海を隔てた地域へ大量の物資を輸送するには船輸送が最も適した手段だからです。
 当地「五島列島」のように、空港に適した平地が少なく海に囲まれた離島では、船輸送が最も有効な方法として今もなお命脈を保ち続けています。博多〜福江を結ぶ「太古丸」をはじめ、佐世保〜立串〜有川の間や福江〜奈良尾〜長崎の間を結ぶ各種フェリーが定期的に運行され、生活必需品や養殖ハマチの飼料など、諸物資が運ばれています。また、船による行商も日常的に行われ、島原・天草方面から野菜・果物を満載して商人達が遠路はるばるやって来ます。このような行商の大規模なものとしては、近世後期から明治前期まで続けられた「北前船」(きたまえぶね―注一)がつとに有名です。
 注一)「北前船」は、おもに日本海航路で活動した買積廻船(ばいせきかいせん)集団のことで、これは、近世前期に松前場所に進出した近江商人に雇われ松前と越前敦賀を結ぶ航路を往復した運賃積の荷所船(にどこぶね)に替って、宝暦(ほうりゃく)〜天明(てんめい)期(1751〜1789年)に荷所船から独立した買積廻船主が越前・加賀・佐渡などに出現し、彼等が大阪と松前を直接結ぶ取引を始めたもの。この「北前船」は、松前・日本海・瀬戸内・上方の地域市場を結び、その間の商品価格差で利益を得たが、このような「買積形態」は領主的流通を崩しながら全国を結びつけ、近代国民市場の形成をうながした。(日本史広辞典)
 
一方、海外との交易は、平安末期、平清盛が福原(現、神戸市兵庫区)に都をおいて大輪田泊(おおわだのとまり―注二)を修築し宋船を曳き入れたように、この時代からすでに開かれていた海上交通によってアジア・中国大陸と密接に結びついていました。長洲御厨(ながすのみくりや―注三)と呼ばれていた地域の発掘現場(大物浜とその近くの海辺)から、平安末期から中世にかけての中国製青白磁や焼物が多量に出土した事実がそれを裏付けているといいます(網野善彦著『海民と日本社会』新人物往来社、三五五頁)

(注二)「大輪田泊」は、現在、神戸市兵庫区の神戸港付近にあったといわれる摂津国の港津。風や潮流の影響をあまり受けないため、古くから停泊地として利用され、瀬戸内海航路の要地であった。平清盛が防波堤として経(きょう)の島を築造したという。(日本史広辞典)

(注三)「長洲御厨」は摂津国川辺郡にあった御厨で、荘域は兵庫県尼崎市の一部が該当する。もとは東大寺領猪名荘の一部だったが、十世紀に独立し長洲荘となったという。住民は東大寺に在家地子を納める一方、十一世紀末には下鴨社の供菜人(ぐさいにん)となり、この頃から長洲御厨と呼ばれた。人と土地に対する分離した支配の例として著名。(日本史広辞典)
 海上交通の発展にともなって「宿ノ浦」を含む「若松瀬戸地域」が果たした役割が何であったか、ここでは、当地「若松瀬戸地域」に残された様々な事跡に光を当ててそれを検証し、さらに、それらの事跡にまつわる謎を解明して見ることにします。

一.港町の条件を備えた浦

「若松瀬戸地域」の地名・事跡

当地には、「宿ノ浦」と呼ばれている地区があります。その昔、船で行き交う商人達が寄泊する宿があったために、このように呼ばれるようになったのでしょう。今は、波穏やかな湾内で真珠やハマチの養殖が行なわれており、いにしえの「宿場」の面影を見ることはできません。しかし、この地区の周辺には、交易港としての繁栄を今に伝える地名や事跡が数多く残されています。たとえば、横浜・元倉・蔵小島・宇治前・浜着・鎌ヶ倉・島ヶ倉・浜泊・船着・船隠・上宿・下宿・神ノ浦・神部などの地名がそれです。

事跡としては、荒川地区の「寺屋敷」「大工」「紺屋」「鍛冶屋」「鋳物師」「山王権現」「報塞鏡・銭」、白魚地区の「白魚千軒」「千人塚」「板碑・五輪塔・宝篋印塔」「懸仏」などを挙げることができます。また、『青方文書』(長崎県新上五島町青方郷の青方氏に伝来した文書。建久七年七月十二日付の「源頼朝家政所下文案」を最古とする約五〇〇通の中世文書群)には、「宿ノ浦」の「屋敷」をめぐる豪族間の紛争の記録も残されています。

中世期に栄えた港町、広島県の「草戸千軒」遺跡はつとに有名ですが、「何々千軒」という伝承は、日本の至る所にあり、「白魚千軒」もそれらの一つと推定されます。

「神部」地区の「岩陰遺跡」からは、「祥符元宝」(西暦一〇〇九年―鋳造年、以下同じ)「天聖元宝」(西暦一〇二三年)「皇宋通宝」(西暦一〇三八年)「嘉祐元宝」(西暦一〇五六年)「煕寧元宝」(西暦一〇六八年)という北宋銭が出土しており、また、荒川「山王宮」二の宮岩窟から中国の舶載品とみられる「八稜湖州鏡」と「一獣一龍鏡」が出土しています。これらの事実は、この時代に、すでに中国との間に交易のあったことを物語っています。

