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瀬戸音信

   源流を訪ねて
   ―始祖の地探訪の旅―                                                                                                                                                    (自己紹介を兼ねて)                                  

 

 







良寛生誕地橘屋跡







与板組割元
新木与五右衛門
屋敷跡
                                  


新木氏先祖墓

 


      「源流を尋ねて」始祖の地探訪の旅

                      新 木 涵 人

発端 「新木は荒木か?」これが探求すべき課題の基本であった。なぜ「新木」を「しんき」と呼び「あらき」と呼ばないのか。世の中のほとんどの人は、「新木」は「あらき」と呼ぶ。この呼び方が普通なのだ。

親父や伯父たちは、「荒木」から分家して「新宅」をかまえたので「あらきのしんたく」という意味で「新木」と書き「しんき」と呼ぶようになったといっていた。子供のころは、怪しみつつもなるほどと納得していた。

物心がついていくらか書物が読めるようになってくると、親父たちの話はどうもおかしいと思うようになってきた。「新木」を「しんき」と呼ぶのは、重箱読み(上の字を音、下の字を訓でよむ読み方)だということを知ったからである。

通常の読み方だと「あらき」(訓読み)か「しんぼく」(音読み)である。しかし「しんぼく」では日本の名字読みとしては様にならない。そこで、ご先祖様はなにかの理由により重箱読みとなることを承知の上で、あえて「しんき」という呼び方を選んだと考えてみた。本当にそうなのか。「なにかの理由」とはなにか。名字読みの謎は深まるばかりであった。

一つの解 五島に来て早くも満七年たったが、この地域で「荒木」姓の多いことに驚いている。とくに今住んでいる「神部」地区は、右も左も「荒木、荒木、荒木、・・・」で、電話で「荒木」ですといわれると、「どこのなんと言うお名前の荒木さんですか」と聞き返さなければならないほどである。

声による識別ができるようになるまでには相当の時間がかかったが、それでも電話で名字だけを言われると戸惑ってしまう。まして「新木」を「あらき」と呼んだら大変である。声による識別もさることながら、「どこのあらきさんですか」と問われると、「あたらしい木と書くあらきです」などと説明せざるを得ず、わずらわしいこと限りがない。

そこでご先祖様は、このわずらわしさから逃れ「荒木」との混同を避けるために「新木」を「しんき」と読むことにした。それ以来、「新木」は「あらき」ではなく「しんき」と呼ばれるようになった。これが私の到達した一つの解である。当たっているか否かはご先祖様にお聞きしなければならないが、今はそのすべもなく、ただ「そうなのだ!そうなのだ!」と自認するほかない。

ご先祖 当地の伝承(『若松町誌』)によると、「新木」の遠祖は「喜代助」といい、宮大工であった。敬神家で、ある時「神部七頭子宮」天之御中主神を祭祀した神社の御神体がキリシタンによって海に投げ捨てられるなどの災難に遭ったが、この事実を知った「喜代助」は、再び神威が穢されないようにと、御神体を海中から救い出して現在の「若松神社」に遷座した。元禄元年辰(1688)九月のことであったという。

また、「神部」地区の「老松神社」の由緒書に、次のような記載がある。
「慶長十八年(
1613)、当時、切支丹宗に帰依するもの多く、従って宗徒の跋扈甚だしく遂に御神体を海中に投ずる等不敬の限りをいたせし、時に、偶々敬神家にして日島大工新木喜代助氏、或る夜霊感に依り御神体を海中より迎え若松の字天神宇戸、現在の地に若松神社として鎮座し奉りしこと藩記に残れる云々。」(昭和三十三年十一月に書かれた由緒書から抜粋)

この由緒書に記載の「慶長十八年」は「御神体」がキリシタンによって海に投げ捨てられた時期のことで、「喜代助」が「御神体を海中より迎えた」時ではなく、その時は、前述の「元禄元年」が正しいと考えている。