地理的条件

港のできる立地条件として、@ 船の出入りの容易さ、A 風波が避けられる地形、B 内陸とのアクセスの良否、C 深さ、の四つの条件があるといわれています。これらの中で、@とAは、原初的に重要な条件であり、「入江」「浦」「洲」「河」「瀬戸」などがこの両方を満たす地形とされ、中でも「瀬戸」に港が立地している場合が多いといいます。

瀬戸は、潮流を利用すれば「船の出し入れが容易」であり、また、両側に陸が迫っているので「風波」の影響が少ない、ということがその理由です。Bの条件は、「島」には当てはまりませんが、島に多くの港ができ、都市が出来ています。島は、四方から物が集まり積み替えられて、また、四方に散って行くというように、物資の積み替え・物流の結節点として機能するから、といいます(『津・泊・宿−中世都市研究3−』新人物往来社、五九〜六一頁参照)

こうしてみていくと、当地の「宿ノ浦」とその周辺地域は、Bの条件のほかはすべての条件を満たしており、これらの地域が、中世期に「海上交通」の要衝であり「停泊地」であったことは間違いありません。

ちなみに、『籌海図編』所収の「日本国図」に描かれた五島地方の地図の中に「週記」(宿の音記)の地名が記載されており、この時代の中国においてもよく知られた「船泊」の港であったということができます。

●「宋商人」渡来

後章「日中往来と五島列島」で詳述するように、東シナ海に突き出た「五島列島」は、アジア・中国大陸に開かれた海上交通の中継点として古くから着目され、重要な役割を果たして来ました。遣唐使船や遣明使船が寄泊した事実は『肥前国風土記』や『策彦周良入明記』によって知ることができます。

遣唐使の発遣が中止された八九四年以降、海外からの来航が増加しました。唐滅亡(九〇七年)後、呉越が初めて入貢したのが九三五年、宋との交流は、九八〇年に「陳仁爽」という商人が渡来してきたのが最も古く、これ以降、一一二六年に北宋が滅びるまでの約一五〇年間、日中間往来は一〇〇回以上にも及んでいます。

これらの多くが五島列島を経由して来航していますが、その寄港地は、玉之浦、三井楽、岐宿、奈留浦郷、日ノ島、宿ノ浦、浜ノ浦、今里、相河、青方、奈摩、小値賀笛吹、宇久平、などであったと推定されます。

また、渡航用の船が奈留浦で建造された事実は、『安祥寺恵運伝』の記載によって知ることができます。

「宿ノ浦」を中心とした若松瀬戸内の浦々(元倉・荒川・梼ノ木・笛吹・大浦・中ノ浦・白魚・築地・桐・古里・神ノ浦・神部など―以下、「若松瀬戸地域」と総称)に宋商人が寄港したことは、すでにみたように、「神部」地区の老松神社奥にある「岩陰遺跡」から出土した賽銭の中に、「祥符元宝」「天聖元宝」「皇宋通宝」「嘉祐元宝」「煕寧元宝」という北宋銭が混じっていたことによって裏付けられます。これらの鋳造年代は、いずれも宋商人の渡来時期と一致します。この事実は宋商人らが大宰府入貢の途次、この地に寄泊したことを物語っています。その際、「岩陰遺跡」に参詣し、海上の道を守る「岩屋観音」に対して航海安全と目的成就を祈願し、これらの塞銭を献じたものでしょう。

二.「若松瀬戸地域」領有の謎

複数豪族達による「在家」分割支配

このように海上交通の中継点として着目された「若松瀬戸地域」は、時代が降った南北朝期、海外活動を盛んに展開した倭寇の根拠地となっていきますが、この地域には、「二方領」「三方領」と呼ばれた所があり、志佐松浦氏・平戸松浦氏・宇久氏・青方氏らが、地域を次のように分けてそれぞれを領有していました。

志佐松浦氏・平戸松浦氏が知行した「二方領」―今里・崎土井・三日浦・南風崎・小浜・真手浦・高仏・元倉・荒川・梼木泊・中ノ浦・大浦・荒ノ浦。

志佐松浦氏・平戸松浦氏・青方氏が知行した「三方領」―宿ノ浦。

宇久氏が半分、残り半分を志佐松浦氏と平戸松浦氏が分領した「三方領」―船隠・築地・米の山・往来河内・古里・桐。

これら「二方領」「三方領」とされた土地の領有の特徴は、土地を二分・三分したのではなく、その土地の得分(貢租高)の収取単位としての「在家」(ざいけ―注四)をそのように配分したところにあったといいます。なぜ複数の豪族達が土地の分割領有ではなく「在家」を対象として分割支配するという仕組みを採用し、それが可能であったのでしょうか。
 (注四)「在家」とは、中世、住人、家屋、附属する畠地、宅地を一括した在家役の収取単位。十世紀後半から供御人(くごにん)・神人(じにん)などの非農業民を在家として編成することが始まり、十二世紀初頭には国衙(こくが)による公郷在家支配が開始された。その後、荘園で百姓名編成が進んだ畿内などでは、公事(くじ)賦課の対象としての在家は副次的な役割を果たすにとどまったが、東国や九州では室町時代にいたるまで在家支配が基本であり、在地領主が売買・譲渡の対象とした在家も存在した。また町場や港津など都市的な場においても在家支配が導入されている。(日本史広辞典)
 ●
「在家」の価値とは

「若松瀬戸地域」の「二方領」「三方領」といわれた土地は、距離的には青方氏が最も近く、次いで、峯氏(小値賀島)、宇久氏(宇久島)、平戸松浦氏(平戸)、志佐松浦氏(志佐)の順に遠くなります。従って、その領有条件が単純な地理上の遠近関係に基づくものでないことは明らかです。なぜ、遠隔地に本拠をもつ豪族達が、土地ではなく「在家」を対象として、これらを分割支配したのでしょうか。

「宿ノ浦」には水田に適した土地はなく、また、「キビナ」漁などの漁業もその経済的効果は余り期待できるものではありません。それにもかかわらず、遠隔地の豪族達が実際にこれらの地域を分割支配していました。そこに何か特別な分割支配に適した価値が存在していたからでしょう。それほど魅力のある価値とは一体何だったのでしょうか。

結論を先に言ってしまうと、それは「在家」ごとに「銭」で徴収する「間別地子」(けんべつじし=宅地・家屋などに賦課された年貢)と通交する船ごとに徴収する「関銭」(せきせん―注五)「帆別銭」(ほべちせん―注六)「勘過料」(かんかりょう―注七)などといわれた通交料がもたらす莫大な貨幣経済的価値であったのです。そして、これら貨幣として直接収取可能な価値をめぐって争い、その結果として、互いに共存共栄を図り分割領有という支配構造を採用したのです。

(注五)「関銭」とは、中世、関所を通過する人馬や荷物に課して徴収した税。関賃とともに戦国期に多く見られ、室町中期以前にはほとんど使用例がない。鎌倉後期以降、各地の湊・宿・渡などの交通の要所で通交料の徴収が見られるようになり、関所料の呼称も勘過料(かんかりょう)・警固役・船賃といった徴収目的によるもの、升米(しょうまい)・帆別銭(ほべちせん)など徴収方法によるものなど多様であった。しかし時代が下ると、交通路の一地点で通交料を徴収する行為がより一般化する。徴収施設も一般に関所とされ、関所料の呼称も、一般的な関銭・関賃が使われるようになった。(日本史広辞典)

(注六)帆別銭とは港湾に来航する船に帆数に応じて課す関所料。品川湊など伊勢以東を中心にみられ、南北朝期には船の帆一反につき三〇〇文の割合で徴収された。(日本史広辞典)

(注七)勘過料とは、中世の関所料の呼称。古代には勘過とは通関手続のことで、中世では関所の徴収物を勘過料と称するようになった。1065(治暦元)越前国敦賀津、若狭国気山津、近江国大津などの刀禰(とね)が、越中国からの運上の調物に課したのが早い例。その後戦国期まで中世を通して散見する。(日本史広辞典)

中世貨幣経済と豪族の役割

網野善彦氏によると、わが国の貨幣経済は、十三世紀後半から軌道に乗り始め、十四〜十五世紀頃には、各地の荘園・公領の年貢が市場で売却され、公事、夫役などの負担を含めてすべてが銭に換算されて支配者のもとに送られるようになり、銭貨が一層深く社会に浸透し、さらに、十四世紀以降になると、銭の送進にあたって、替銭(かえぜに・中世の為替)や割符(さいふ・手形)を日常的に用いるようになり、十貫文の割符が全国的に自在に流通するようになって来たといいます。そして、このような貨幣・信用経済発展の担い手となったのは、「海上交通を中心とした交通網の発達を背景とする広域的な商人、金融業者、廻船人、交通業者」たちや、これらの人達に実質的な力を与えて取引・交通の安全を保証した「武力を持つ海や山などの交通路の領主」と「海賊」たちであり、こうした人達のネットワークに支えられて上述したような貨幣・信用経済が成り立っていたといいます(網野善彦著『日本社会の歴史』下、岩波新書、三五〜三六頁参照)

このような貨幣・信用経済の発展があってはじめて上述したような複数豪族による分割領有という支配構造が有効に機能し、実際に採用することを可能にした、ということができます。いうまでもなく、志佐松浦氏・平戸松浦氏・峯氏・宇久氏・青方氏らは、上述の「武力を持つ海や山などの交通路の領主」たちであり、中世期の貨幣・信用経済社会で活発な交易活動を展開した豪族達に該当します。これらの豪族たちが、それぞれの領有地の在家から年貢を銭で受け取り、また、全国各地はもとよりアジア・中国大陸方面から頻繁にやってきて寄泊し交易する様々な船から通交料を取って財力を貯えました。

在家の生業

ところで、中世期、当地「宿ノ浦」を含むここ一円の「在家」の住人たちは、何を生業として生活を維持していたのでしょうか。漁業や製塩業にも従事していたでしょうが、それはむしろ副業的なもので、主な生業は、「宿ノ浦」という地名がいみじくも物語っているように、「宿在家」と呼ばれた「船宿」を経営することでした。そうすることによって宿賃を稼ぎ領主に貢租を銭で納めることが可能になったと考えられます。なお、当時の「船宿」(ふなやど)は、水主(かこ)の宿泊のほか、欠員が生じた際の船員の紹介や、船内食糧・燃料・備品などの補給や斡旋、さらに海難発生に際して船頭とともに取り調べに応答し浦証文に署名するなど、多様な機能を持っていたといわれ(山川出版社『日本史広辞典』〈ふなやど〉の項参照)、これらの諸活動に対する手数料も重要な収入源だったのです。