さて、前置きが長くなったが、この「新木喜代助」が問題のご先祖様であり、このご先祖様が「日ノ島」にやってきて、「荒木」との混同を避けるために「新木」を「しんき」と呼ぶことにしたのであろう。ところで、このご先祖様は、どこから何をしにやってきたのだろうか。ここから「源流を尋ねて」、始祖の地探訪の旅が始まる。

出身地 元禄のころ、金物(刃物・大工道具など)の全国一の生産地とされ、今でも伝統刃物が作られているところがある。「新潟県三島郡与板町」である。

江戸時代、牧野氏・井伊氏が藩主であったころ、「与板町」は河川交通の便が良いことなどの地理的条件を生かして、商・工業の町として大いに繁栄し、越後屈指の豪商(大坂屋)が輩出したところという。ここに代々「新木」姓を名乗る一族が住んで居り、その末裔は今もこの地で活躍している。

わが「喜代助」は、この「与板町」が故郷であった。五島「日ノ島」の代官から寺社の修造を依頼され、「北前船」に便乗して若者たち三人と共にはるばる「与板町」からやってきた。ところが、「喜代助」は「日ノ島」の娘とねんごろになり居ついてしまった。

これは伯父から聞いた話である。伯父は、生前、自ら「与板町」に赴むいて調査しこのことを確認したといっていた。たぶんに伯父の創作も入っているだろうが、あながち「嘘」だとは言い切れない。実際にありうる話しと思われるからである。

この話の真偽はともかく、なぜ「与板町」かが問題である。伯父は「新木」と名乗る一族の源流はここであると、「地名・人名辞典」などを調べて突き止めていたらしい。

このことを裏付けるような事跡がある。かの有名な「良寛」の父親の出身地がこの「与板町」なのだ。「良寛」の父親は「山本以南」といい、与板町の「割元・新木与五右衛門」の息子で、出雲崎の山本家の養子となった人である。「良寛」に関する本のほとんどにこのことが書いてある。

旅立ち 「新木」を「しんき」と読ませるようになったのは何故か、ということに問題意識をもつようになってから、一度は「与板町」を尋ねなければならないと思い続けてきた。今年(2003)の五月末、ついにその機会が訪れた。

新潟月岡温泉で仲間たちとの会合が企画され通知が届いた。また、この日の一週間前に、大阪の仲間たちとの同窓会が開かれるとの連絡を受けた。千載一遇のチャンス、また、十日ばかり「島抜け」ができると早速計画を立てた。

パソコンの「乗車案内」で予定経路・時間などを調べ、あれこれ吟味して長崎の旅行業者にFAXで乗車券等の注文を出した。大阪(2泊)、出雲崎(2泊)、与板町(1泊)、新潟(2泊)、月岡温泉(1泊)、長崎(1泊)の行動予定である。

幸い出発の日の天候は穏やかで船旅も順調であった。「白いかもめ号」で博多に向かう車窓からいつも眺める景色を楽しんでいたが、雲行きが怪しく、旅行中の天気が気になってきた。案の定、天気は西からくずれるとの予報である。「与板町」での調査の成り行きを占うかのように暗雲がたなびき、期待した成果が得られないのではないかと少々不安になってきたが、ともかく実行あるのみと気合を入れる。

ともあれ、大阪では「中ノ島図書館」で、島やインターネットでは得られない情報を入手し、行く先々でもできるだけこれらの情報を収集すべく記念館や公共機関(市・県・大学の図書館)を大いに活用した。

「出雲崎」探訪 まず、「源流を尋ねて」始祖の地探訪の旅をここから始めた。「良寛」に関する情報を収集するためである。「良寛」は、岡山の玉島円通寺での修行後、托鉢の旅に出て西北九州「唐津」へ行脚している。が、やがて四国に現れるまでの期間、まったく消息が途絶えてしまっているといわれている。