これらの諸事を取り仕切ったのは、一定の貫高で請け負った代官、いわゆる「請負代官」(荘主(しょうす)とよばれた現地派遣の禅僧、山臥、阿弥号を持つ時宗・浄土宗系の僧形の人、上人など)であり(網野善彦著『日本社会の歴史』下、岩波新書、三七〜三八頁参照)、また、村落座の中核的役割を果たす名主(みょうしゅ)や百姓身分の「刀禰」(とね―注八)と呼ばれる人達でした。中世部落では、この請負代官や刀禰たちが、現地に「屋敷」を構え、検注や徴税機能を請負い、また、湊や河の交通の要衝にあって交通運輸の諸機能に従事していたといわれています

(注八)刀禰とは、律令制下の主典(さかん)以上の官人と、村落の有力者をさす称で、近世の村役人の称ともなった。女性の場合は女刀禰(ひめとね)といい、後宮の女官を称する儀式用語として現れる。平安時代には平安京におかれ、京職のもと土地売買の保証や在家などの検察にあたる保刀禰、農山漁村で田畠売券の保証などの機能を果たす郷刀禰・村刀禰・里刀禰・浦刀禰・総刀禰、伊勢神宮におかれた宮刀禰など種類も多い。中世部落では検注や徴税機能を負ってもいたが、一方では村落座の中核的役割を果たす名主(みょうしゅ)や百姓身分の者だった。また山野河海との関係が深く、湊や河の交通の要衝にあって交通運輸の諸機能に従事するなど、港湾・漁村などの社会集団と関係が深かったとされる。(日本史広辞典)

 三.屋敷をめぐる紛争

『青方文書』に残された屋敷紛争の事実

請負代官や刀禰たちの「屋敷」や在家が経営する「船宿」は、莫大な財貨を生み出すため、土地と同様に売買の対象とされ、その帰属をめぐってしばしば領主間の紛争の種となりました。中世の「宿ノ浦」の状況について、『角川日本地名大辞典 四二 長崎県』〈しゅくのうら〉の項では、次のように記しています。

〔応安八年六月十九日付宇久松熊丸等連署押書状案には、「中浦目内宿浦事」と見え、志佐氏知行地で屋敷紛争があり、宇久氏外二名の仲介斡旋の連署の上、契約がなされている。永徳三年七月十三日付与等連署押書状案によると、「宿浦かう阿ミかあとの事」について、寄合裁くことが記され、同日の宇久覚等連署押書状案には、「宿浦の突出の屋敷并その前のやしき以下事」につき、覚等が寄合裁くことが見える。また、年月日未詳の「宿浦東浦屋敷注文案」があるが、これはこの屋敷紛争に関連して作成されたと考えられる。なお、(中略)近藤定秀書状写(中浦辺堺目日記)よれば、宿浦は南北朝期の中頃三方領すなわち、平戸松浦氏・志佐壱岐守・青方氏の三氏の分領地となり、先のごとき紛争が起こる可能性を常に秘めていた。〕

『青方文書』に残されたこれらの事実は、「屋敷」や「船宿」が売買の対象となったことを如実に物語っています。紛争の直接の原因は、すでにみたように「屋敷」「在家」から取り立てる貢租や交易商人から徴収する通交料など、そこから産み出される貨幣経済的価値の争奪にあったといえます。しかし、紛争の真の原因は、このほかに領有支配権をめぐる政治的紛争にあったようです。紛争の去就は豪族達の支配権を左右する程に大きな影響を当事者に与えました。その真相が何かが謎です。

屋敷争奪紛争の真相は?

「応安八年六月十九日付・宇久松熊丸等連署押書状案(連署人―松熊丸・満・栄)の内容(注九)はおおむね次のようです。(注 押書・おうしょ―ある事を履行し、また、服従させるための誓約書)

「志佐方所領知行の屋敷を、松熊丸の後見人(山代満・栄)らが、松熊丸の知行屋敷としたところ、有河氏の口添えにもかかわらず、志佐方が承知しなかった。また、乱行に難儀しているが、理非の争いは、志佐氏に話をして追認させ、落着すべく誓約する。」

(注九)青方文書付番三二九 久松熊丸等連署押書状案 「中浦目内宿浦事、志佐方所□知行御事に候之処ニ、屋敷三□(名付有別紙)、一円知行候によて、有河殿申され候といえとも、無承引、先□令糺給候ニよて、及難儀候間、先宇久松熊丸殿中途□□□され候、理非の事ハ追志佐□申被談候て、可有落居候、若此条偽申候者、八幡大菩薩御罸於可蒙罷候、仍押書状如件 応安八年六月十九日  松熊丸、<童名之間>満栄侍」

松熊丸は、阿野対馬守の嫡子で、後の宇久氏九代当主「勝」(まさる)となる人物です。この紛争対象屋敷が実際に松熊丸の所領となったのは、永和三(一三七七)年になってからで(中島 功著『五島編年史』国書刊行会)、紛争は誓約書通り一件落着となりましたが、問題は、@ 応安八(一三七五)年の時点で、なぜ志佐方がすぐには承知しなかったかということと、A 文脈から判断して、後見人らが強引ともいえるやり方、つまり、事前に志佐氏の了解をとらずに志佐方の屋敷を松熊丸に知行させようとしたか、という点です。

@の問題の原因が、事前の了解が無かったからというのではあまりにも単純すぎます。後見人らが「山代氏」(初代「囲」以来、五島追捕使・定使職を歴任した有力氏族)であったからか、それともこの時期、松熊丸を宇久氏八代当主「覚」(さとる)の養子として、分領主の志佐松浦氏・平戸松浦氏・青方氏らが認めようとしなかったからなのでしょうか。「親子起請文」と呼ばれる「宇久覚置文写」(青方文書付番三三七号)の日付は、応安八年から数えて六年後の永徳元年十一月二十五日となっています。恐らくこれらの理由が複雑に絡み合って志佐方はすぐ承知するというわけにはいかなかったのでしょう。

Aの問題については、「宿浦かう阿ミかあとの事」件(青方文書付番三三九号)および「宿浦の突出の屋敷并その前のやしき以下事」件(青方文書付番三四〇号)と密接に関連しています。青方文書付番三三九号(注一〇)と三四〇号(注十一)の事件は、その内容を分析してみると、いずれも宇久覚が主体となって関与した事件です。

(注一〇)青方文書付番三三九号 與等連署押書状案 「宿浦かう阿ミかあとの事によて、有河・あを方の人々の御さはくとして、せうせうらきよ候といへとも、なをもて心えかたきしさいら条々候之間、かさねてたう浦にまかりこえ、しさいなけき申候ところに、宇久殿・奈るとのめんめん御こえ候て、御さはく候あいた、たふんおほセにしたかい候ぬ、たゝしもとまろと申候ふね一たんの事ハ、おて御さたあるへきよしうけ給候あいた、かさねての御さたを待申候へく候、所詮、きやうこうにおきてハ、いかなるむねんのきり候といふとも、めんめんの御さはく方へあんないを申入候ハて、かいにまかせ候事あるましく候、仍こ日のために押書状如件、 永徳三年七月十三日 与、満、続」

(注十一)青方文書付番三四〇号 宇久覚等連署押書状案「 宿浦の突出の屋敷并その前のやしき以下事、今度たまたまさんくわひ候間、先さはくのむねニまかセて、そのさたをきわめ、しさ方ニさいそくセしめ、りうむのまゝさたしつけ申へく候処ニ、公私とり乱す時分にて候、以後一両月中ニ此人数参会候て淵底さたをきわめ、きつそくニしつけ申へく候也、仍為後日押書状如件、 永徳三年七月十三日 安、重、覚 西浦目人々御中」

なぜ宇久覚が分領主でなかったにもかかわらず関りを持ったのでしょうか。それは「宿ノ浦」を宇久氏陣営の支配地としたかったからです。宇久覚は「倭寇」といわれた活動を通じて、朝鮮・中国・琉球との交易が莫大な利益をもたらすという認識を持っていました。そこで、交易の拠点「宿ノ浦」を手中に納め、そうすることでこの地域を含む五島列島全体の覇権を確立しようと画策しました。切り札は「松熊丸」です。宇久覚は、この「松熊丸」を養子として前面に押し立て、志佐松浦氏ほかの豪族達を説得・懐柔に成功し、もくろみ通り「宿ノ浦」の領有権を獲得していったのです。

以上が「志佐方の屋敷を松熊丸に知行させようとした」ことの真相であったと考えられますが、なお、ここで、志佐松浦氏ほかの豪族達、いずれ劣らぬ御家人と呼ばれた武士達が、なぜ宇久覚の説得に応じたかという問題が残ります。

「松熊丸」の出自

当時、これらの豪族達は、自分達より身分や地位が高い人物、例えば朝廷や鎮西探題などの要請でなければ、それを受け入れ、納得し、服従するようなことはしていません。それがなぜ自分達と同格の宇久覚の術中にはまったのでしょうか。それは、宇久覚が養子とした「松熊丸」の出自に関係があった、と考えられます。「松熊丸」は、阿野対馬守の嫡子でしたが、父・阿野対馬守が高貴な血筋、例えば「懐良(かねよし)親王」(後醍醐天皇の皇子・征西将軍宮)あるいはそれに近い系譜に繋がる人物だったのではないでしょうか。このような高貴な血筋をひく「松熊丸」だったからこそ、彼を養子として押し立てた宇久覚の要請にこの地域の豪族達が応じたと考えられます。

この作業仮説を立証するような史料は、今のところ何も発見されてはいませんが、永徳三(一三八三)年七月十三日に作成された青方文書付番三四〇号事件の本文中に「公私とり乱す時分にて候」とあり、懐良親王が他界したのがこの年の春であったことなど、上記の紛争事件を色々な角度から分析して行くとどうしてもこの結論に到達せざるをえません。

屋敷売買の事実

さて、「宿浦東浦屋敷注文案」(青方文書付番三三〇号)が、なぜ作成されたかについて考察を加えます。全文は、次のようです。

「(端裏書)しゅくのうらのやしきの事

  宿浦ひんかしうらの屋敷の事

一所  しようねん(浄念)かやしき、いまはまえた(前田)殿居住、

一所  えもん三郎かやしき、六郎三郎か居住、

一所  せんかくかやしき、同六郎三郎か居住、

一所  こん二郎いまもりやうはう(今も両方)の公事やしき、

一所  きやうほういまもりやうはう(今も両方)の公事やしき、

一所  ひこ太郎かやしき、

一所  大宮司か公事やしき、おん(穏)阿ミた仏居住、

一所  けん二郎、つきい二郎のやしき、

一所  おん(穏)阿ミた仏、 (注:カッコ内は、筆者の加筆)