なぜ消息を絶ったか。この疑問に対して、「良寛」は仏教文化の聖地・中国へ渡って直接仏教の真髄に触れたいと強く願っていたので、「中国へ渡ったから消息を絶った」という説がある。柳田聖山という京大名誉教授がnhk教育テレビ番組199099日、日曜日、AM8:00〜放映)で「良寛の禅境」と題してこのことを語っていた。

しかし、「良寛」に関する本のほとんどは、実際には中国へは渡らなかったとしている。海外への渡航は禁じられていたから、国禁を犯してまで実行はしなかっただろうというのである。本当にそうなのか。「良寛」は、出雲崎「光昭寺」で剃髪し修行に出て越後に帰住するまでの二十年間、自分自身に「沈黙」を課し、一切黙して何も語らなかったらしい(吉野秀雄著『良寛和尚の人と歌』彌生書房、三十頁)

この壮絶なまでの「沈黙」は、何を意味するのか。実際に国禁を犯して中国へ渡ったからではなかったか。

このことについて、京大名誉教授の説と同様に「良寛は中国へ渡った」とし、さらに、手引きをしたのは「日ノ島・新木喜代助」の子孫であるという仮説を立てた。

そこで、これらの事跡、とくに「中国渡航」に関する確実な資料はないものかと「良寛記念館」を訪ねた。期待した資料の発見はなかった。が、「唐津」への行脚の事実は、須佐晋長著『良寛の一生』という本で確認することができた。また、『沙門良寛全伝』という本に、次のような記載があることも確認した。

「或人曰、禅師雲水して西長崎に行脚す、蓋渡清求法の意志ありしが如し、愧缺扶養九萬翼漫学鳴鳳在彼崗の詩其の気概を想見すべしと、舟子其乞丐僧に類せしを以て之を拒絶したる為に素懐を果さざりしか。」

引用文の最後が「か」という疑問形で終わっている点は、注目すべきである。「果たしたかも知れない」というニュアンスが残っているからである。

さて、「良寛記念館」を訪れた翌日(2003528日)、出雲崎を後にし、いよいよ「中国渡航」や「日ノ島・新木喜代助」に関する確たる証拠を求めて与板町に向かった。

「与板町」探訪 朝855分、出雲崎車庫発長岡駅行き越後交通バスに乗り、脇野町で与板町行きバスに乗り換えるべく下車。やがて長岡方面からバスがやってきたが、そのバスは走行わずか3分先の「宮沢」というところ止まりで、「与板町」行きのバスは一時間後までないという。運転手が気の毒がっていたが、一時間も待てないので乗ることにした。「宮沢」の停留所で下車する際、親切にもバスの時刻表と与板町への道筋を教えてくれた。

幸い晴れた日だったので歩いて行くのに都合が良かったが、かんかん照りで汗だくになる。一本道は、広く開けた越後平野のはるか向こうの集落へ延びていた。あれが「与板町」だと見当をつけて歩いていると町境を示す標識が立っていた。

道すがら「若宮神社」「こもり地蔵堂」「阿弥陀如来坐像」などの文化財を見聞しつつ歩いて行くと、一時間ほどで町外れについた。クリーニング店があったので、道を尋ね、町の教育委員会事務局を訪れた。そこは体育館の正面入り口を入って左側の事務所の中にあった。受付窓から訪問の目的と自己紹介をすると、「歴史民俗資料館」に行くように勧められた。そして、教育長(後ほど判明)が丁度その近くの小学校に行く用事があるので送ってあげましょうと、親切にも送ってくれた。

歴史民俗資料館の受付には、あらかじめ事務局から連絡がしてあり、郷土史などの資料の閲覧を許可してくれ、お茶の接待までしてくれた。たまたまこのとき、町の文化財調査審議委員会長の小林繁雄という方が来館されており幸運にもお会いすることができた。そこで改めて自己紹介と訪問の目的を告げた。

小林繁雄氏は、郷土史に「与板組割元新木与五右衛門」について執筆されている方で、「新木家」の系図を持っておられた。夕方、宿(八幡荘)にその写しを届けてくださった。また、「新木氏祖先墓」へも案内してくれた。