表題中の「注文」は「注進状」を意味します。とすると、この文書は、誰かに何かの目的で注進したものということになります。宛先や目的の記載がないので推定するしかありませんが、この文書は、「在家」の「検注」(けんちゅう・中世の土地調査で、私領の設定や作柄調査のために行われたほか、領主の代替わりなどに際しても行われた)目的で作成されたものであり、状況から判断して、この時期、領主の代替わり(志佐松浦氏から宇久氏)があったと考えられます。宛先は、志佐松浦氏・宇久氏・平戸松浦氏・青方氏のいずれかの領主であり、作成者は、前述した請負代官か浦刀禰といわれた人物であったに違いありません。そして、検注の対象となった屋敷が「船宿」等であったのです。売買の対象となったということの痕跡は、例えば「一所  しようねん(浄念)かやしき、いまはまえた(前田)殿居住」とあるように、所有者が替わっていることを明記している点に認められるでしょう。


 四.「歳遣船」と「白魚千軒」のこと

「歳遣船」

十五世紀、宇久氏十三代当主「勝」(かつ)は、ほとんど毎年、歳遣船を発進していました。その発遣回数は、一四五一年から一五〇四年に至るまでのおよそ半世紀の間に、合計七九度にも及んでいます。年に一〇度も発遣した年(一四五五年)もあります。この事実は、「李朝実録」によって知ることができます。また、「宇久」の名は中国で作成された日本地図にも見られるという程に知れ渡っていました(『角川日本地名大辞典 四二 長崎県』〈うくじま〉の項参照)

この時期、このように活発な活動を続けることが可能であったのは、前述したように、宇久氏八代当主覚が「宿ノ浦」の領有支配権を獲得して五島列島全体の覇権を確立していく地盤固めをしていたからでしょう。そうでなければ、宇久氏十三代当主勝は、歳遣船による交易活動を上述したように頻繁に行うことはできなかったに違いありません。後述する「白魚千軒」の伝承もこの歳遣船の活動と決して無縁ではないのです。宇久覚の慧眼・洞察力は恐るべきです。ともかく、宇久氏十三代当主勝の時代は、宇久氏が海外貿易によって最も栄えた黄金時代でした。日朝貿易の交易品は、輸入品が穀類・布類中心であったのに対し、輸出品は丹木・蘇木・香料などの南方物資、硫黄・馬・武具などでした。これらの物資は、「宿ノ浦」を中心とした「若松瀬戸地域」の浦々に来航して来る「中国・琉球商人」や「博多・堺商人」との交易によって調達されました。なお、勝は、一四六五年(寛正六)に、幕府から遣明船の警固を命ぜられています。

「何々千軒」

「宿ノ浦」東隣の奥まった入江に面した地域に「白魚」という所があり、ここは「白魚千軒」といわれたほどに、一時期繁栄したようです。上述した歳遣船の交易に関係した「船宿」などの屋敷が千軒に達するほど数多く建っていたからこのように伝承されたのでしょうが、その確証は未だ得られていません。しかし、「何々千軒」と伝承されている所は、日本の至る所に残されているといいます。例えば、「由利千軒」(愛媛)・「草戸千軒」(広島)・「黒川千軒」(山梨)などの伝承がそれです(網野善彦著『海民と日本社会』新人物往来社、五一頁参照)

網野善彦氏は、「今は一見、全くの寒村、人口の少ないさびれた小さな村に見える海辺の集落が、中世から近世にかけて非常に豊かで繁栄した港町であった」という事例の一つとして、瀬戸内海の西部に浮ぶ忽那(くつな)諸島の中の小さな島、愛媛県の由利島(ゆりじま)の「由利千軒」という伝承を取り上げ、次のように述べています。

〔由利島の「由利千軒」については、まだ明らかにされていないものの、島を歩いてみますと、「鍛冶屋の尻」、「船頭畑」、「長者屋敷」、「寺屋敷」のような地名が残っており、実際に、ある時期まで、寺院や神社のあったことを文献から確認することもできるのです。伝承によると、この島は地震による地形の大変動によって沈み、そのため町が滅びてしまったということになっていますが、私は恐らくかって、さほど大きくはないにせよ、この島には町と言ってもよいような集落が本当にあったのではないかと思っています。〕(前掲書、五一頁)

この「由利島」は「二神島」に属する離島ですが、かつて海の領主であった「二神家」に伝来の「古銭」の中に「祥符元宝」「天聖元宝」「皇宋通宝」「嘉祐元宝」「煕寧元宝」という北宋銭が入っています(『歴史と民俗  神奈川大学日本常民文化研究所論集十三』平凡社、三〇〇頁・一覧表参照)。このことは、当地「神部地区」の「岩陰遺跡」から出土したものと同じ北宋銭が「二神島」にも流通していたことを物語っています。

当地の「白魚千軒」の地域を少し広げて「宿ノ浦」から「荒川」「元倉」までを含む地域と捉(とら)えると、「由利千軒」にあったという「鍛冶屋の尻」「船頭畑」「長者屋敷」「寺屋敷」のような地名と類似するか全く同一の地名が、これらの地域にも残されています。従って、「白魚千軒」は「由利千軒」と同系統の集落をさす呼び名であったと推定して間違いありません。

「二方領境界地図」

正保二(一六四五)年七月廿八日付の役職者(十二名)記名入りで、平戸・五島両御役に提出するために作成された絵図、「二方領境界地図(宿之浦・荒川)」が残されています。歳遣船が活躍していた時代よりずっと後の江戸時代に入ってから作成されたものですが、この絵図を調べて見ると「白魚千軒」といわれた時代の痕跡がわずかに残っているように思われます。

例えば、「二方元(本)倉」地区には、「平戸領屋敷」「二方社人屋敷」「二方地蔵堂」などがあり、「二方領荒川村」地区には、藤原氏一族の居宅群二〇軒が整然と三列に描かれています。「宿ノ浦」地区では、決して広いとはいえない浦沿いや岬の上に五九戸の居宅(五島領三二、平戸領二七)が軒を並べ、「弐方観音堂」「平戸領観音堂」があり、さらに、宿ノ浦と白魚浦の境界線上に浮んでいる「八王島」には、「弐方山王権現」「五島白魚権現」が祀られています。この他に、「弐方中ノ浦」「弐方笛吹浦」「弐方大浦」の入江沿いには、「五島領田」「平戸領田」が描かれています。しかし、残念なことに、この絵図には「白魚」地区に数多くあったと思われる屋敷が描かれていません。それは、ここが五島氏一円領で、記入する必要がなかったからでしょう。

現在、この地域には、事跡として、白魚の「千人塚」「板碑・五輪塔・宝篋印塔」、宿ノ浦薬師堂の「懸仏」(もとは白魚にあった)、荒川郷の「寺屋敷」「大工」「紺屋」「鍛冶屋」「鋳物師」「山王権現」「報塞鏡・銭」などがあり、また、地名として、荒川郷の「横浜・元倉・蔵小島」、宿ノ浦の「宇治前・浜着・鎌ヶ倉・島ヶ倉・浜泊・船着・平戸田・薬師田・白髪殿木場・入道浦・横浜・ヤク丸」、若松郷の「天神宇戸・竜権宇戸・上天源・下天源・アザ丸・上宿・下宿」などの「小字」があります。前記「由利千軒」の事跡と合わせ考えてみると、これらはいずれも「何々千軒」ということをほうふつとさせる事跡であり地名であるように思われます。

 
五.「山王権現」

「雄嶽日枝神社」

荒川郷には「三王山」という標高四三九メートルの山があります。この山は、雄嶽ともいい御嶽ともいわれていました。古くから信仰の山として知られ、「雄嶽日枝神社」(古称は「山王権現」)が祀られています。遣唐使(最澄)らは大陸への船旅が大変危険であったので、この社に平安無事を祈願して出航し、帰路には一際目立つ三王山を目標に航海したといいます。

「山王権現」という呼び名は、延暦寺(最澄が開創)側から比叡山の地主神・日吉(ひえ)神社(日吉大社ともいう)を呼ぶときに用い、天台教学の神道論にもとづき北斗七星との対比から山王七社が体系づけられ、さらに山王二十一社に発展したといわれています(山川出版社『日本史広辞典』)

この神社に古い棟札が保存されており、それには「天和三(一六八三)年霜月  奉再興山王廿一社権現宝殿一宇  大壇越松浦肥前守源鎮信」と記されています。これ以前の棟札が現存していないので確かな年代は分かりませんが、この神社は、弘仁十(八一九)年、「山王権現」という名称が用いられるようになった頃に勧請されたという伝承があります。しかし、勧請した人々がどういう人達であったかということの確証的な伝承はありません。

「日吉神人」

この問題については、網野善彦著『海民と日本社会』【海の領主 安藤氏と十三湊】の中の次のような記載(五八〜五九頁)が一つのヒントを与えてくれます。

〔十二世紀の北陸には比叡山延暦寺、それと結びついた日吉神社の進出が非常に顕著になってきます。北九州、瀬戸内海から淀川、宇治川を経て、琵琶湖に入り、湖を経由して日本海の敦賀、若狭に出る、日本列島を横断する大動脈と言ってもよい河海の道がありますが、この大動脈の至るところに、恐らく金融業者でもあり、廻船人でもあったと推定される日吉神人(ひえじにん)、日吉の神に直属する特権を持った人々が活躍していました。〕

この記載から、荒川郷に鎮座する「雄嶽日枝神社」(山王権現)は、前記引用文中の「日吉神社」と密接に関連していたものと考えられ、従って、当地の「山王権現」を勧請したのは、活動の場を求めて当地にもやってきた、この日吉の神に直属する特権を持った「日吉神人」たちであったと推断することができます。

また、当時の集落を構成していた「在家」というのは、供御人(くごにん)・神人(じにん)などの非農業民を「在家」(貢租収取単位)として編成したものといわれていますから、この観点からみても、「宿ノ浦」「白魚千軒」を含む地域を拠点として活動していた「在家」の住人達は、「供御人」や上述の「日吉神人」を中心とした人達であったと考えて間違いありません。このことは、この地域(荒川・宿ノ浦など)が「二方領」「三方領」という「分割領有」の対象とされたこととも関連しています。

「神人」と「海民」

前掲書のなかの【海上交通の要衝 宗像】の次に引用する記述は、さらに当地の「海民」たちを知る上で参考になります。

〔・・・一つ注意したいことは、神人といわれる神の直属民の集団が小勝浦、大島、吉田、峯、麻町、木下、内殿、許斐、村山田、浪折等々に分布していたことです。こういう神人たちは神事に奉仕しただけではなく、海上交通に関わるさまざまな職能を独自に展開していたに相違ありません。・・・、こういうところに根拠を持っている海人の内で有力な人々が、神人の身分を与えられており、宗像社がそういう海人の活動を組織していたことも明らかです〕(網野善彦著『海民と日本社会』、三〇〇頁)