まったく予想もしなかった展開で驚いたが、小林繁雄氏も驚かれ、「新木家分家」の新たな発見だと喜んでおられた。帰宅後、概略次のようなお礼の手紙を出した。

〔過日(5月28日)御地訪問の際は、お忙しい中、初対面であるにもかかわりませず貴重な資料を整えて、わざわざ宿までお届けくださるなど、一方ならぬご好意を寄せていただき有難うございました。お蔭様で、短時日のうちに御地訪問の目的を完遂することができました。心よりご厚意に感謝申し上げます。

さて、頂いた「与板新木家系図」と当地日ノ島「新木家系譜」(別紙)の関係を、没年にもとづいて図解して見ました。その結果、「七代与五右衛門」と「喜代助」(与板より元禄元年ごろ移住したと推定される小生の遠祖に当たる人物)とは、同世代人であることがわかりました。そして「和四郎」(別紙系譜筆頭の人物)は、「喜代助」の孫に当たり「良寛」とは同世代であることも分かりました。これらの事実は、小生が課題としている色々の事跡解明の鍵となる可能性が高いと判断され、貴重な資料を頂いたものだと感激を新たにしています。

ご案内頂いた「新木氏祖先墓」を翌日早朝写真撮影し、帰宅後この石塔に刻まれた墓碑銘を解読しました(別紙ご参照ください)。二三解読不能な文字がありますが、おおむね読み取れたものと思います。あかがしの大木の根元に改装した経緯などが刻まれており、これらは、貴重な情報です。

「与板新木家系図」によると、八代与五右衛門は、「与板四代山田四郎左衛門高重の二男」とあります。七代に男子が生まれていたことは、分家の「新木三左衛門」の祖父が七代に当たることから判りますが、なぜ、八代目を山田家から迎えたのでしょうか。山田家は、新木家の血縁だったのでしょうか。それにしても何か不思議な関係があったものと考えられます。

末筆になりましたが、水野秀雄教育長および歴史民俗資料館館員の方々にも直接お礼を申し上げるべきところ、この書状にて代えさせていただきますので、どうかその旨お伝え下さるようよろしくお願いいたします。〕

さて、「与板新木家系図」(過去帳より作成)によると、始祖は次のような人物であった。

〔 新木家中世初代

 荒木新左衛門勝時  天正二申戌年(1574)二月十八日卆

 謚号一澹斎空心道悟大居士

近江源氏の正統、佐々木四郎高綱の一族、佐々木盛綱の後裔にして、新木家中世の祖なり。勝時、主命に違う事有りて浪々の身となり、越後国三島郡与板庄に落ち、氏家と成り年月を送る。故ありて此の時より姓を新木に改む。与板町徳昌寺に葬る。〕

むすび 「新木は荒木か?」という課題をかかえ、「源流を尋ねて」、始祖の地探訪の旅に出かけたが、「与板町」でまったく思いもかけず貴重な情報を所持しておられる人物に出会い、その解答を得ることができた。「新木」は、元々は「荒木」だったのである。

ただ、もうひとつの課題、「良寛」の「中国渡航」の真偽については、確たる情報を得ることはできなかったが、日ノ島の「和四郎」と「良寛」が同世代であるとの知見を得たことは、大いなる収穫であった。これを手がかりに新たな探訪の旅が始まろうとしている。

200377日記)

 

著者略歴

新木涵人(しんきかんと)

1935 外地「永安」で生まれる。

1961 東京理科大学理学部化学科卒業

1961 旭化成工業株式会社入社(プラスチック・ゴムの加工研究、知的財産関係業務に従事)1995年まで勤務。

1996 長崎県南松浦郡新上五島町若松郷神部地区に移住(郷土事跡−日島石塔群など−の発掘解読研究のため)

1997 町文化財保護審議会委員に就任、現在に至る

主な著書 『発明誕生』(発明協会発行、1997年)

     『松浦党宇久一族の台頭と内乱』(ホンニナル出版、2007年)