そして、このような宗像社を押えることは、当時の中国大陸との交易の拠点を押えることにもなったので、当時のより高位の支配者にとって重要な意味を持っていたといいます。

さらに、「このころの貿易に携わった人々の問題」について、新安沖沈没船(注十二)に勧進聖が乗っていたこと、こういう律宗や禅宗の聖・上人といわれていた人々は資金をさまざまな方法による勧進を通じて蓄積し関所を建てて関料を取り棟別銭の賦課を公権力によって認められて勧進をするなどの方法で事業資金を調達したこと、それによって土木工事を行い「唐船」を建造して鋼首や水手を雇用し北条氏を初めとする武家や公家の積荷を積んで大陸に渡る場合が十四世紀になると多くなってきたこと、この「唐船」は筑紫で建造されたという実例があり日本列島でも造られたがその建造技術は中国から入ってきたこと、十四〜十五世紀にかけての貿易・商業はこういう僧侶あるいは僧形の人々によって担われていたということ、など、具体的に事跡を挙げて解説しています(同前、三〇三〜三〇四頁)
 注十二 新安沖沈没船(しんあんおきちんぼつせん) 韓国の全羅南道新安郡沖で一九七六年に発見された沈没船。一三二三年東福寺再建の費用をえるなどの目的で、中国の元の慶元(現、浙江省寧波ニンポー)から日本にむかった寺社造営船とみられる。元代初期の陶磁器・銅銭・紫檀材など莫大な積荷があり、東アジア貿易の一端が知られる。乗組員は中国人・日本人・朝鮮人の混成。

ドラマを演じた主役は?

上記引用の「小勝浦・・・等々」を「元倉・荒川・宿ノ浦・白魚」に、「宗像社」を「日吉大社」に、「律宗や禅宗の聖・上人」を「宿浦東浦屋敷注文案」(青方文書)の「しようねん(浄念)・せんかく・おん(穏)阿ミた仏」に置き換えてみると、それはまさに当地の事跡を解説した叙述そのものということができます。

このように対置してみて明らかなように、当地、中世の「元倉・荒川・宿ノ浦・白魚」は、宗像社の場合と同様に、「日吉大社」が在家の住人たちの活動を組織していた港津都市であったといえます。そして、「海」を舞台に自由闊達なドラマを演じた「海民」たちは、「日吉神人」を中心とした人達であり、また、荘主とよばれた現地派遣の禅僧、山臥、阿弥号を持つ時宗・浄土宗系の僧形の人、上人たちであったということができます。

 おわりに
 ●「日吉神人」の事跡は「埋もれた歴史の謎」を解き明かす鍵

中世の「若松瀬戸内浦地域」にあった「二方領」「三方領」の謎を解き明かすることから始まり、「宿ノ浦」「白魚千軒」の謎や「山王権現勧請」の由来を探ってみた結果、色々なことが明らかになってきました。解明されたこれらの事跡、特に「日吉神人」関係の事跡をさらに地域範囲をひろげて当地の様々な事跡に当てはめて考察してみると、これが「鍵」となって作動し、当地の各地に残されている様々な「埋もれた歴史の謎」が解き明かされ、「忘れ去られた事跡」が鮮明に蘇ってくるように思われます。列挙すると以下のとおりです。

◎「神部」や「神ノ浦」に、なぜ「神」の字が付いているのかという謎

・「神部」や「神ノ浦」地区は、「日吉神人」たちの領地であった。

・「神部」は、彼等が居住したので、はじめは「神人たちの部落」といっていたが、短縮して「神部」と呼ぶようになった。

・「神ノ浦」は、「日吉神人」たちが祀ったと考えられる塩釜神社との関係から「神」が鎮座する「浦」としてこのような呼び名がつけられた。

◎「天源」という呼び名の謎

・神部「老松神社」奥の「岩陰遺跡」は、北の方角に位置することから、山王神道の北斗七星信仰の霊場とされ、「天」の恵みの発する「源」がここであるという意味で名付けられた。「七頭子宮」の「七頭」も同様の信仰に基づいて名付けられた。

・荒川山王宮二の宮は、山王神道の北斗七星信仰の霊場として「老松神社」奥の「岩陰遺跡」と関連していた。古賽銭、鰐口、報賽鏡の分析結果が立証の鍵となろう。

◎「若松」極楽寺の銅造如来立像、「神部」海蔵寺の十一面観音、「日ノ島」円通寺の十一面観音、「宿ノ浦」薬師堂の懸仏、などの搬入由来の謎

・「海上交通を中心とした交通網の発達を背景とする広域的な商人、金融業者、廻船人、交通業者」たち、「武力を持つ海や山などの交通路の領主」と「海賊」たち、「請負代官」(荘主とよばれた現地派遣の禅僧、山臥、阿弥号を持つ時宗・浄土宗系の僧形の人、上人など)・「刀禰」と呼ばれた人達、が搬入した。

◎「日ノ島曲碕・釜ヶ碕」の「塔」を誰が「日引」から搬入したかの謎、ほか

・「日吉神人」たちが請負搬入した。

・「日ノ島」は、青方氏・志佐氏・宇久氏(後、五島氏)ではなく、より上級の権力が領有支配した。

以上、作業仮説として直感的に関係事項を列挙してみましたが、これらは、さらに掘り下げて研究する必要があり、郷土誌研究の今後に残された課題といえます。